第87回
「捨て石」

 野田佳彦総理が、先日あった若手企業経営者の会合で、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)交渉参加と消費税率の引き上げなどについて「捨て石になってけりをつける」と挨拶したという。首相の強い決意を感じさせる発言ではあるが、正直言って「捨て石」ということばにいささか違和感をもった。というのは、「捨て石」は意味が揺れていることばで、その威勢のよさとは裏腹に、総理の意図が必ずしも正確に伝わってこない気がしたからである。
 そもそも「捨て石」とは『日国』によれば、「道ばたや、野や山にころがっている、誰も顧みない岩石」のことで、文字通り何の役にも立たずに捨て置かれた石のことである。だが、一方では一見無用のようでいて実は何かの意味をもたせるために据え置かれる石のこともいう。たとえば日本庭園で、風趣を添えるために所々に配した石や、堤防、橋脚などの工事のとき、水勢を弱めるために水中に投入する石も「捨て石」と呼ばれるのである。さらに囲碁で、自分の形勢を有利に導くためにわざと相手に取らせるように打つ石もいう。
 このような意味から、今すぐには効果はなく、むだなように見えるが、将来役に立つことを予想してする投資や予備的行為をいう比喩(ひゆ)的な意味が生じ、それが現在「捨て石」の最もポピュラーな意味となっている。つまり、将来の布石といった意味合いである。
 だが、「捨て石」本来の、用がなく捨て置かれる石という意味から転じた、大きな目的のために見捨ててしまう事柄、つまり犠牲の意味でも使われることもまったくないわけではない。「会社を守るためにここは君が捨て石になってくれ」などという言い方がそれである。
 野田発言の真意は、布石か犠牲か、いったいどちらの意味だったのだろうか。
 さらに付け加えると、その「捨て石」になる主体は発言の文脈からすると総理自身のことだとは思うのだが、思い過ごしかもしれないが、われわれ国民にもそうしろと強いているような気がしてならない。しっくりこなかった最大の理由は、そこのところだったのかもしれない。

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