古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

万葉集の訓の揺れ

第8巻 萬葉集(3)より
訓釈の微妙な違い
改めて言うまでもないことだが、万葉集の歌の読み方は注釈書・学書の類によって千差万別で、どれに従うべきかに迷うことがしばしばである。同じ研究者の書いたものでも、年月を隔てて著した場合、変ってくることが珍しくなく、時には初案のほうが良かったということさえある。この全集本の万葉集でも、新旧二本の間に完訳(完訳日本の古典)本を挟んで、転々と変化している。
 本文が同じままでも、解釈の仕方が違うことがあり、また読み方が改められることが多い。その原因の一つとして、った引用例の変更・取捨ということがある。例えば、現存古写本のいずれも、
人所寐ひとのぬる味宿不寐早敷八四公目尚欲嘆はしきやしきみがめすらをほりしなげかふ(二三六九)
のように書かれている歌の第二句「味宿不寐」を、旧全集本や完訳本は「うまいずて」と読んだが今回の新編全集本では「うまい寝ずて」とした。たかが読み添える助詞がハかモかの違いであるが、どちらが万葉歌の訓としてよりふさわしいか、問題である。新編全集本の「うまい……」は、実は鎌倉時代の万葉学者仙覚せんがくの始めた新点で、寛永かんえい版本の旧訓もそれに従っていた。それを「うまい……」に改めたのは江戸時代の賀茂真淵かものまぶちの『万葉考』である。同書にはそれについて理由を記していないが、思うに、
 白たへの手本たもとゆたけく人の甘睡うまいずやひ渡りなむ(二九六三)
の第四句、原文で示せば「味宿者不寐哉」と、巻第十三の長歌(三三二九)の終り近く、
 ……ぬばたまの 黒髪くろかみ敷きて 人のる 甘睡うまいずに 大船おほぶねの ゆくらゆくらに おもひつつ……
の該当部、これも原文で示せば、「味寐者不宿尓」とあるのがその証拠であろう。しかしまた、
……安眠やすいずに(原文「安寐毛不宿尓」)ひ渡るかも(三一五七)
……安眠も寝ずて(原文「夜須伊毛祢受弖)が恋ひ渡る(三六三三)
宮人みやひとの安眠もずて(原文「夜須伊毛祢受弖)……(三七七一)
のような「安眠も……」の例もある。この際、「甘睡」「安眠」のわずかな意味の差は考慮の必要がなかろう。これを思えば、五分五分と言うより、四分六分で「も」の読み添えに分があると言うべきか。このような場合、多数決で訓を決めるのはいかがとも思うが、新編全集本では、一つには変化を求めて、一つには諸注がこぞって「甘睡は……」とするのに対してあえて異を立て、旧訓に戻したのである。
 同じように、本文の上に異同がないが、訓を少し変えたケースの一つに、
春山霧惑在鸎我益はるやまのきりにまとへるうくひすもあれにまさりて物念哉(一八九二)
の第五句がある。これは旧訓がモノオモハメヤで、その後の注釈書の大部分がそれに従った。その中にあって、旧全集本と完訳本とがモノオモハメヤモとしたのは、第五句に準不足音がめったにないことを考慮してのことである。類例を振仮名付きの原文で示せば、「亦母相目八毛またもあはめやも」(三一)、「都地尓意加米移母つちにおかめやも」(八一二)、「色二出目八方いろにいでめやも」(二七八四)、「五十寸手有目八面いきてあらめやも」(二九〇四)などのように、反語表現メヤの準不足音例はなく、それにモを添えてメヤモとするのが一般である。ちなみに、準不足音とは、「おもふ」「君は言へども」など、五音・七音の定数音かっきりではあるが、その中にア・イ・ウ・オなどの単母音音節があるため一種の字足らずとも見なされる場合をさす。しかし、助動詞ムの反語形式メヤ(モ)は普通、未来推量または意志のそれで、この場合などは現在推量ラムの反語形式ラメヤ(モ)のほうがふさわしい。現に類聚古集るいじゆこしゆうが既に「ものおもふらめや」と読んでおり、また右の歌と内容的にも近いものが『後撰集』にある。
あしひきの山したとよみ鳴く鳥もわがごとたえず物思ふらめや(雑四・一三〇〇)
 この訓に従うことにした。語法面に限り、また和歌の枠の中では、中古の用例で万葉集の読み解きの参考になるものが甚だ多い。
本文と訓との谷間
上記に見たものは本文に異同がない場合であるが、写本間に対立・衝突が認められることもある。その大部分はどちらかが明らかに誤っている場合であるが、どちらにも理があり、またそれらのいずれを採っても訓に変動がないことも珍しくない。例えば、川-河、波-浪、峯-岑などの対立は基準方針の類を設けることができず、どちらが原本の文字であったろうか、と考えること自体、無意味なことが多い。一例を挙げるならば、次の如きがそれである。本文は底本によって示す。
浣衣取替河之川余杼能不通牟心思兼都母とりかひがはのかはよどのよとまむこころおもひかねつも(三〇一九)
の第一句「浣衣」は元暦げんりやく校本や神宮文庫本・細井本などの仙覚寛元せんがくかんげん本などもこうなっている。それを受けた寛永かんえい版本も「浣衣」 のままである。ところが、類聚古集や古葉略類聚鈔こようりやくるいじゆしよう・広瀬本には「洗衣」に作り、紀州本・陽明本・金沢文庫本などの仙覚文永ぶんえい本系の諸本がこれと同じである。「浣」は古本『玉篇ぎよくへん』 に「濯也」とあり、今も「浣腸」などの熟語で用いる。どちらに従っても訓は「あらひきぬ」で、いずれを原形とも定め難い。このような時でも、校注者の内部で意見が分れることがある。訓の上に動揺を見ないからよいではないか、と言われるかもしれないが、しばらくはくすぶりが消えないことが往々にしてある。
 その点、次のような場合は、った本によって訓が変動する。これも底本によって示そう。
垣廬鳴人雖云狛錦紐解開かきほなすひとはいへどもこまにしきひもときあけし公無(二四〇五)
 この第五句「公無」は諸本とも「きみもなきかも」と読んでおり、「きみならなくに」と読みはじめたのは先にも挙げた賀茂真淵かものまぶちの『万葉考』で、それ以後、大方の注釈書がそれに従っている。それでよいと思われるが、その議論は今はく。ただ本文に問題があるというのは、新編全集本第二冊の「古典への招待」で紹介した新出の、定家卿ていかきよう本の流れをむと推定される広瀬本だけに、第五句が「公无鴨」とあり、訓は他本と同じく「キミモナキカモ」と書かれている。ちなみに言えば、「无」は「無」に同じである。第二冊においては、広瀬本の本文や訓の優秀性を述べ、負の面としての誤写・誤脱については触れなかったが、この歌で「鴨」の字が書かれているのは独立異文で、通行訓に合わせた、定家その人のしわざか、それ以前の何かの本にあったのを受け継いだか、はたまた、それ以後の誰かのさかしらか不明だが、案外に定家当人の意改でないとも言い切れない。その証拠というわけではないが、同本には同じような独立異文がある。巻第十九の、
春裏之楽終者梅花手折乎伎都追はるのうちのたのしきをへはうめのはなたをりをきつつ遊尓可有(四一七四)
の第五句は、今は「あそぶにあるべし」と読まれているが、平安時代では「あそぶにかあらむ」と読まれていた。ところが、広瀬本のみ最後に「牟」の一字を加えている。これは訓に合わせた蛇足の本文改変である。古写本は多かれ少なかれ、この程度の人惑わせをこっそりするものである。
 その広瀬本(だけではないが)も、他本の竄入ざんにゆう文字を摘発する助けとなることがある。ここも本文は底本によって示す。なお、「竄入」とは逃げ込むこと。「竄」は本来、鼠が穴の中に隠れることを表す字である。
潮核延子菅不竊隠公恋乍みなとにさねばふこすげぬすまはずきみにこひつつ有不勝鴨(二四七〇)
 この第五句「有不勝鴨」は「ありかてぬかも」と読まれ、その訓はいかにも万葉歌らしく響くため、この読み方に疑いを入れる者はなかった。しかし万葉集の中に、「いねかてぬかも」「知りかてぬかも」「過ぎかてぬかも」など、十数首も類似の結句の歌はあるが、「ありかてぬかも」はありそうに見えて一つもない。結論から言えば、この「鴨」の字は通行訓に合わせた後世人の賢しらに出た後加だったのである。即ち、この巻第十一で最も信ずべくかつ古い嘉暦かりやく伝承本と古葉略類聚鈔こようりやくるいじゆしよう、そして広瀬本、これら三本には「有不勝」とある。ただ類聚古集るいじゆこしゆうにこの「鴨」があるところを見ると、仙覚せんがくなどの中世以降の改竄かいざんでないことは確かである。然らば、何と改訓すべきか、と言うに、「ありかつましじ」である。藤原卿ふじわらきよう鎌足かまたり)の「さずはつひにありかつましじ」(九四)、巻第四冒頭の「かくし得たえばありかつましじ」(四八四)などこれ以外にも六例あり、第四句でかつ表記も少異するが、二四八一の「有不得」は身近な参考例である。
誤字説も退け難い
本書は可能な限り誤字説を採らない方針を貫いているつもりである。しかし誤写・誤脱の類が皆無という写本はない。万葉集についてもそのような古写本はかつてなく、そのうちのかなりの量は最初から原本にあった欠陥と思われる。そのような例を前にしてなお疑わず、改めず、その度毎に、訓義未詳、定訓なし、後考を待つ、と保留するならば、無責任のそしりを免れまい。最小限度の控え目な誤字説は時に必要である。第二冊の巻第七で試みたことだが、底本によって示せば、
黙然不有跡事之名種尓云言乎聞知良久波もだあらじとことのなくさにいふことをききしれらくは少可者有来(一二五八)
の第五句は、旧訓「すくなかりけり」であったのを不満として諸説が行われていたが、『万葉集古義』に引く某人の説および沢瀉久孝おもだかひさたか博士の『万葉集注釈』が、「少可」は「苛」の誤りと見て「からくぞありける」「からくはありけり」としたのが当っていよう。「少」の行草書は草冠に極めて近く、「苛」を縦長に書けば「少可」の二字になること自明である。それと軌を一にするのは、
大夫登念有吾乎如是許令恋波ますらをとおもへるあれをかくばかりこひせしむるは小可者在来(二五八四)
の第五句である。これについては真淵の『万葉考』が、「小可」は「苛」の誤りと見、「からくはありけり」とした。ただ、あるいは「小」「少」通用か、とする案もあるが、これまで見たどの古写本にも「小可」としかなかった。然るに、広瀬本だけにはっきりと「少可」とあるのは頼もしく、巻第七・一二五八の「少可」と共に「からくは……」と読むべきことを証明しよう。
五分五分か七分三分か
話はいささか前後するが、本文の文字の異同によって訓が動く場合の一種に、双方共に可能性が認められ、校注者自身その一方の訓に決し難いことがある。底本で示せば、
夜占問ゆふけとふ吾袖亦置露乎於公令視跡取者消管きみにみせむととれはけにつつ(二六八六)
とある、その第二・三句の旧訓は「わがころもでにおくつゆを」で、旧全集本はそれに従った。しかし、完訳本および新編全集本では「わがそでにおくしらつゆを」とした。嘉暦かりやく伝承本・広瀬本、それと神宮文庫本などの寛元かんげん本に「白露乎」とあるのを尊重してのことである。「白」の字があっても不読字と見る可能性もあり、「袖」を「ころもで」と読むことも考えられ、現にこの直後の二六八八・二六九〇の「吾袖尓」は「わがころもでに」と読むべきこと明らかである。このように本文が動けば訓も揺れ、決断を下しにくい。
 それに比べて、次の歌では、可能性は指摘しつつ、結局は捨て、七分三分ともいうべき歯切れの悪さがいつまでも残る。
春鴙鳴高円辺丹桜花散流歴見人毛我裳さくらばなちりてながらふみむひともがも(一八六六)
 この底本第二句の「辺」の字が元暦げんりやく校本と広瀬本とにない。それを原形と見るならば、第一句の「春鴙」は「はるきざし」と読まざるを得ない。しかし、「春」を不読と見、巻第八・一四四六の題詞「大伴宿祢家持春鴙歌」と整一を計るほうが穏やか、とも考えられる。然らば、元暦校本などに「辺」がないのは誤脱、としてよいのだろうか。本文の整定、校注作業に際しては、このような迷いの尽きることがない。
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記(白傍点を斜体字に、傍点を太字に変更)を用いた箇所があります。ご了承ください。
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