第174回
「敷居が高い店」はあるのか?

 菊池寛の『父帰る』(1917年発表)という戯曲をご存じだろうか。妻子を捨てて情婦と出奔した父親が、20年後に落ちぶれて帰ってきたために、家族一人ひとりに生じる複雑な心情を描いた作品である。母親と次男は父を迎え入れようとするが、家族の父親代わりでさんざん苦労をしてきた長男は父親を拒絶する。消沈して再び家から去ろうとする父親の独白にこんな一節がある。
 「夜になると毎晩家の前で立っていたんぢゃが敷居が高うてはいれなかったのぢゃ……併(しか)しやっぱり這入(はい)らん方がよかった。」  
 まくらが長くなってしまったが、何を言いたかったのかというと、父親のせりふの中にある「敷居が高い」という慣用句に注目していただきたかったのである。
 この父親が言う「敷居が高い」は、自分の家族を捨てるという非道なことをしたため、家に入りにくい状態であることを語っている。「敷居が高い」とはこの父親の言うように、「相手に不義理をしたり、また、面目のないことがあったりするために、その人の家に行きにくくなる。また、その人に会いにくくなる状態をいう語。」(『日本国語大辞典 第2版』)なのである。
 ところが、文化庁が発表した平成20(2008)年度「国語に関する世論調査」では、「あそこは敷居が高い」を、『父帰る』のように本来の意味である「相手に不義理などをしてしまい、行きにくい」で使う人が42.1パーセント、従来無かった誤った意味の「高級すぎたり、上品すぎたりして、入りにくい」で使う人が45.6パーセントという逆転した結果が出てしまったのである。
 実際インターネットで検索すると、「あの店は高級すぎて敷居が高い」「初心者には敷居の高いスキー場」といったような「ハードルが高い」と混同したような用例が多数見つかる。
 従来無かった意味で使う人が増えているという文化庁の調査結果は無視できないのだが、今後国語辞典としては、程度や難度が高いという意味は間違いであるという注記を載せる必要があるのかもしれない。

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