日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第234回
「二の舞を踏む」は間違いか?

 「二の舞を踏む」という言い方をお聞きになったことはないだろうか。
 自分はそう言っているよという方もけっこういらっしゃるかもしれない。だが、この「二の舞を踏む」は誤った使い方で、「二の舞を演じる」が正しい言い方だと言われている。私が使っているパソコンのワープロソフトも「二の舞を踏む」と入力しようとすると、親切にも《「二の足を踏む/二の舞を演じる」の誤用》と教えてくれる。共同通信の記者ハンドブックも「二の舞いを演じる」だけが示されているので、「二の舞を踏む」は認めていないものと思われる。
 「二の舞を踏む」が誤用である理由は、「二の足を踏む」との混同から生まれた言い方だからだと説明されることが多い。だが、本当に「二の舞を踏む」は誤用なのであろうか。
 「二の舞」とは舞楽(舞が伴う雅楽)の曲名で、「安摩(あま)の舞の次にそれを見ていた二人の舞人(笑い顔の面の老爺と腫れただれ顔の面の老婆)が滑稽な所作で安摩の舞をまねて舞う舞。安摩の舞に対する答舞。」(『日本国語大辞典』)である。
 人の後に出て来て前の人と同じことをしたり、滑稽なしぐさをしたりすることから、「二の舞」は前の人の失敗を繰り返すという意味になる。そしてそのような「二の舞」を“演じる”のが本来の使い方だというわけである。
 だが、「二の舞を踏む」を載せた辞書が存在しないわけではない。それは、大槻文彦の『大言海』(1932~37)である。ただし見出し語としてではなく、「案摩(あま)」の解説中に見える。

 「俗に笑あま、泣あまと云ふ、其舞ふ手振、足振、案摩を真似て、真似得ざる状なり。世に、前人の所為を、徒らに真似てするを、二舞(ニノマヒ)を踏むと云ふ、是れなり」

 大槻文彦は『大言海』の中で「二の舞を演じる」には一言も触れていないので、そもそも「二の舞を踏む」だけを使っていたのかもしれない。また、文中「世に」とあるので、「二の舞を踏む」のほうが一般的であると思っていた節もある。
 舞楽を舞うことを「踏む」という例は実は古くから見られる。たとえば室町末期の御伽草子『唐糸草子(からいとそうし)』には「三番は熊野が娘の侍従、太平楽をふむ」とある。「太平楽」も舞楽の曲名である。
 最近の国語辞典は、「二の舞を踏む」を、誤用説を紹介せずにそのまま載せるものが増えてきている。新聞の用字用語集よりも国語辞典の方が一歩進んでいるということであろうか。

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