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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第42回 石徹白
【いとしろ】
35

白山信仰社人の村
岐阜県郡上郡白鳥町
2010年08月06日

富士山・たて山とともに日本三霊山の一つとされるはく山から、南方能郷のうご白山まで続く両白りょうはく山地の岐阜県側に、石徹白がある。白山三峰、すなわち大汝おおなんじ峰(二宮)・御前ごぜん峰(本宮)・べつ山と続く別山の南麓にあたり、周囲を標高一五〇〇‐一七〇〇メートル級の山々に囲まれた小盆地で、ここを流れる数条の川は、やがて一本となり、福井県に入ると九頭竜くずりゅう川となる。いま上在所かみざいしょとよばれる地域に、縄文時代中期の北陸文化圏と東海文化圏両様式の土器が混在して出土する遺跡があり、この時代、石徹白は両文化圏の接点であったと考えられている。

石徹白から西方ひのき峠を越え、長良川に流入する前谷まえだに川沿いに下った長滝ながたきに、白山三馬場の一つ、美濃馬場が置かれていた。いまの長滝ちょうりゅう寺・白山長滝はくさんながたき神社である。石徹白は、白山本宮と美濃馬場のほぼ中間、「中居」に位置し、この地に祀られる白山大明神は、白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ・はくさんなかおりじんじゃ)を正称とし、白山下社・船岡中居白山比咩ふなおかなかおりしらやまひめ神社などとも称される。
石徹白の地名説話は、この神社の創祀伝承と深くかかわっている。すなわち同神社の社伝によれば、景行天皇一二年、熊襲・蝦夷が朝廷に背いたとき、天皇を守護するためにイザナギ・イザナミの二神が石徹白と打波との境の橋立山に天降り、南東の方、長滝川と短滝川の間に清々しい森をみつけ、その地を「船岡山中居」と名づけて社殿を建てた。このとき、二神が船岡山の坂路に千引岩を引いて「許等度ことど渡し」の呪文をとなえたところ、船岡山一帯に白雲がたなびいたので、千引岩(石)・許等度・白雲から一字ずつをとって「石度白」と名づけたという。養老元年(七一七)、泰澄が同社に参詣し、付近の霊地で行をしたあと、大熊に導かれて白山の山頂をきわめた。このとき泰澄が「わが宿願貫徹せり」といったので、石度白を石徹白と書くようになったとも伝えている。
石徹白の名は、長寛元年(一一六三)成立の『白山之記』に、「石同代ト云社マテ女人ハ参詣ス」とみえるのが史料上ではいちばん古いと思われ、このほか異表記に石堂代・石礪代があり、戦国時代の文書には「石とおしろ」「いしとおしろ」と書いたものがある。

石徹白は、江戸時代には越前国大野郡に属し、初期には石徹白村(郷)一村であったが、やがて上石徹白・下石徹白の二村に、後期には上・中・下の三村となった。白山中居神社の社人の村で、太閤検地では検地免除とされ、江戸幕府からも除地扱いを認められた。これは朱印除地ではなく、無高扱いで、行政上は郡上藩預となっていた。石高は正確には不明であるが、『森の雫』には、五〇〇石であったところ、宝暦五年(一七五五)、郡上藩郡奉行と上石徹白村神主石徹白豊前の検地で三千石余となった。しかし古来の縄打により二千五〇〇石とし、神領に充てたとある。江戸時代初期には、石徹白郷に一二名の老分おとなまたは年寄とよぶ村政の指導者がいたが、貞享四年(一六八七)からは一二名を頭社人(社家)とし、その下に二四組の組頭が置かれるようになった。これら社人の代表者である神主が、郷役人として郡上藩との交渉に当たった。
社人は、夏は白山登拝者の宿坊の主人として祈祷・道案内をし、また冬は御師として各地の檀那場を回り、白山講を結成し、白山信仰の拡大に努めた。嘉永三年(一八五〇)の「社中定」によると、石徹白三ヵ村で社家・社人一五七軒がある。なお三ヵ村社人は苗字帯刀を免許されていたという。

宝暦二年、高山照蓮寺(現在の高山別院)の安祥坊恵俊が、上石徹白村にある真宗道場を改築しようとしたことが契機となって、いわゆる石徹白騒動が起こった。これは本願寺蓮如の布教による一向宗の教線拡張が、白山修験の勢力を低下させたという歴史的背景をもつ複雑な事件であったが、上石徹白村神主石徹白豊前が、白山中居神社と村方の完全支配を企て、これに対立した神頭ことう職の杉本左近らが、同四年江戸幕府に越訴するという形で進行した。豊前は京都吉田家(神祇大副)に、一方は京都白川家(神祇伯)に属し、村内を二分して激しい抗争が続いた。
郡上藩の寺社奉行は同五年一一月、杉本左近らの越訴をとがめて入牢に付し、一味の社人八九軒・四九〇人を追放、闕所けっしょ処分とした。杉本左近はこれを不当として、翌六年、幕府老中に社人八〇余名の連署訴状を提出し、同八年再度幕府評定所へ箱訴はこそした。この結果、翌九年豊前は死罪となり、所持田地は闕所処分となり落着した。豊前の闕所地は、田四〇枚・畑二三枚、山五ヵ所・林二ヵ所に上ったという。

石徹白三ヵ村は、明治一九年(一八八六)、合併して福井県大野郡石徹白村となり、同二二年同郡下穴馬しもあなま村大字石徹白となるが、同二九年下穴馬村から分離。昭和三三年(一九五八)、小谷堂こたんどう三面さつらの地域をのぞいて、地理的・歴史的に身近な白鳥しろとり町に越県合併した。

(H・M)


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初出:『月刊百科』1989年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである