第276回
「すべからく」

 高校時代に習ったであろう、漢文のことを思い出していただきたい。その中に「再読文字」と呼ばれる、特殊な読み方をする漢字があったことをご記憶だろうか。訓読の際に、一度読んだあと、下から返ってもう一度読む漢字のことである。たとえば、「当」を「まさに(…す)べし」、「未」を「いまだ(…せ)ず」、「猶」を「なお(…の)ごとし」などと読むたぐいである。
 「須」という漢字もその仲間で、「すべかラク~ベシ」と読まれる。「須」という漢字の字音は「シュ」「ス」で、この「すべかラク~ベシ」という読みは、この漢字を訓読する際に生み出されたものである。文法的に説明するなら、サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法ということになる。ふつう下に推量の助動詞「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す。当然なすべきこととしてとか、本来ならば、というような意味合いである。
 たとえば中国唐の時代の詩人李白の詩『月下独酌』にある「行楽須及春」は、「コウラクすべからくはるにおよぶべし」と読む。「春の去らないうちにじゅうぶん遊んでおくべきである」といった意味である。
 この漢文の訓読独自の用法が後に一般に広まり、たとえば鎌倉末期の吉田兼好の随筆『徒然草』にある、「徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし〔=富を得ようと思うならば、当然、まずその心構えを修行しなければならない〕」のような使われ方をするようになる。
 学校での漢文教育が第二次世界大戦後大幅に縮小されたことが直接の原因ではなかろうが、近年この語を本来の意味ではない「すべて、皆」の意味で使う人が増えているという。
 国立国語研究所のコーパスを見ても、明らかにその意味で使っている例が散見される。
 「これが すべからくトラック輸送に肩がわりをしていくということになると、現行の道路の幅員ではとうてい間に合うわけもない」(国会会議録 1983)
 「ここは企業規模百人以上、事業所規模五十人以上ではなくて、企業規模十人以上 すべからくすべてを対象にしていると。」(国会会議録 2005)
 たまたま国会議事録から2例引用したが、安倍晋三総理も以前「すべての責任はすべからく私にある」と言って、この「すべからく」の使い方はおかしいと話題になったことがあり、口頭語ではこの新しい意味がかなり広まっていることを思わせる。
 文化庁が調査した「国語に関する世論調査」(2010年)でも、本来の意味である「当然、ぜひとも」で使う人が41.2パーセント、本来の意味ではない「すべて、皆」で使う人が38.5パーセントというかなり拮抗(きっこう)した結果が出ている。
 なぜ、このような意味が広まっているのか。想像の域を出ないのだが、「すべからく」の「すべ」が「すべて」の「すべ」だととらえられてしまったのかもしれない。また、李白の漢詩の読み下し文や、『徒然草』で下線を引いた部分をご覧いただきたいのだが、「すべからく」は「べし」とともに使われることが多いのだが、口語の助動詞ではない「べし」があまり使われなくなったことによって(実際、国会議事録の2例は「べし」を伴っていない)、意味の変化を加速させてしまったということも考えられる。
 人のことば遣いの誤りをいちいちあげつらおうと思っているわけではない。現時点では本来の意味の方がやや優勢であるとはいえ、その差は数パーセントである。今のうちに、本来の意味が少数派にならないようにする手だてを考えないといけないのではないかと思うのである。

〔本稿は、国語研究所とLago言語研究所が開発したNINJAL-LWP for BCCWJを利用しました。〕


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