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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第67回 河北潟
【かほくがた】
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海と新田の接する所
石川県河北郡・金沢市
2012年08月17日

南北に長い石川県のほぼ中央、旧能登国を頭部、加賀国を胴体とすれば、その喉元にあたるところに河北潟がある。河北郡の南西部と金沢市の北部にまたがり、西は内灘うちなだ砂丘を隔てて日本海に並行する。昭和三九年(一九六四)からの干拓以前には、面積約二三平方キロで、D字形をなし、最長は南北約八キロに及んだ。北陸で最大の湖沼とされ、排水路の大野おおの川から日本海の塩水が通じた。現在調整池として残存する潟の面積は八九二ヘクタールで、宇ノ気うのけ川・能瀬のせ川・津幡つばた川・森下もりもと川・金腐かなくさり川・浅野あさの川が流入している。

古くから河北潟およびその周辺をめぐって境界相論があった。正安二年(一三〇〇)三月二三日の関東下知状(加茂別雷神社文書)は、京都上賀茂社領金津かなつ庄雑掌祐豪と北英田きたあがた保地頭代覚心の庄域相論を幕府が裁定したものである。湖(河北潟)と干潟を開作した田畑について、祐豪が康元(一二五六‐五七)の取調べを根拠に領有権を主張したのに対し、覚心は湖が往古より北英田保内であり、田畑も同様と反論した。幕府は寛治(一〇八七‐九四)の金津庄立券状に「南堺者限湖」とあり、河海の境はその中央とする通例に従って、田畑を金津庄に付している。
また、河北潟の南岸で大野川右岸の青崎あおがさき(粟崎、現金沢市)は、摂津氏領倉月くらつき庄に含まれ、臨川りんせん寺(現京都市右京区)領大野庄と接していた。両庄の境界相論を裁許した貞和二年(一三四六)閏九月一九日の足利直義下知状案(天龍寺文書)で、境は「塩海者限青塚、湖海者限青崎橋下」とされている。支証として提出された、大野庄がかつて得宗領であった頃の代官足立厳阿の康永二年(一三四三)一一月二六日の書状(同文書)にも、両庄の境は「川者限青崎橋海者限青塚」とあり、鎌倉期から大野川に架けられた橋の下が境界であったことが知られる。

河北潟の名は河北郡に所在する潟であることによるのであろうが、この郡名は室町期以降の称であり、それ以前は加賀郡と称した。古くから大陸と交通があった北陸において、加賀郡もその一拠点として渤海との交流が知られる。天平三年(七三一)二月二六日の越前国正税帳(正倉院文書)には、加賀郡が同二年八月に帰国した送渤海郡使人使引田虫麻呂一行に食料を負担していたことがみえる。また天平宝字六年(七六二)一〇月一日および宝亀七年(七七六)一二月二二日に着岸した渤海使は加賀郡に滞在しており(続日本紀)、加賀郡には渤海使のための「便処」がおかれていた。
近世、内海としての河北潟では一般に潟下りと称された舟運が盛んであった。加賀藩は北陸街道や能登街道などの宿駅制保護のため、商用貨客の潟下りを禁止し、米・塩・魚の公用荷物に限定しており(承応三年「津幡四宿役定」渡辺文書)、逆に潟下りの存在の大きさが伺えよう。年貢米は浅野川を通し金沢城下、大野川から外港の大野・宮腰みやのこし(現金沢市)の湊に運ばれた(安政四年「潟下御蔵米人足増申合帳」岩佐文書)。文久四年(一八六四)には河北潟と七尾ななお湾や今石動いまいするぎ町(現富山県小矢部市)などを結ぶ運河開削案が加賀藩に出されている(「運河開削伺書」羽咋市歴史博物館蔵)。潟縁の粟崎あわがさき村には木谷(木屋)藤右衛門、同村の北の向粟崎むかいあわがさき村(現内灘町)には島崎徳兵衛など、北前船を操る海商も成長した。
漁労も行われ、河北潟周辺の二五ヵ村に猟船櫂役、七ヵ村に湖網役が課されている(「三箇国高物成帳」加越能文庫)。なお天正一四年(一五八六)九月には前田利家が潟西岸の黒津舟くろつぶね権現(現内灘町小浜神社)神主斎藤政光に南北三六〇間、東西は潟淵より外海の波打際に至る広大な社地・神主屋敷と、三艘の御贄猟船を安堵している(「前田利家黒印状」小浜神社文書など)。

一方、潟周辺では金津庄と北英田保の相論からも知られるように、早くから新田開発が行われていた。近世に入ると一層盛んになり、文禄四年(一五九五)には宇ノ気川下流の葦原が開発され、鉢伏新はちぶせしん村・笠島新かさしましん村・宇野気新うのけしん村(現宇ノ気町)が成立している(加賀志徴)。また潟周辺には、この地方で不湖ふごと呼ばれる潟の入江が閉ざされて形成された水溜があったが、同じく開発の対象とされて順次消滅していった(文政九年「河北郡図」加越能文庫など)。
加賀藩も開発を十村役に請負わせる御役所開き、延宝元年に立村された潟端新かたばたしん村(現津幡町)にみられるような里子開きなどで新開を促している(「改作所旧記」加越能文庫など)。嘉永四年(一八五一)には海商の銭屋五兵衛が潟を理立て四六〇〇石の新田開発を計画したが挫折した(「銭屋五兵衛詮議書」同文庫)。

寿永二年(一一八三)五月、木曾義仲軍追討のため志雄しお山に向かった平氏軍は北加賀の要港宮腰・大野を押え、日本海と河北潟に挟まれた砂丘地帯を北上した(「源平盛衰記」巻二九)。加能国境にほど近く、東方には加越国境の倶利伽羅くりから峠が控える当地は、古くから交通・軍事上の要地でもあった。
古くから様々なかたちで人々と関わった河北潟は、昭和三九年からの国営河北潟干拓土地改良事業によって一三五六ヘクタールが干拓され、現在畑作と酪農に利用されている。

 

(K・O)

干拓前の河北潟の姿が想像される


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初出:『月刊百科』1991年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである