日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第32回 附馬牛
【つきもうし】
25

馬と生きた遠野の村 
岩手県遠野市
2009年10月02日

岩手県の南東部、北上高地中央にある遠野とおの盆地は、東西約二〇キロ、南北約三〇キロに及ぶ。北上高地中最大の盆地で、遠野市成立以前は閉伊へい郡に属していた。附馬牛は盆地の北端からさるいし川を遡り、早池峰はやちね山(一九一三・六メートル)の前山にあたる薬師岳(一六四四・九メートル)に至る山岳地帯に位置し、「つくもうし」ともよばれる。そこの稲荷神社につきの巨木があり、樹下に多くの牛馬を放つことができたことから生じた地名と伝えている。

馬は古代から軍用あるいは貢租輸送用という支配者の必要上、熱心な施策によって飼育されてきた。一〇世紀のはじめに編纂された『延喜式』によると、皇室の料馬を飼育する勅旨牧は三二ヵ所あり、半数を占める信濃国のほか、甲斐・上野・武蔵の三国に置かれている。勅旨牧から貢馬が京に牽かれて行く八月には、天皇臨席のもと駒牽こまひきという儀式が行なわれ、詩歌などに多く詠まれた。
ところが中央政権の支配の及ぶ範囲が北上するにつれ、陸奥国の馬が良馬として知られるようになる。権貴の家、富豪の輩が競って馬を求めるため、値段の高騰を招いて兵馬の確保も困難な有様で、陸奥・出羽両国の馬を買うことが禁止されたこともあった(『日本後紀』弘仁六年三月二〇日条)。そして平安時代後期になると、特別買上馬の陸奥国臨時交易馬が駒牽行事を独占するほどになった。

源平合戦の宇治川先陣争いで知られる生唼いけづきは七戸産、するすみは三戸産といわれ、熊谷次郎直実が求めた権太栗毛は一戸産であった(『源平盛衰記』など)。中世には岩手県北部から青森県南部にかけての地域は糠部ぬかのぶ郡に含まれ、郡は一戸‐九戸に分けられていた。これは、九戸・四門制などといわれ、育馬を中心に実施された行政単位と考えられている。
文治五年(一一八九)の奥州合戦後、糠部郡の地頭に任命されたのは甲斐の南部光行と伝える。先に述べたように甲斐も古代からの馬産地であり、南部氏の牧場経営の経験が登用の理由の一つであったろう。時代は降るが、永正五年(一五〇八)には糠部・久慈くじ・閉伊などの牧馬印をしるした馬焼印図(『古今要覧稿』)が作られており、これら三郡が馬産の中心地であったといえる。

江戸時代には盛岡藩南部氏が三郡の地域を含む陸奥一〇郡を所領とし、領内で飼育された馬は南部馬として高く評価された。南部氏は森林馬と甲斐から導入した朝鮮半島経由の高原馬を中心に交配を重ね、軍馬に適する馬格の固定改良を行なった。『平家物語』に「きはめてふとうたくましゐ」「八寸の馬」とある名馬生口に妾の馬格が理想とされたらしく、八寸やき、つまり前足の先から肩までの体高四尺八寸(一四五・四センチ)を基準とした。改良馬は馬格だけではなく性質もよく、生唼の名の由来となった「馬をも人をもあたりをはらてくひければ」(『平家物語』)という荒々しい性格は改善されている。
盛岡藩は藩政として南部九牧を経営した。江戸時代後期には九牧で七〇〇頭前後が飼育され、領内では約八万八〇〇〇頭を超えたと推定されている。遠野一帯を領した遠野南部氏も各村に馬差うまさしを置き、馬を農家に貸し付けるなど独自の馬産振興に努めた。『邦内郷村志』によると、遠野盆地を中心とした遠野通の寛政九年(一七九七)の村数四一、戸数二九九六に対し、馬数は七一五八で、附馬牛村は戸数六二に馬が三二五頭いた。遠野南部氏の城下で開かれた市は、出馬千頭・入馬千頭と称される賑わいをみたという。

盛岡藩領を中心に分布するかぎ型住宅を南部の曲り家とよぶ。馬の飼育管理に好都合といわれ、馬産地として名高い遠野地方に多いこともうなずける。曲り家は片袖曲り、正面が住宅で側面に馬屋が継がって南に突出している。曲りの部分の奥が台所でその前が土間、住宅部分は正面に出入口のある平入りの形態をもつ。屋根はカヤぶきで、馬屋の屋根には破風があり、屋内でたく火の煙が抜けるようになっていて、馬の背を暖めるという。
遠野市域では、国の重要文化財に指定される江戸中期の土渕つちぶち町旧菊池家住宅、綾織あやおり町の千葉家住宅などがあるが、近年減少が著しい。

人と馬が同じ屋根の下で生活する曲り家は、様々の民話を生む土壌ともなった。柳田国男が土渕の人佐々木鏡石からの聞き取りを収録した『遠野物語』に次のような話がある。

昔ある処に貧しき百姓あり。(中略)一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、(中略)馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は(中略)死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇れり。

これを神としてオシラサマとよび、馬をつり下げた桑の木で神像三体をつくり、一体が附馬牛にあると記している。『遠野物語拾遺』はこの話を附馬牛でのこととし、家を出た娘が残した虫が白色で馬の頭のかたちをしていたため、オシラサマは養蚕の神としても祭られたという話も収める。

(K・T)


Googleマップのページを開く

初出:『月刊百科』1990年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである