第296回
「火蓋(ひぶた)」は「切る」のか、「切って落とす」のか?

 物事に着手したり、行動を開始したりするという意味で、「火蓋を~」という言い方があるのだが、皆さんは「~」の部分を何と言っているであろうか。
 従来は、「火蓋を切る」が正しい言い方だとされてきた。ところが近年、「火蓋を切って落とす」という言い方が増えているようなのである。
 インターネットで検索すると「切って落とす」の用例はけっこう見つかるし、国立国語研究所のコーパスにも以下のような用例が存在する。
 「太平洋戦争の火ぶたが切って落され、掘畑も翌年陸軍に徴用されてしまった。」(杉山隆男『メディアの興亡』1989年)
 そしてさらには「火蓋を落とす」という用例まである。
 私が普段使っているパソコンのワープロソフトは、「火蓋を切って落とす」と書こうとしたときはふつうに変換してくれるのだが、「火蓋を落とす」と入力すると《「火蓋を切る」の誤用》と表示される。「切って落とす」よりも単に「落とす」と書く人のほうが多いということなのであろうか。
 いずれにしても「火蓋を切って落とす」は、おそらく「幕を切って落とす」との混同から生まれ言い方なのであろう。
 「火蓋」は、火縄銃の火皿(火薬をつめるところ)の火口をおおうふたのことで、「火蓋を切る」で、火縄銃の火蓋を開いて点火の用意をする、また、発砲するという意味になる。
 似たようなことばに、「口火」がある。こちらは火縄銃の火蓋に用いる火のことだが、爆薬を爆発させるためのもととなる火の意味としても使われる。この「口火」も、「口火を切る」の形で、物事をしはじめる、きっかけをつくるという意味や、話を始めるという意味で使われることがある。しかも面白いことにこの「口火」にも誤用とされる言い方があり、『大辞泉』や『明鏡国語辞典』などはでは「口火を付ける」は誤りだと注記までしている。
 ただし「口火を付ける」はけっこう古くから用例が見られ、たとえば国木田独歩の『初恋』(1900年)にも、
 「この老先生が兼(かね)て孟子を攻撃して四書の中でも之(こ)れだけは決して我家に入れないと高言して居ることを僕は知って居たゆえ、意地悪く此処(ここ)へ論難の口火をつけたのである」
などという例がある。
 実は用例主義の『日本国語大辞典』(『日国』)は、「口火を付ける」をこの独歩例から認めていて、見出し語の形も「口火を=切る[=付ける]」としているのである。「口火を付ける」は点火をするための火を付けるということからの類推から生まれた言い方なのであろう。
 長年『日国』に関わってきた者としては、「火蓋を切って落とす」はまだ認める勇気はないのだが、「口火を付ける」は容認したいと思っている。皆さんはいかがであろうか。

〔本稿は、国語研究所とLago言語研究所が開発したNINJAL-LWP for BCCWJを利用しました。〕

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