古典への招待

作品の時代背景から学会における位置づけなど、個々の作品についてさまざまな角度から校注・訳者が詳しく解説しています。

説話集の読み方

第50巻 宇治拾遺物語より
配列を楽しむ
『新古今和歌集』の「三夕さんせきの歌」といえば、たいていの人は高校の国語教科書に次の三首が載っていたことを思い出されるであろう。
寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮   寂蓮法師
心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮   西行法師
見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり浦のとまの秋の夕暮   藤原定家朝臣
そして、これらの歌は『新古今集』巻第四・秋歌に収められているもので、いずれも三句切れ、体言止めという形式上の特徴を表しており、余情幽玄という効果の表出にも成功しており、まぎれもない『新古今』調の歌である。それもそのはず、これらの歌の作者というのは、寂蓮と定家の二人は『新古今集』の撰者であり、百首近い歌が採録されている西行は『新古今集』を代表する歌人なのだから、というような説明を受けたことをも思い出されるであろう。しかし、おそらく以下のような解説はなかったのではないか。すなわち、右の三首は『新古今集』に収録されている千九百八十余首の中の三六一・三六二・三六三番目に連続して配列されている。それらは「秋の夕暮」の歌群の一部であって、その前には、
三五七 おしなべて思ひしことの数々かずかずになほ色まさる秋の夕暮
三五八 暮れかかるむなしき空の秋を見ておぼえずたまるそでの露かな
三五九 もの思はでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮
三六〇 山路やまぢやいつより秋の色ならん見ざりし雲の夕暮の空   前大僧正慈円
というような歌、また後には、
三六四 たへてやは思ひありともいかがせんむぐらの宿の秋の夕暮   藤原雅経
三六五 思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞ問ふ   宮内卿
三六六 秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮   鴨 長明
というような歌が続いている。比喩ひゆ的にいえば、先の三首も、これらの連続する「秋の夕暮」という織物の一部分であり、微妙に少しずつ変展する織柄の色調のきわだっている箇所と見るべきものである。というような解説はおそらく施されなかったに違いないということである。つまり、三夕の歌を歌群の流れの中で鑑賞することはせず、流れの中からすくい上げ、ほかの仲間たちから切り離し、個別的に分析的に鑑賞しようとする読み方に終始していたわけであり、それがこれまでの「和歌集」の一般的な読まれ方であったと思う。問題にしたいのは、その点である。
 確かに三夕の歌は、秀歌である。たとえば鴨長明が「幽玄」を、「秋の夕暮の空のけしきは、色もなく声もなし。いづくにいかなるゆゑあるべしとも覚えねど、すずろに涙こぼるるがごとし」(『無名抄』)と説明する時に、彼の念頭にあったのではないかと推量したくなるほどの秀歌である。そうした秀歌や、ほぼ二千首もの歌群の中から選び抜かれた秀歌選を読むこと自体を、間違いだ、よくないと言うつもりはない。斎藤茂吉の『万葉秀歌』が、『万葉集』の読者を飛躍的に増大させた例を持ち出すまでもなく、目利きによって精選されたアンソロジーの意義は大きい。その意味では、『万葉秀歌』に比肩されるような『古今秀歌』や『新古今秀歌』が世に出ないのは残念な話と言わなければならない。
 だが、『新古今集』という歌集の立場、もしくは、その編者の気持になって考えてみるならば、抄録本で読まれることは、やはり不本意なことに違いない。久保田淳氏は、『新古今集』の和歌の編成ぶりについて、次のように指摘する。二千首に近い『新古今集』の歌に、「託された幾多の風物や観念が、時間の軸に沿って連鎖されていく配列の妙味は、『新古今集』の場合が『古今集』の場合よりもきめ細かく、行き届いているということも確かであろう。ほどよく古歌と新しい歌とが織りまざり、時には作者の連想で並べられたと思わせるような連鎖も見受けられる。また、まれには同一主題の繰り返しや飛躍もある」(新潮日本古典集成『新古今和歌集』解説)。抄録本で読むということは、そうした配列の妙味を味わわないということであり、編者の苦心の達成に目をつぶるということでもある。それは個々の秀歌を丁寧に鑑賞することとまったく別の行為ではないが、木を見て森を見ない鑑賞法だということはできよう。そういう読み方一辺倒で終始していて、はたしてよいのだろうか。事情は、『宇治拾遺物語』のような説話集についても同様なのである。次に『宇治拾遺』の編者からのメッセージを見てみよう。
対照的な二人の仏弟子
インドにウバクッタという聖人がいた。なぜか聖はある弟子の僧に向って「女に近づいてはならぬ。近づけば、そなたはホトケの国に生れかわることができなくなるぞ」と戒めるのが常であった。すでに阿羅漢あらかんという悟りの境地に達していると認められていたその弟子の僧は、「いまさら言わずもがなのことを何だ。うるさいことだ」と不愉快に思った。
 ある日、弟子の僧が河を渡っていた。その時、近くで同じように河を渡っていた若い女が水に足をとられて流され始めた。初めは女の助けを求める声に耳を閉ざしていた彼も、女が浮き沈みしながらどんどん流されて行くのを見ては無視もならず、近寄って手をとって対岸に渡してやったのだった。
 岸に着いたので、女はもう手を放してほしいと頼む。ところが彼は、女の白い手のふくよかな感触に未練を覚え、放してやることができない。それどころかしっかりと握りしめたまま、「先の世の契りが深かったのでしょうか。あなたに魅かれます。私の言うことを聞いてください」とせがむ。女が「命の恩人の言うことは拒めません」と応諾すると、彼は喜び、女の手を引いて、萩・すすきのしげみの中へ入って行く。
 やがて女を押し倒して、しゃにむに犯そうと女の股の間に挟まってから女を見ると、なんとそれは、我が尊師ウバクッタその人なのであった。仰天してからだを引こうとすると、ウバクッタは強く挟んで、「なんのためにこの老法師をこんな目にあわせようというのか。これでもなんじは女犯によぼんの心なき聖者だと言うつもりか」と糾問し、逃げようとする弟子のからだをしっかりと挟んで放さず、それを道行く人々に見物させ、十分に恥を与えてから寺へ帰った。寺へ帰ってからは鐘をついて衆僧を呼び集め、わざわざ河原での一件を披露したのであった。そのようなみせしめを受けた弟子の僧は、女犯に傾いた罪の心を悔い改めて阿那含果あなごんかの悟りを得たという。
 以上が第一七四話(四二五ページ)の顛末てんまつである。この話の後には、編者のコメントは何もない。江戸時代の板本では、この話が巻第十三の最終話になっており、次の第一七五話が言うまでもなく巻第十四の冒頭話になっている。しかし、前代の写本では巻編成が行なわれておらず、話の配列契機を追尋していくうえでは、この巻編成は無視してよい。そこで第一七五話をみる。
 海雲比丘かいうんびくは、中国唐代の五台山に住んでいたとされる伝説上の人物である。『宋高僧伝』では、普賢菩薩の応身としている。その海雲比丘が、道で十余歳の少年に出会った。法華経を読んだことがあるかと尋ねると、その名前さえ知らないとの答えに、「それなら私の坊に連れて行って、法華経を教えよう」と水を向けると、「仰せのままに」と五台山の坊へともなわれて行った。少年が経を学んでいるところへちょくちょく小僧がやって来ては海雲比丘と話し込んで帰って行く。あれは文殊菩薩だと教えるが、少年はそれが何者を意味しているのかを知らない。ある時、海雲比丘は少年に、「なんじは決して女に近づいてはならぬ。距離をおいて、馴れ親しまぬことだ」と戒めた。
 その後、少年は路上で、葦毛あしげの馬に乗った美しく化粧した女に出会った。女は「道がわるくて落ちそうだから、馬の口取りをしておくれ」と頼むが、少年は耳を貸さない。まもなく馬が暴れて女は逆さまに落ち、「私を助けて。死にそうなの」とせがむが、少年はやはり聞き入れず、まっすぐ五台山へ帰って、師匠にその一件を報告する。師匠は「よく誘惑に負けなかった。その女は文殊がおまえの心をみるために変身していたものに違いない」とほめたたえた。その後、法華経全巻を学び終えた少年は、海雲比丘から東京とうけい(洛陽)の禅定寺のりん法師のもとへ行って受戒してくるようにと命じられ、受戒をすませて五台山へ帰ってみると、海雲比丘とその僧坊は跡形もなくなっていたという。
 ところで注目したいのは、この後に続く次の一節である。
かれは、ウバクッタの弟子の僧、かしこけれども、心弱く女に近づきけり。
これは、いとけなけれども、心強くて女人に近づかず。かるが故に、文殊、これをかしこき者なれば教化して、仏道に入らしめ給ふなり。
されば世の人、戒をば破るべからず。
言うまでもなく、「かれ」とは第一七四話のウバクッタの弟子、「これ」とは第一七五話の海雲比丘の弟子の少年をさすわけだから、編者は一七五話の末尾において、一七四話との対比と総括を行なっていることになる。このことは疑いもなく、両話が連接するように意図的な配列が編者の手でなされたということである。一七四話は『今昔物語集』巻四‐六話と同文の話であるが、一七五話は『今昔』に類話を見いだすことができない。一七四話は、一七五話とは素性の異なる話であったと推察されるわけである。編者は別々な伝承ルートによって伝えられていた僧と女性にまつわる対照的な二つの話を、『宇治拾遺』の中で引き合わせ、読者に向けて対比・総括のメッセージを発したのではなかったか。だとすれば、たとえば第七八話において語られている籠居修行の御室戸みむろどの僧正と山中難行の一乗寺の僧正という対照的な組合せや、安倍晴明にまつわる第一二六話と第一二七話、あるいは外国での日本人による虎退治を扱った第一五五話と第一五六話など、数々の類似話の配列も、編者による意図的な連結であった可能性が確実味を帯びてくる。
説話の妙味をフルコースで
『宇治拾遺物語』はこれまで、個々の説話への興味から、個々の説話に個別的にスポットライトをあてるという拾い読みが行なわれてきたと言ってよい。話の連絡ぶりについても、断続的・飛躍的な傾向を持つとか、アトランダムな説話配列のもたらす意外な展開にこそ面白さがある、それはまさしく雑纂ざつさんの面白さだなどという、実態を無視したたいへん無責任な解説がまことしやかに横行してきた。しかも、いまだにそうした見方に固執している頑迷な人が多い。しかし、すでに早く「古事談鑑賞(十一)」(国文学解釈と鑑賞 昭和四十一年四月号)において、益田勝実氏が「『宇治拾遺物語』の編者――かれは、おもしろく話をつないでいかねば、満足のできないタイプの人であった」と指摘しておられたように、『宇治拾遺物語』は巻頭話から最終話まで、一続きの説話の織物であることは確かなことなのである。
 その全貌については、巻末の解説に挙げた「説話連絡表」(五〇七ページ)を参照願いたいが、編者の工夫した配列の妙味を探りながら、つまみぐい的にではなく、できるならば、ゆっくりと時間をかけて、ちょうど勅撰和歌集の全歌の流れをたどるように、説話のフルコースを味わっていただきたい。そして織物の微妙な縦糸横糸のつながりと、それらが織りなしている多彩な紋様にどうか目を向けていただきたい。
『宇治拾遺物語』の特質は、説話の花束という形容では十分に言い尽すことにならない。それは全一九七話にも及ぶ長い説話の連続模様の織物なのであり、万華鏡的な人間絵巻なのである。 (小林保治)
※なお、表示の都合上、書籍と異なる表記(傍点を太字に変更)を用いた箇所があります。ご了承ください。
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