日本語、どうでしょう?~知れば楽しくなることばのお話~

辞書編集者を悩ます日本語とはなにか?──『日本国語大辞典』など37年国語辞典ひとすじの辞書編集者がおくる、とっておきのことばのお話。

第94回
辞典編集の世界が小説になった!

 『舟を編む』(光文社刊)という、直木賞作家三浦しをんさんの小説が売れているという。
 三浦さんの小説は登場人物たちが一途に何かに打ち込みながら、人間的にも成長していく姿を描いた作品が多いが、うれしいことに今回の舞台は出版社の辞典編集部なのである。  
 個性的な辞典編集者が、「大渡海」と名付けられた23万語の国語辞典の編纂に関わりながら、仕事や恋愛をめぐるさまざまな人間ドラマを繰り広げていくというストーリーなのである。
 それだけを読んでももちろんとても面白いのだが、辞典編集者の立場からすると、別な意味でも興味深い作品であった。というのは、ほとんどの方がおそらくご存じないであろうと思われる辞典編集の様子が丁寧に描かれているからである。
 実はこの「大渡海」編集部は『日国』『広辞苑』の編集部がモデルになっているのである。もちろん小説の登場人物はあくまでも作者の創作で、特定の人間がモデルになっているわけではないが。  
 人物造形で実際の辞典編集者そのままと言える部分は、普通の人よりも少しだけことばへのこだわりが強いということと、ことばの採取と辞書の編纂に人生を捧げている老学者が登場するが、辞書の世界には実際のこのような用例採取の神様のような方が何人かいらっしゃるということであろうか。ただ残念ながら多くの辞書編集者には小説のようなロマンチックな恋愛話は存在しない。たぶん……。
 三浦さんはご存じかどうかわからないが、実は三浦さんのお父上と『日国』とは浅からぬご縁がある。お父上は高名な上代文学者なのだが、まだ大学院生だった時に『日国』初版編纂のお手伝いをとても熱心にしてくださったのである。編集協力者として辞典にもお名前も出させていただいている。
 三浦さんが辞典編集のことに関心を持たれたのはお父上の影響かどうかはわからないが、我々としては地味な辞典編集の仕事にこんなすばらしい作品でスポットライトを当ててくださったということはとてもありがたい。辞書の世界に興味があってもなくても、ぜひお読みいただきたい1冊である。

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