日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第197回
「一“所”懸命」

 「一生懸命働く」などというときの「一生懸命」は、もともとは「一所懸命」だったということをご存じの方は大勢いらっしゃることであろう。
 だが、どういうことか念のために説明しておくと、「一所懸命」とは、「中世、生活の頼みとして、命をかけて所領を守ろうとすること」(『日本国語大辞典 第2版』)を言ったことばである。「一所」とは、もちろん「ひとつの場所」という意味で、武士が1箇所の所領を命にかけて守ろうとしたのが原義である。これが、近世になると、所領に関する観念が次第に変化し、それに伴い、「一所懸命」も「所領を守る」という意味が薄れ、「命がけ」「必死」という意味だけが残っていく。そして「一所」も音の似た「一生」へと変化していく。なぜ「一生」なのかというと、「一生」という語もまた、江戸時代に「生まれてから死ぬまで」という意味から、「生涯に一度しかないようなこと」という意味に変化していったからであり、さらに「一所」よりも、音の似ている「一生」のほうが、江戸庶民に馴染みのあることばだったからだと思われる。
 この変化は現在まで続き、今では「一所懸命」より「一生懸命」を使う人の方が圧倒的に多いであろう。このような事情から新聞などでは「一生懸命」と表記するようにしている。
 では、辞典での扱いはどうかというと、ほとんどは、「一所懸命」「一生懸命」のどちらも見出しを立てているが、「一所懸命」には本来の「命を賭けて所領を守る」という意味を載せ、「命がけでことに当たること」という現在使われる意味は、「一生懸命」を語釈のある本項目としているものが多い。だが、中には「一生懸命」も見出し語として立てているのだが、原義も命がけの意味も「一所懸命」を本項目としているものも存在する。それは『広辞苑』と『岩波国語辞典』で、ともに同じ出版社の辞典であるところが面白い。
 「一所懸命」「一生懸命」どちらを使っても間違いではないのだが、辞典では現状容認派と守旧派があって、使用者の好みが分かれるところであろう。

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