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1963年に刊行がスタートした『東洋文庫』シリーズ。日本、中国、インド、イスラム圏などアジアが生んだ珠玉の作品の中から、毎週1作品をピックアップ。 1000文字のレビュー、そしてオリジナルカルテとともに、面白くて奥深い「東洋文庫」の世界へいざないます。

東洋文庫 18

『大河内文書 明治日中文化人の交遊』(さねとう・けいしゅう編訳)

2012/04/05
アイコン画像    明治期の日本人と中国人の筆談本の中に
あった、知的で楽しい"お花見"の会話録。

 桜の季節になって心もそぞろになっているが、これは、日本人のDNAに刻み込まれた感情らしい。ジャパンナレッジで調べてみると、いろいろわかりましたよ。


 〈元来、花見は単なる遊山を目的としたものではなく、春の農作に先がけ、定まった日に集団で山籠りして共同飲食をするという、信仰的要素の濃い行事であった〉

(ジャパンナレッジ「国史大辞典」、「花見」の項)


 各地に「種播桜」「苗代桜」という言葉が残っているように、桜の開花は、稲作と密接に結びついていたのだ。「花見」自体、もとは桜でなく梅だったという説もあるが、桜の花見の歴史も古い。


 〈812年〈弘仁3 壬辰〉 2・12 (嵯峨)天皇、神泉苑に行幸し、花樹を見る〉

(「誰でも読める日本史年表」)


 嵯峨天皇のこの「花宴」が、最も古い花見の記録だ。

 「さくら」という言葉も、「日本書紀」(720年成立)に登場するし、同書に登場する木花開耶姫(木花之佐久夜毘売=コノハナノサクヤビメ)の「木花」は、桜というのが定説だ。

 天孫降臨の主役・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、木花開耶姫を妻とするのだが、ゆえに以後子孫の命は「木花」、つまり桜のようにはかなくなったという。散るからこそ美しいとされる桜は、伝説の中にも登場していたというわけだ。やがて「桜」は、歌にも多く詠まれ、日本人のメンタリティに深く根付いていく。


 〈江戸や京都・大坂など都市部ではすでに江戸時代前期において上野や醍醐など多くの花見の名所が知られており、花見はもうこのころには人々の間に定着していたようである〉

(ジャパンナレッジ「国史大辞典」、「花見」の項)


 では江戸以降の人々にとっての「花見」とは?

 東洋文庫に『大河内文書』という書があるのだが、これが大変不思議な著で、元高崎藩主・大河内輝声(おおこうち・てるな/1848~1882)と中国の公使など(つまり文化人)友人との「筆談会話」を収めたものなのである。主人の輝声は、友人の中国人たちを隅田川の花見に誘うのだが、このあたりの記述がすこぶるイイ。


 〈輝声は あさはやくからめをさました。きょうの日を なんとながいこと まっていたことだろう!〉


 事実、輝声は、友人たちと何度も手紙のやりとりをして、ようやく花見の開催にこぎ着ける。その後の愉快な知的会話は本書に譲るが、花見に浮き足立つ様が、読んでいて心地好かった。やっぱり、花見はこうでなくちゃ。

本を読む

『大河内文書 明治日中文化人の交遊』(さねとう・けいしゅう編訳)
今週のカルテ
ジャンル随筆/風俗
時代 ・ 舞台明治期の日本
読後に一言著者が、「大河内文書」を埼玉の寺から発見するくだりなど、本編以外の付録も興味深いものでした。
効用(1)きっと「知性」に惹かれます。
(2)誰かと会話がしたくなります。
印象深い一節

名言
わたしが これを 世にだすことにしたのは 第一には おもしろいから。第二には 明治以後の日中関係が 暗くなる 以前のすがた、中国崇拝の さいごの すがたが 手にとるように みられるから。(編訳者「そえがき」)
類書中国人の花の捉え方・愛で方『中国の花譜』(東洋文庫 622)
同時代のエッセイ。花見の記述も詳細な『名ごりの夢』(東洋文庫9)
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