第277回
「ない」だけど「無い」わけではない

 まずは問題から。

A 「そっけない」「あじけない」「いくじない」「かぎりない」
B 「あどけない」「せわしない」「せつない」「はしたない」

 AとBに掲げた語はすべて末尾に「ない」が付く形容詞だが、Aの語例の「ない」とBの語例の「ない」は別のものである。その違いを答えなさい。
 このような問題が学校のテストで出題されることはまずないであろうが、答えは、Aの「ない」は名詞に付いて否定の意を含む形容詞をつくる語であり、Bの「ない」は性質・状態を表す語(多く、形容詞語幹・形容動詞語幹など)に付いてその意味を強調し、形容詞をつくる接尾語である。
 つまり、Aはすべて名詞+「無い」で形容詞となった語ということになる。
 「そっけない」の「そっけ」はおもしろみやあいその意味、「あじけない」の「あじけ」はおもしろみや味わいの意味、「いくじない」の「いくじ」は困難にめげず物事を貫き通そうとする気力や態度、「かぎりない」の「かぎり」は限度や際限の意味である。これに「ない」が付いて、そうしたことが無いという否定の意味となる。
 一方、Bの「あどけない」は「あどけ」が無いということではなく、これ1語で子どもの態度、様子などが幼くかわいらしいということを強めた意味である。以下の語も同様で、「せわしない」はいかにもせわしい感じであるという、「せわしい」を強調した語であり、「せつない」は悲しさ、寂しさ、恋しさなどで胸が締め付けられるような気持ちを強めた語であり、「はしたない」は行儀が悪く見苦しい、下品である、という意味を強調した語である。
 理屈はおわかりいただけただろうか。だが、この否定の「ない」か強調の「ない」かということは、実はかなり紛らわしいことは確かである。実際、強調の「ない」である「はしたない」を「無端(はしたなく)」などと「無い」だと思って表記している『太平記』のような例も古くからある。

 全国紙で用語の審査をなさっている方が最近書かれた本の中に、この「ない」が否定か強調かを見分けるには、否定の「ない」を「ぬ」に置き換えればわかるとしているものがあった。そこでは、具体例として「落ち着かない」を挙げているのである。確かに「落ち着かない」を「落ち着かぬ」と言い換えることはできる。だが、Aに掲げた4語の否定の「ない」を「ぬ」に置き換えてみてほしい。いかがだろうか。「ぬ」に置き換えたら何のことだかまったくわからなくなってしまう。なぜかというと、「落ち着かない」の「ない」は打ち消しの助動詞「ない」であって、否定の意味の形容詞をつくるAの語例に共通する「ない」とは違うものだからである。形容詞の一部を打ち消しの助動詞「ぬ」で置き換えることはできない。
 だが、形容詞の「ない」を打ち消しの助動詞「ぬ」で置き換えることができると考える人がいないわけではないので、話はややこしい。そのように考えて生まれた「やるせない」の誤用の「やるせぬ」が、古賀政男の『影に慕いて』という歌の歌詞に見えるという話を第193回で書いた。もちろん「やるせない」は、名詞「やるせ」に否定の意味の形容詞「無い」が付いた形容詞である。

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