第197回
「一“所”懸命」

 「一生懸命働く」などというときの「一生懸命」は、もともとは「一所懸命」だったということをご存じの方は大勢いらっしゃることであろう。
 だが、どういうことか念のために説明しておくと、「一所懸命」とは、「中世、生活の頼みとして、命をかけて所領を守ろうとすること」(『日本国語大辞典 第2版』)を言ったことばである。「一所」とは、もちろん「ひとつの場所」という意味で、武士が1箇所の所領を命にかけて守ろうとしたのが原義である。これが、近世になると、所領に関する観念が次第に変化し、それに伴い、「一所懸命」も「所領を守る」という意味が薄れ、「命がけ」「必死」という意味だけが残っていく。そして「一所」も音の似た「一生」へと変化していく。なぜ「一生」なのかというと、「一生」という語もまた、江戸時代に「生まれてから死ぬまで」という意味から、「生涯に一度しかないようなこと」という意味に変化していったからであり、さらに「一所」よりも、音の似ている「一生」のほうが、江戸庶民に馴染みのあることばだったからだと思われる。
 この変化は現在まで続き、今では「一所懸命」より「一生懸命」を使う人の方が圧倒的に多いであろう。このような事情から新聞などでは「一生懸命」と表記するようにしている。
 では、辞典での扱いはどうかというと、ほとんどは、「一所懸命」「一生懸命」のどちらも見出しを立てているが、「一所懸命」には本来の「命を賭けて所領を守る」という意味を載せ、「命がけでことに当たること」という現在使われる意味は、「一生懸命」を語釈のある本項目としているものが多い。だが、中には「一生懸命」も見出し語として立てているのだが、原義も命がけの意味も「一所懸命」を本項目としているものも存在する。それは『広辞苑』と『岩波国語辞典』で、ともに同じ出版社の辞典であるところが面白い。
 「一所懸命」「一生懸命」どちらを使っても間違いではないのだが、辞典では現状容認派と守旧派があって、使用者の好みが分かれるところであろう。

キーワード:

さらに悩ましい国語辞典
―辞書編集者を惑わす日本語の不思議!―

日本最大の辞書『日本国語大辞典』の編集者はまだまだ悩んでいる! 辞書で定義しずらい言葉の悩み辞書にした「悩ましい国語辞典」の第2弾。
そんたく【忖度】[名]「忖」も「度」もはかるという意味。他人の心を推し量ることで「なにか配慮をする」の意味はない。/しんしゃく【斟酌】配慮までする意味なら「忖度」でなく、「斟酌」の方がしっくりする。この語「手加減する」と意味は変化し続け、今、忖度で起きている現象が斟酌でも起きている……

悩ましい国語辞典
―辞書編集者だけが知っていることばの深層―

「日本国語大辞典」の編集担当者を惑わすことばの不思議スリリングに揺れる日本語の深さ! 面白さ満載!
「うがった見方」は「疑ってかかるような見方」ではない/「悲喜こもごも」を合格発表の描写で使うのは誤り/「まじ! 」は、江戸時代の小説に使用例がある/スコップとシャベルはどちらが大きいか?西日本と東日本では違う/「谷」を「や」と呼ぶのは音読みでも訓読みでもない方言/「あばよ」の語源は幼児語の「アバアバ」

ジャパンナレッジとは

ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額550万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のインターネット辞書・事典サイト。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。

ジャパンナレッジ Personal についてもっと詳しく見る