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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 586

『日本アルプス登攀日記』(W.ウェストン著、三井嘉雄訳)

2012/07/12
アイコン画像    “日本近代登山の父”の日記に見える
「近代」、そして「登山の変遷」。

 噴火予測に山開きと何かと話題の“富士山”が気になって調べているうちに、ある人物に行き着いた。ウォルター・ウェストン(1861-1940年)である。

 山登りと縁遠い私はまったく知らなかったのだが、イギリス人宣教師のウェストンは、3回にわたって来日、滞在し、富士山や〈当時未知の日本中部山岳地帯(日本アルプス)の山々を登り〉、登山活動などを通して〈日本山岳会結成の気運を作〉った人物だそうな。人呼んで〈日本近代登山の父〉(ジャパンナレッジ「国史大辞典」)。で、氏が記した登山日記なるものが、『日本アルプス登攀日記』なのだ。

 私たちは「登山」を当然のように「とざん」と読んでいるが、〈古くはとうざん、またはとうせんとよみ、霊山に登ることをいい、山上の寺に行くこと、寺社に参詣する意味にも使われた〉(同前、「登山」の項)という。山は信仰の対象であり、修験者の修行の場であった。こうした山々は、〈無理に入れば天狗に襲われるといわれていた〉というから、信仰=畏怖だったのだろう。〈江戸中期以降、各地に山岳信仰の講が結成され〉(同「ニッポニカ」、「山開き」の項)、人々は山に登るようになるが、それも「信仰」が理由だ。実際、幕末には〈英国公使のオールコックが富士山に登ったこと〉が大問題となり、〈わが霊山を汚すもの〉だと憤慨し、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がった。その流れの中、〈ヒュースケン(アメリカ公使館通訳)が惨殺された〉(東洋文庫『幕末外交談』)というのだから、人々がどれほど山々を畏怖していたかがわかる。

 明治期に廃仏毀釈運動が起こったように、「近代」はこうした畏れを排除しようとする時代とも言える。登山は信仰ではなく、スポーツだ! とするヨーロッパ生まれの「近代登山」が入ってきたのも時代の趨勢。そしてその黎明期に活躍したのが、ウェストンというわけだ(長い説明でスミマセン)。事実、ウェストンの記述に畏怖はない。あるのは客観的な観察だけ。


 〈八月二十八日 金曜日/午前四時ちょっと過ぎに起床。夜明がゆっくりと広がる。何ともすばらしく、すてきだ。雲はうねった海で、八ケ岳は島だ。/コーヒーとソーセージのあと、六時に出発した。そして十合目に出た。八合目の上、千二百フィート。午前六時五十五分。ぐるつと歩いて、金明水を経て剣ケ峰の頂へ登った〉


 これが富士登頂の記録だ。畏れも信仰もない。ここにあるのは、「登る」という個人的な行為だけなのだ。

本を読む

『日本アルプス登攀日記』(W.ウェストン著、三井嘉雄訳)
今週のカルテ
ジャンル紀行/日記
時代 ・ 舞台1894~1914年(明治後期から大正前期)の日本、朝鮮
読後に一言「信仰のための山登り」をしている日本人集団と、「スポーツとしての山登り」をしているウェストンでは、小屋の過ごし方でも差が出る。前者はハレ、後者は現実。このズレに苛立つウェストンがおかしくもありました。
効用入念な準備と、終始変わらぬペース。日記に垣間見えるウェストンのスタンスは、なるほど登山はこういうものだと教えてくれます。
印象深い一節

名言
八合目、一万一千百フィート。雲が、言葉でいい表せないほどの美しさ。遙かかなたに、東京や横浜の明りが見えた。右手の空に富士の影。(北日本アルプス、富士)
類書富士や日本アルプスの登山も行ったアーネスト・サトウの旅行記『日本旅行日記(全2巻)』(東洋文庫544、550)
ウェストンが日記に残すきっかけを作ったチェンバレンの事典『日本事物誌(全2巻)』(東洋文庫131、147)
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