日本歴史地名大系ジャーナル知識の泉へ
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第38回 沖の浜
【おきのはま】
31

一夜にして海中に沈んだ国際交易港
大分県大分市
2010年03月19日

昨年七月の北海道南西沖地震(マグニチュード7.8)は各地に甚大なる被害をもたらした。とりわけ奥尻島南部の青苗地区は、地震発生直後に襲来した津波と火災によって壊滅状態となり、連日テレビで放映された同地の惨状は、今でも記憶に新しい。もっとも地震多発地帯に位置し、しかも複雑な海岸線を有する日本列島弧の沿岸部では、同様の悲劇が幾度となく繰り返されてきたのも事実である。
戦国時代末期、豊後国の府内ふない府中ふちゅうともいう。現大分市)は、守護大友氏膝下の町として発展し、日本有数の国際都市となっていた。別府湾に臨み、この府内の外港として殷賑を極めた「沖の浜」も、こうした災禍によって海中に沈んだ街である。

大友氏の全盛期を築いた義鎮よししげ(宗麟)の回顧談によれば、彼が初めて西欧人を知ったのは一六歳のときで(天文一四年、一五四五)、「府内に近い港」に入ってきた中国のジャンクに乗り込んだ六、七人のポルトガル船員であったという。また、天文二〇年に周防山口を発したフランシスコ・ザビエルは、「沖の浜」に停泊中のポルトガル船の祝砲をうけながら府内に入り、義鎮に謁した後は沖の浜に宿をとっている(『大分県史』、『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社など)。天文一二年の鉄砲伝来からわずか数年後、府内はヨーロッパ世界と接触していたのであるが、その窓口となったのが「府内に近い港」=沖の浜であった。

この沖の浜が地震・津波によって一呑みにされたのは、義鎮を継いだ大友吉統よしむね が豊臣秀吉によって豊後国を追われてから三年後、文禄五年(慶長元年、一五九六)のことであった。
現大分県国東くにさき興導こうどう寺に残される大般若経第四二四巻の奥書余白には、文禄五年丙申閏七月九日「大地震仕、豊後奥浜悉海成、人畜二千余死、前代未聞条」とみえる。また『イエズス会通信』には「この男の言うには、夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押しよせて来ました。非常に大きな音と騒音と偉大な力で、その波は町(オキノファマ=沖の浜)の上に七ブラッチョ(一ブラッチョは〇・五九四米)以上も立上りました。(中略)同じ海岸のオキノファマの近くの四つの村、即ちハマオクイ(現別府市浜脇はまわきか)・エクロ・フインゴ(現日出ひじ町日出か)・カフチラナロ(同町頭成かしらなり港か)及びサンガノフチエクイ(現佐賀関さがのせき町か)の一部は同様に水中に没したと言われています」とあり、地震・津波の被害は別府湾の沿岸全域に及んでいる。さらに同書によれば、秀吉が徴税のために豊後に派遣した船隊など、沖の浜に繋留中の船はことごとく沈没したという。

あまりにも、災禍が激しかったためであろうか、その後、豊後の人々は一つの伝説を生みだした。それは、かつて別府湾には「瓜生うりゅう島」とよぶ島があって栄えていたが、大地震により一夜にして海中に没したというものである。
地震後一〇三年を経た元禄一二年(一六九九)に記された『豊府聞書』(原本は伝わらず、『豊府紀聞』がその内容を伝える)に「瓜生島、或又云沖浜町、其町縦于東西並于南北三筋成町、所謂南本町、中裏町、北新町、農工商漁人住焉、其瓜生島之境内皆悉沈没而成 貔・底」とあるのが瓜生島の名がみえる比較的早期の史料である。島名が生じた理由は定かではないが、ちなみに同島より移転したとの由来をもつ現大分市勢家せいけ町の威徳いとく寺は瓜生山を号している。ところで『豊府聞書』にはまだ「沖浜町」の名がみえるが、次第に想像の島、瓜生島が一人歩きを始める。安政四年(一八五七)の『豊陽古事談』には「瓜生島古図」なるものも収められているが、同古図を現在の地形に落としてみると、瓜生島は東西一〇キロメートルはあろうと思われる巨大な島となっており、さらに同島の北に「久光ひさみつ島」などの小島も描かれている。近代に入ると瓜生島の存在は既成の事実、といった趣となり、別府湾岸の各市町村の地誌類はほとんどが「瓜生島趾」なる一項を設けている。戦後も「別府湾のアトランティス」などと一部マスコミが取り上げ、昭和四〇年~五〇年代には地元大学教授なども名を連ねる「瓜生島を語る会」が結成され、別府湾の海底調査なども行われた。
さすがに近年は、地震は別府湾内を震源とする直下型で、液化現象や津波によって、大分川河口の砂洲に営まれた港、沖の浜が海の方へ崩れた、という学説が定着しつつあるが、大分では未だ瓜生島の存在を信じている人も多い。考えてみれば、地震発生のメカニズムがプレート移動説などによって解明されてきたのは、ごくごく近年のことである。我々の祖先にとって地震は説明のつかないまさに天災としかいいようのない事態であり、そこに伝説の生まれる余地もあったのであろう。大分には次の様な伝承も残されている。「瓜生島の蛭子社にある十二神将の顔が真赤になると島が沈むといわれていた。ところが、この云い伝えを信じなかった者が、文禄大地震の前に神将の顔に丹を塗ったところ、あにはからんや神罰によって島が沈んでしまった」というもので、同様の沈島説話は徳島県小松島港などにも伝えられる。

(H・O)


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初出:『月刊百科』1994年3月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである