古典への招待

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源氏物語は悪文であるか

第22巻 源氏物語(3)より
 日本文学史上の最高峰として規範的な存在でありつづけた『源氏物語』だが、その文章についてもさまざま論じられてきた。
 最初の本格的な作家研究として記念される安藤年山著『紫女七論しじよしちろん』(元禄十六年〈一七〇三〉成)には「文章無双」の章が設けられて、以前の諸作品の「古体」から離脱して「しかもやはらかにおほどかに安らかにやさしく、おほよそ吾国の風流を尽したれば、見る人をしてむ事を知らざらしむ。誠に大和書やまとぶみの上なき物なり」と絶賛されている。またいわく「これを漢文にして見侍みはべらば、史記・荘子・韓柳・欧蘇に等しかるべし。女の筆にはめづらかにあやしく、式部は古今独歩の才と云ふべし」と。こうした頌詞しようしは、賀茂真淵かものまぶち著『源氏物語新釈』(宝暦八年〈一七五八〉)の「惣考」における「文のさま」にもほとんどそのままけられているが、具体的精細に『源氏物語』の文章作法を批評の俎上そじようにのぼせたのは萩原広道著『源氏物語評釈』(嘉永七年〈一八五四〉、文久元年〈一八六一〉)であった。その総論の「此物語に様々の法則ある事」の条で詳細な文章論を開陳した広道は「頭書評釈凡例」において主格・正副・正対・反対・照対照応・間隔・伏案伏線・抑揚・緩急・反覆・省筆・余波・種子・報応・諷諭・文脈語脈・首尾・類例・用意・草子地・余光余情等の標目を立て、これらを基準として『源氏』の文章の解読を試みようとしたが、こうした漢文の修辞法を準用する煩瑣はんさな法則立ては無用であるとし、独自の文章論を展開したのは五十嵐力著『新国文学史』(明治四十五年)であった。
 『新国文学史』には『源氏物語』の文章が「洗練推敲を極めたる点」「優美艶麗を極めたる点」「朧写式なる点」「撚絡式の修辞法」等の視点から具体的に文例を引証しつつその特色が説明されているが、欠点としても、「優美の単調」「脚色の単調」「朧写の過度」「事の繁に過ぐる事」「叙事の冗漫、文脈の錯綜」等が指摘された。五十嵐には『新文章講話』(明治四十二年)の著もあり、『源氏』の文章について「優艷、絢爛、洗練、彫琢の妙を極めた」としながらも「句読の長い、のろのろした、断続の不明瞭な、無脊椎式、聯綿れんめん式、真田虫式」と評していた。褒貶ほうへん表裏する評言といえようが、近代の散文修辞学の見地からする文章論はそれとして、同時代の論壇における悪文説も無視できなかろう。たとえば、内村鑑三「後世への最大遺物」(明治二十七年講演)、高山樗牛「吾が好む文章」(『中学世界』明治三十五年二月)、斎藤緑雨「半文銭」(『みだれ箱』明治三十六年)等に、ほとんど異口同音ともいうべく「古今の大悪文」「悪文の標本」等の文言が見いだされるが、『源氏』悪文説主唱者として有名なのは正宗白鳥であろう。いわく、「いくら千年も前に世に現はれた古典であるにしても、同じ国に生れて、少年時代から多少は古文を学んで来た私が、日本最大の傑作と折紙のついたこの物語に嫌悪を感じるのは不思議である。(中略)自国の文学では国宝視されてゐる源氏は、読みながらいく度叩きつけたい思ひをしつヾけたか知れなかつた。内容は兎に角、無類の悪文である」と(「古典を読んで」『中央公論』大正十五年八月文芸時評)。
 正宗白鳥は「英訳『源氏物語』」という文章(『改造』昭和八年九月文芸時評)においても『源氏』の原文を「気力のない、ぬらぬらとした、ピンと胸に響くところのない、退屈な書物」とか「頭をチヨン斬つて、胴体ばかりがふらふらとしてゐるやうな文章で、読むに歯痒い」とか、ずいぶん否定的であるが、しかるにこれに対するウエーレーの英訳文は、「サクリサクリと歯切れがいヽ。糸のもつれのほぐされる快さがある。消極的の原文が積極的に翻訳されてゐる(下略)、翻訳も侮り難いもので、死せるが如き原作を活返らせることもあるものだと、私は感じた」と述べている。いかにも近代的な文章の成熟のためには「大和書の上なき物なり」とされた『源氏』の文章は排擠はいせいされねばならなかったといえよう。正岡子規の『古今集』批判が連想されもする。
 しかしながら『源氏物語』を「悪文」とする近代的な文章観の尺度はそれ自体批判されねばなるまい。『源氏』の文章の特色については語学研究の側からも文学研究の側からも、さまざまに追究されてきたが、特筆すべきは玉上琢彌によって首唱された「物語音諧論」(『源氏物語研究』昭和四十五年に諸論文所収)を糸口にして、古くは漢文の修辞原理による、新しくは近代の散文修辞学の法則を適用した文章論をひき離す表現研究への道がひらかれたことであろう。『源氏物語』の文章は語り手が語り、あるいは読み聞かせ、それを聞き手が耳に聞くという享受形態において成り立つ物語の本来的な在り様を、その内部に構造化するものとして認識されるようになった。ということは、いうまでもなく口頭で語られたまま文字化されたというのではなく、口頭で語られる物語の形式が、どのような書き言葉の文体として創出されたかが問われることにほかなるまい。『源氏物語』は、ある語り手の「語り」という行為によって紡がれていく体裁であるが、その語り手はその世界構造と分ち難い関係で立ち働くまことに奇妙な存在である。全知の視点から聞き手にむかって語りかける語り手だったものが、いつか作中人物に寄り添い、その心のひだに密着し一体化し、さらには彼の無意識の層にまで潜入したかと思うと、微妙に距離を置いてみたり、あるいは間髪を入れずそこからはるかに遠ざかって彼の心を、また行為を忖度そんたくしてみたりする。そのさまざま変幻自在に時間・空間を遊弋ゆうよくする語り手は、作中人物を称賛したり、同情したり、支援したり、非難したり、揶揄やゆしたり、その場その場で適切に立ち働いている。このような、まさに『源氏物語』において創造された語り手の言葉に耳を傾けるとき、悪文説は霧散するというものであろう。
 なお、近代の源氏学史上の記念碑ともいうべき和辻哲郎「源氏物語について」(『思想』大正十一年十二月、『日本精神史研究』大正十一年所収)には『源氏物語』の文章の晦渋かいじゆうの原因の重大な一つとして「描写の視点の混乱」が指摘され、この混乱のために不快な抵抗を感ぜずには読むことができないとあるが、しかし、視点の混乱と裁断するのではなく、すばやいそれの変換や重層の妙として受容することが適切であろう。事柄やその状況を内からと外からと多面的に、一挙に立体的に彫り進む文体の達成として評価すべきではあるまいか。
 
 本巻には21少女おとめ、22玉鬘たまかずら、23初音はつね、24胡蝶こちよう、25ほたる、26常夏とこなつ、27篝火かがりび、28野分のわき、29行幸みゆき、30藤袴ふじばかま、31真木柱まきばしら、32梅枝うめがえ、33藤裏葉ふじのうらばの十三帖をおさめる。以下、そのあらすじである。
 源氏の朝顔の姫君への懸想は、姫君の気持を変えられぬまま、いっこうに進展しなかった。源氏は元服した嫡男の夕霧ゆうぎりを大学寮に学ばせるなどきびしい教育方針を定め、祖母の大宮を説得した。夕霧は刻苦勉励して秀抜な才質をあらわし、やがて寮試に及第した。斎宮女御さいぐうのにようごが中宮に冊立された。源氏は太政大臣に、大納言(頭中将)は内大臣にそれぞれ昇進した。内大臣はわが娘の弘徽殿女御こきでんのにようごを立后させることができなかったのを残念に思い、大宮のもとで養育されていた雲居雁くもいのかりを東宮妃にと望みをかけていたが、彼女が幼なじみの夕霧と相思の仲となっていることを知り、その仲をさいて本邸に引き取った。源氏は惟光これみつの娘を五節の舞姫に奉ったが、夕霧はその娘に懸想けそうして歌を贈った。翌春の朱雀院すざくいん行幸に、夕霧は詩才をあらわして進士しんじとなり、秋の司召つかさめしには侍従じじゆうとなった。源氏はかねて構想していた六条院の造営にとりかかって八月に落成、紫の上ほかの女性たちを移り住まわせた。翌年には紫の上の父式部卿宮の五十賀が予定され、その準備に余念がない。〈少女〉
 夕顔の遺児玉鬘は乳母めのとに伴われて筑紫に下向し、その地で美しく成人していたが、肥後国の土豪大夫監たゆうのげんの強引な求婚を逃れて帰京し、長谷寺に参詣した折、かつて夕顔の侍女で、今は源氏に仕える右近うこん邂逅かいこうし、やがて源氏の六条院に迎えられた。年の暮、源氏は女性たちに正月の晴着を配ったが、末摘花すえつむはなの対応には苦笑するほかなく、これが機縁となって紫の上を相手に歌論が開陳された。〈玉鬘〉
 正月元日、六条院には瑞気満ち、紫の上の御殿は「生ける仏の御国」と思われた。その元日の夕、源氏は紫の上とともに千年万歳を祝い、次々と女性たちのもとに訪れ、その夜は明石の君とともに過した。翌日は盛大な臨時客りんじきやく。数日後、源氏は二条東院に末摘花・空蝉うつせみを訪問した。十四日、男踏歌おとことうかが行われ、その一行が六条院にも回ってきた。〈初音〉
 三月二十余日、春の町で船楽の遊びが催された。参集する君達のなかには玉鬘に思いを寄せる人々も少なくない。翌日は中宮の季の御読経が始まった。やがて源氏は玉鬘への懸想人に伍して自身も彼女に思いを燃やす人となった。〈胡蝶〉
 源氏の執心に玉鬘は悩んだ。蛍兵部卿宮が玉鬘のもとを訪れた初夏の一夜、源氏は部屋に蛍を放って彼女の姿を照らして見せた。五月五日、競射きようしや。その夜源氏は花散里はなちるさとと過した。長雨が続くころ、六条院の女性たちは物語に熱中した。源氏は玉鬘を相手に物語論を披瀝ひれきした。夕霧は、仲をさかれた雲居雁への思いに苦しんだ。内大臣はわが娘たちの不運を嘆くが、それにつけても夕顔に産ませた娘のことが想起された。〈蛍〉
 六月、六条院の釣殿で納涼、源氏は内大臣の子息たちに近江おうみの君のうわさただした。その夕、玉鬘を誘い、和琴わごんを弾奏して彼女と唱和した。彼は玉鬘の処遇に苦慮するが、一方、内大臣は、扱いに困こうじた近江の君の身柄を弘徽殿女御に託そうとした。〈常夏〉
 源氏は近江の君の噂を聞いて、内大臣の扱いを批判するが、それにつけても玉鬘はしだいに源氏の心用意に感じ入り、打ち解けつつあった。秋七月、源氏は篝火の煙によそえて玉鬘への執心を訴えた。玉鬘は名のりあえぬ実の兄弟たちの奏楽を感慨深く聞き入っていた。〈篝火〉
 激しい野分が吹き抜けた六条院で、夕霧は紫の上の姿をかいま見て、その美しさに魂を奪われた。源氏に従って六条院の各所を経めぐる夕霧は源氏と玉鬘のむつみあいを見せつけられて不審を抱いた。彼は明石の姫君のもとに立ち寄り、雲居雁に恋文をしたためた。〈野分〉
 十二月の大原野行幸の折、玉鬘は帝の麗姿に心を動かした。源氏は玉鬘に尚侍ないしのかみとして入内じゆだいすることを勧めた。翌春、内大臣は大宮に招かれて源氏と対面し、玉鬘についての真相を知らされ、彼女の裳着もぎ腰結役こしゆいやくをつとめることになった。近江の君の言動は周囲の嘲弄ちようろうを招くのみであった。〈行幸〉
 玉鬘は出仕を前にして身の上を思い悩んだ。源氏の使者として玉鬘に勅旨を伝えに訪れた夕霧は慕情を抑えがたく胸中を訴えた。そして復命に立ち戻った彼は、玉鬘の処置につき噂話にかこつけて源氏を鋭く問いつめた。玉鬘の出仕は十月と決定した。懸想人たちは焦慮し、競って文を寄せた。彼女は蛍兵部卿宮にだけ返歌を与えた。〈藤袴〉
 鬚黒ひげくろ大将は玉鬘を手中にした。思いがけないなりゆきであった。予定どおり玉鬘は尚侍として参内さんだいしたが、大将は北の方の嘆きをよそに玉鬘を自邸に迎え取ろうとした。式部卿宮の長女で紫の上の異母姉にあたる北の方は神経症に病みつかれており、大将の心は離れていたが、ある夜、玉鬘のもとへ出向こうとする大将に対して発作的に火取ひとりの灰を浴びせかけたことから破局は決定的となった。北の方を引き取ることになった実家の式部卿宮家ではとりわけ母北の方が源氏夫妻、特に紫の上を憎み恨んだ。翌春、玉鬘は参内したが、まもなく大将は強引に自邸に退出させた。帝は玉鬘への恋情に苦しみ、源氏も彼女への思いを断ちきれなかったが、しかし彼女は妻として母として、大将家に根を下ろす宿運を生きる人であった。〈真木柱〉
 明石の姫君の東宮への入内に先だって、六条院では薫物合たきものあわせが催され、御方々の調進した薫物にそれぞれ人柄がしのばれた。入内は四月と決定し、源氏は姫君のために調度、草子類を選んだ。夕霧と雲居雁の関係も決着を迎えようとしていた。〈梅枝〉
 故大宮の一周忌に、内大臣は夕霧に語らい、藤花の宴にことよせて自邸に招待した。その夜、夕霧と雲居雁は宿願を果して結ばれた。明石の姫君の入内を前に、紫の上は賀茂神社に参詣し、祭を見物した。入内に際しては、生母明石の君が後見役となって姫君に侍することになった。源氏は准太上天皇となり、内大臣は太政大臣、夕霧は中納言となった。六条院に冷泉れいぜい帝・朱雀院すざくいんともに行幸あり、源氏の栄華の極致であった。〈藤裏葉〉(秋山 虔)
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