第267回
父親の呼称は“チテト”

 父親の呼称に関してももう一回お付き合いいただきたい。
 「ちち」という呼称も「はは」同様かなり古く『万葉集』にその例が見られる。ただしさらに古い例だと、『古事記』の歌謡に「まろが知(チ)」という例があることから、「ち」に父の意があったと考えられている。この歌謡自体の意味は、お酒ができたのでおいしく召し上がってください、われらのおやじさんよ、といったものである。「ち」は、「おほぢ」(祖父の意)、「をぢ」(伯父、叔父の意)などように他の語についても使われる語だったのである。
 平安時代になると「てて」の形も生まれる。たとえば平安中期の女流日記『更級日記』(1059頃)には、「大納言の姫君」と呼ぶと心得顔に鳴いてすり寄ってくるので大切に飼っていた猫がいたのだが、火事で焼け死んでしまったため、「ててなりし人もめづらかにあはれなる事也。大納言に申さむなどありしほどに(=父も“大納言の姫君”などと呼ぶと鳴いてすり寄ってくるなんて不思議な感動的な話だ、大納言さまにご報告しようなどとおっしゃっていたところであったので)」、ひどく悲しく残念に思ったという記述がある。この「てて」は、父親の呼称としてその後も広く使われ続けた。だが、江戸時代後期の『倭訓栞(わくんのしおり)』という辞書に、「てて 父の俗語也」とあることから、次第に俗語的になっていったと考えられている。
 また、イエズス会の宣教師が編纂した『日葡辞書』(1603~04)には、「Toto (トト)」という呼称も見られる。『日葡辞書』には「子どもの用いる言葉」という記述もあることから、もともとは幼児語だったことがわかる。この語に「さま」「さん」「ちゃん」「っつあん」などがついて、「ととさん」「ととさま」「おとっちゃん」「おとっつぁん」「おととさん」「とうさん」「おとうさん」といった地域によって違いはあるものの、さまざまな語形が生まれていくのである。
 ところでここまでお読みくださった方の中に、面白い現象に気付いた方もいらっしゃるのではないだろうか。
 父親の呼称は用例を見る限り、「チ」→「チチ」→「テテ」→「トト」と変化している。つまりタとツがないだけで、すべてタ行なのである。しかもイ段、エ段、オ段と上から順番に変化している。なぜそのようなことになったのか。理由をご存じの方がいらっしゃったら、ご教示いただけると幸いである。

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