古典への招待

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『和漢朗詠集』をどう読むか

第19巻 和漢朗詠集より
「和漢朗詠集を読めば、白氏文集はくしもんじゆうを読まなくてもよい」
 そう聞いた私は我が耳を疑った。今から三十年近くも前のことである。それは、親しくしていたある方の発言であった。『和漢朗詠集』(以下、『朗詠集』)の中、白居易はくきよいの作品が圧倒的多数である(解説参照)のは周知のことだとはいえ、果たしてそうだろうか。実は『白氏文集はくしぶんしゆう』(以下、『文集』。「ぶんしゅう」の訓みは、太田次男氏説ほか)約三千八百首(補遺を含む)、『朗詠集』の中に収める白居易の作品はたかだか百四十首にたない。当時、ほそぼそと『文集』を読んでいた私には、それはいくら何でも暴論ではないかと思われた。だが確かに、『朗詠集』に収める白氏の作品は、珠玉の佳篇かへんばかりである。それも、部立の中、それぞれ最初に掲げられ、いかにも白氏の美意識に沿って適切に配列されている。単純に数をもって論じられまいとも思われた。それにまた、王朝文学がいかによく『文集』を摂取したかを、誇張をまじえて比喩ひゆ的に表現した、『文集』に対する一種の賛辞なのかと一応は納得してもみた。しかし、『朗詠集』所収の作品は摘句である。その摘句をもって『文集』全体の理解が果たして可能であろうか。つまり、白居易は自らの摘句がいかにもてはやされようとも、それをよしとするであろうか。スケールの大きな中国文化を、日本的スケールでとらえて、果たしてその真に迫れるものか。
 それやこれやと考えているうちに、この問題は、外来文化受容の日本的な特質を考察するに足る、重要なテーマだと思うに至った。『朗詠集』には、それを解くかぎが秘められているように思われる。
 実例で考えてみよう。「雪月花せつげつか」という言葉がある。これは、四季折々の美的な景物を、雪・月・花に代表させ、風流な自然美をコンパクトな一語にまとめたものとして、また、それは我が王朝に由来する根源的な美意識の一つとして一般に理解されているようである。なぜなら、今日、日常的な暮らしの中で、この言葉やイメージがさまざまなものにデザイン化され、用いられる例を見るからである。それらを見るとき、いかにも日本的で伝統的な、自然の情趣美の世界をかいま見る思いがする。
 ところが、この「雪月花」を一まとまりの言葉として文学作品中に用いたのは、中唐ちゆうとうの大詩人、白居易が最初であった。その一れんは『朗詠集』に載っている。
琴詩酒きんししゆの友は皆我みなわれつ  雪月花せつげつくわの時もつとも君をおもふ(巻下「交友」733)
琴を弾じ、詩を作り、ともに酒を酌み交わしたかつての仲間たちは、いずれも遠い存在になってしまった。だから、雪の朝や月の夜、また花の季節に、きまって一緒に風流を楽しんだ君のことが、とりわけ懐かしく思い出される。
 時に、大和たいわ二年(八二八)、作者は五十七歳、洛陽らくようで自適の生活を送っていた。その数年前の杭州刺史こうしゆうしし時代を懐かしみ、風流な遊びをともにした協律きようりつ(音楽をつかさどる官)であった殷氏いんしに寄せた七律の頷聯がんれんがこれである。従って、作者はここで、自然的景物である「雪月花」そのものを追慕しているわけではない。江南の自然がいかに美しかろうと、作者にとって大切なのは、それにまつわる人事であった。その証拠に、作者はこの聯に続く頸聯けいれんで、次のようにうたっている。
幾度か鶏を聴いて白日はくじつを歌ひ  かつて馬にりて紅裙こうくんを詠ず(『文集』巻五十五「殷協律に寄す」〈二五六五〉)
私たちは何回、早朝から白日の歌をうたい、ともに楽しんだことだろう。数えきれないほどだ。また、ある時は、馬に乗ってやってくる美妓びぎ(紅裙)を詩に詠んだりしてともに遊んだものだった。
 下句の「馬に騎る」の主語は、「紅裙」すなわち美妓である。「作者たち」ともとれるが、『文集』巻二十「薪を売る女に代りて諸妓に贈る」詩(一三八二)に「紅を着け馬に騎るは是れ何人ぞ」とあり、「殷協律に寄す」詩の白氏自注(汪立名本)に「予杭州にりし日、詩りてふ」として、この詩句を引いている。
 従って、作者が「雪月花の時」と詠じたのは、単なる自然の風流な情趣をうたうにとどまらず、そこにまつわる人事への追懐こそが主眼なのであった。ところが「琴詩酒……雪月花……」の聯のみを切り取って、佳句麗章の集の中に配列されると、王朝的な自然美のみが強調されがちである。このような断章取義的な受容は、当然ながら部分的な理解にとどまること、もしくは、その理解がひとり歩きをして原作の真意をゆがめた形で詠まれるようになることなどを引き起こしてもやむを得ないだろう。
 問題は、それで果たして『文集』がわかったことになるのか、ということである。あるいは、そういうわかり方がよしとされるのか、ということでもある。さらには、撰者公任きんとう自身が、そういう読まれ方、あるいは、うたわれ方を予測して『朗詠集』を撰したか、また、すでに彼が断章取義的な佳句麗章の修辞的受容をよしとしていたのかが問題となるはずである。ここで忘れてならないのは、『朗詠集』は佳句麗章を部立によって配列した集であるということである。「雪月花」のこの詩句は、「交友」の部立の冒頭に掲げられている。そのことから、友情という人間的な心情の美しさをこの聯から読みとってほしいという、撰者のメッセージを察知すべきなのだろう。しかし、現実には、人は部立との関係をつい忘れて、その佳句が修辞的にすぐれていればいるほど、部立から離してひとり歩きをさせてしまいがちである。
 もう一例を挙げてみよう。「落花」の部立に属する、同じく白居易の作品である。
落花語らつくわものいはずして空しくを辞す  流水りうすいこころくしておのづから池にる(巻上「落花」126)
落花が静かに樹の枝に別れを告げ、はらはらと音もたてずに散っている。庭園のせせらぎは無心に流れ流れて自然に池にそそぎ込む。
 だまって散り急ぐ落花の風情と、流水が無心に流れゆく池辺のたたずまいとを取り合せ、晩春のもの静かな庭園の情景を余すところなく描き出している。まさに一幅の絵を見るような「落花流水」の詠である。
 ところが、これを白居易の原作の中に戻してみると、意外な事実が浮び上がってくる。「部立」とこの詩句とだけを見ているかぎり、絶対に見えてこない事情がここにはある。ずこれを原詩の中に戻してみよう。
元家げんけ履信りしんの宅にぎる(『文集』巻五十七〈二七九九〉)
鶏犬けいけん家をうしなふ分散の後  林園主りんゑんあるじを失ふ寂寥せきれうの時
落花語らつくわものいはずして空しく樹を辞す  流水りうすいこころくしておのづから池に
風は醼船えんせんゆるがして初めて破漏はろうす  雨は歌閣かかくそそいで傾欹けいきせんと欲す
前庭後院傷心ぜんていこうゐんしやうしんの事  しゆん風秋月ぷうしうげつのみ知る
大和八年(八三四)、作者六十三歳の時の作。これより三年前、親友元稹げんしんは五十三歳で世を去った。そこで作者が洛陽履信里りしんりにあった元稹の旧宅を訪れて感慨にふけったのがこの詩である。この家の主が死んでからは、飼われていた鶏や犬たちも散り散りばらばら。広い園内は手入れもされずにひっそりとしている。折しも咲き乱れる花は、主の死をいたんで、その後を追うかのように、音もなく散り急ぐ。それに反して庭の流水は、主の死も知らぬげに、昔通りに無心に池にそそぎ込む。その池には、かつて楽しい宴会を催した屋形船が、人影もなく風に揺られ、破れかけて水びたしになっている。また、屋敷の方へ目をやると、歌をうたって遊んだ高殿は、雨に打たれて早くも傾きかけている。前庭後院どこを見ても心を傷ましめぬものはない。今では、ここを訪れる者は誰もなく、春の風、秋の月がおとなうばかり。主、生前の盛時を知る者は誰もいない。
 ここでうたわれる落花の姿は、まさに主の死を悼む哀惜の情に満ちてみえる。単なる晩春の美景を詠じたものではない。流れの風情にしても、人生無常の思いを託した表現である。「落花流水」の詩句が、親友元稹の死を悼み、無常感を象徴的に詠出したものであるとすれば、『朗詠集』巻下にある「無常」の部立に入れるのこそ、作者の真意に沿うものであろう。これが「落花」の部立に入れられたという事実は、断章取義の摘句が修辞的な意味で強調され、原作者の意図からかけはなれていく一例であろう。こうした理解は、詩魔しま(文学の鬼)を自称し、自らの文学に命をかけた(「香山寺こうざんじ白氏洛中集記はくしらくちゆうしゆうき」など)白居易に対して正当な評価を失することになりはしないか。
 公任はじめ当時の知識人たちは、該博がいはくな漢文学の教養を身につけていたから、佳句麗章の周辺の事情(作者、題、成立など)は言わずもがなの共有の知識としてあったのかも知れない。これもまた簡潔を尊ぶ漢詩文の特徴のひとつにかかわることである。それを暗黙のうちに理解する、いわゆる行間を読むという享受の仕方は、それこそ高度で知的な理解であり、一種スリリングな緊張を伴うものである。『朗詠集』をとりまく平安人士間にあって、それは相互の場を濃密にする知的効果を共有するものとして、やがては質の高い遊びのおもしろさにもつながっていく。「無常」の部立にこそふさわしい「落花流水」の句を、それを承知でさりげなく「落花」の部立に入れているのも、悪く言えばつまみ食いだが、大岡信氏のいわれる「うつしの美学」(『詩人、菅原道真――うつしの美学』岩波書店)の一形態なのかも知れない。
 本書で底本にした、現存最高の善本とされる御物『伝藤原行成筆粘葉本和漢朗詠集』は各作品の題を欠いているものが多い。同じく御物巻子本『伝藤原公任筆和漢朗詠集』を見ると、題はおろか作者名すらも徹底して欠く。和歌に至っては、両本とも詞書は省略に従っている。公任自筆の『朗詠集』が今日見つからない以上、その理由は推測するしかないが、このような省略は決して不親切な態度ではなくて、実は各麗章の行間の意味を読みとるおもしろさのためには、むしろそうあるべきであったのだろう。空白部分を読むことは創造なのである。創造的な読みができることは、読み手にとって精神を知的な場に遊ばせることであるし、そうした読みは自己発見への道でもあるからだ。
 また、『朗詠集』はその末尾に「白」という部立を置く。これも、『朗詠集』の中に自らの言葉で語れなかった公任が、空白の大切さを主張する意味で「白」を置いたように思われる。またそれは、「虚室きよしつに白を生ず」(『荘子』人間世)という思想や、それに基づく白居易の詩句「他生たしやう忘るるかれ今朝こんてうくわい虚白亭きよはくてい法楽ほふらくの時」(『文集』巻二十「内道場ないだうぢやうえいくわん上人……つてこれを以て贈る」詩〈一三九〇〉。解説参照)を公任なりに理解したあかしでもあったろう。
 公任はその著『九品和歌くほんわか』(『和歌九品』とも)の中で和歌を九品に分けてその優劣を論じているが、作者や部立等は一切排して、歌そのもののみによって評している。名歌を取り集めたものだけにそれらの情報は書こうが書くまいが、王朝貴紳たちの共有の教養としてあったと見れば、作品の理解、鑑賞に支障はない。しかも、『朗詠集』のごとく朗詠されることを前提とすれば、詞章本文が主であったろうから、情報の省略化の傾向は自然の流れでもあったろう。また、いうまでもなく、能書家の手になる古筆が手習いの手本としてもてはやされた結果、本文以外の要素は省略されたという可能性も高いであろう。『朗詠集』の本文研究が十分ではない現在、本文の原初形態をおしはかるのは至難のわざである。本格的な諸本系統研究により、これらの問題に光が当てられるのを待つほかはないであろう。
『和漢朗詠集』には王朝人の高貴な理知があふれ、風雅で安定した心が満ち満ちている。我々が静かな心を取り戻し、その故郷に帰ろうと願うとき、『朗詠集』をひもとくと、不思議にしみじみとした懐かしさを覚えるのは私だけだろうか。風雅な知の世界に遊ぶ楽しさを『朗詠集』は限りなく教えてくれる。
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