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このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。また「月刊百科」(平凡社刊)連載の「地名拾遺」から一部をピックアップして再録。

第80回 岩井
【いわい】
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信仰が運んだ稀有な地名
鳥取県岩美郡岩美町
2013年05月10日

地名には、一種の拡大性とでもいうべき性質があり、最初は一地点ないしは一地形に付与された地名が、これを包括しているより広い区域をよぶ地名に移行していくケースの多いことが、吉田東伍や柳田国男によって指摘されている(『大日本地名辞書』『地名の話』)。ここに取り上げた岩井もその一例であるが、岩井は拡大したばかりでなく、信仰にともなって遠く美濃国へまで運ばれ、彼の地に定着した地名として珍しい。

大字岩井の区域は、古代律令制下では因幡国巨濃この石井いわい郷(高山寺本『和名抄』)に属していたとみられる。岩井には巨濃郡衙が所在したとする説があり、また古代の官道山陰道が通っていて、山埼やまさき駅(『延喜式』)の所在比定地でもある。巨濃郡はほぼ現在の岩美町域を郡域としていたと考えられるが、鎌倉時代の末期には巨濃郡に代わって岩井郡の用例がみられ(応長元年一一月二日「某寄進状」『因幡民談記』)、南北朝期には岩井庄が成立していた。領域的にいえば、巨濃郡・岩井郡・岩井庄はほぼ同一であったろう。江戸時代に入ると、岩井は巨濃に代わって正式に郡名となった。
岩井(石井)は一地点の自然地名として発生、やがて郷名となり、同郷が郡衙の所在地、交通の要衝として繁栄するに及んでさらに拡大、一郡規模の庄名に引き継がれ、郡名に採用されるまでに成長したのである。

なお、岩井郡は近代に入り、法美ほうみ邑美おうみ郡と合併して岩美いわみ郡となった。

岐阜市に延算えんざん寺という高野山真言宗の寺があり、本尊の木造薬師如来立像は国の重要文化財に指定されている。この寺は貞観六年(八六四)に定額寺じょうがくじに定められた「美濃国山県郡延算寺」(『三代実録』)の法灯を継ぐとされ、寺伝によれば本尊の薬師如来像は、延暦二四年(八〇五)最澄が因幡国岩井において楠で刻んだ三霆€の仏像の一という。弘仁六年(八一五)勧日大徳が同薬師如来像を因幡から美濃に移し、同年諸国巡礼の途次にあった空海がこれを拝して一宇を建立、延算寺という寺号を与えたという。同寺の所在地は岐阜市岩井であり、最澄・空海のかかわりや年代はともかく、この像が因幡から移され、仏像とともに地名ももたらされたと考えて不都合はないだろう。
一方、岩美町岩井の蒲生がもう川右岸の河岸段丘に、七世紀後半から九世紀にかけての寺院跡(岩井廃寺跡)がある。遺構は塔心礎を残す塔跡(国指定史跡)のみだが、地形からみて塔の西側に金堂を配する法起寺式伽藍配置をとっていたと想定されている。この時代の巨濃郡域には、ほかに寺院があった形跡がみられないことから、延算寺の薬師如来像はこの寺から移されたと考えて間違いないだろう。平安時代の初めに藤原綱継や藤原縵麻呂が因幡・美濃両国の国司に任命されていることと何か関係があるかもしれない。
岩美町岩井には清和天皇の頃に開かれたと伝える温泉があり、近くの山腹に『延喜式』神名帳に掲載される「御湯ミユ神社」が祀られている。温泉、御湯神社、薬師如来を本尊とする寺が揃い、貞観六年延算寺が定額寺になったのは、清和天皇の病気平癒を祈って効験があったためという寺伝を信じれば、延算寺の本尊は因幡にあった頃から病に特効のある薬師如来として、貴顕の信仰を集めていたものと思われる。

岩井と同じく、信仰とともに地名が移動、定着した例が、岩美町に隣接する岩美郡国府こくふ町にもある。大字三代寺さんだいじで、これは近江国からもたらされた。江戸時代の因幡国郡三代寺村は産土神として白髭しらひげ大明神(祭神猿田毘古神)を祀っており、近江国甲賀こうか三大寺さんだいじ村(現滋賀県水口町)から勧請したと伝えている。社殿の建立は棟札から慶安四年(一六五一)と知られるので、勧請年代はその頃かそれより少しさかのぼる程度であろう。近江国三大寺村は、同地にかつて飯道はんどう寺・薬王寺・道徳寺の三寺院があったことから村名が起こったと伝え、白雉年間(六五〇‐六五五)創立という三大神社を祀っていた。同社はのち天台宗の教線が及ぶに従い、護法神として山王権現を称するようになり、近代に入って日吉神社と改称している。
遠く離れた因幡の人々が、近江国三大寺村の山王権現を勧請し、表記は異なるものの村名までも同一にした理由は不明だが、あるいは天台系修験者や近江商人の活動が関係しているのかもしれない。

 

(H・M)

岐阜市延算寺の本尊薬師如来は、元来、岩井廃寺に祀られていたと考えられる


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初出:『月刊百科』1992年11月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである