古典への招待

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浄瑠璃略史

第77巻 浄瑠璃集より
「浄瑠璃」を辞書(小学館版『日本国語大辞典』第二版)で引くと、
(1)仏語。清浄、透明な瑠璃。また清浄なもののたとえ。(引用文略)
(2)平曲・謡曲などを源流とする音曲語り物の一つ。(以下略)
(3)(「湯屋浄瑠璃」から転じて)湯屋(銭湯)をさす隠語。(引用文略)
とある。仏教に関心のある者以外は、(2)の意味でこの語に親しんでいる。(2)の芸能の「浄瑠璃」という語彙ごいを、筆者は小学生のころ聞いた。お稽古けいこの声が聞えていたのである。「もとより娘は切られて死んだ」という一句が繰り返し聞えてくるので、何やらむずかしいもののようだと思い、母にあれは何だと尋ねた。九州人の母は「ジョーロリ」と答えてくれた。筆者が特殊な環境でジョーロリを知ったとは思わない。戦前の日本人にとってジョールリは縁遠いものではなかったと思っている。
 文献上での浄瑠璃なる語は、「いつものしやうるり御ぜん/した□□のなどをかたられ候はばよく存じ候」(文明七年〈一四七五〉七月『実隆公記さねたかこうき』背紙)とあるのが最も早いとされる。かつては連歌師宗長が小田原の旅中、「小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ一盃にをよぶ」(享禄四年〈一五三一〉八月『宗長日記』)を最古としていたので、今後新資料が発見され、時代をさかのぼることもありうることだが、現在は五百年前ごろから浄瑠璃という文芸のジャンルがわが国に存在していたと言っておこう。
 何故(1)の意の仏教的な名称が芸能の名称に転用されるようになったのであろう。三河国(今の愛知県)矢作やはぎの宿の長が鳳来寺ほうらいじ(峯の薬師)に祈願し、ようやく女の子を授けられた。その子の名前を薬師如来にあやかって「浄瑠璃姫」としたのである。その姫を主人公にした物語が、右に記した文献にあらわれたわけである。この「浄瑠璃姫物語」は、もっぱら平曲(平家物語)を語っていた琵琶びわ法師によって語られることにより普及する。琵琶法師たちはレパートリーを広げ、これ以外の様々な物語も語るのであるが、それは外題げだい(題名)として扱われ、ジャンル名としては「浄瑠璃」と称されることに変りはなかった。
 ヒトカタとして人類とほぼ同年代を保つニンギョウ、信仰・祈祷きとうなど宗教性の濃い位置付けをされていた人形に、芸能性が加味されると「人形操り」となり、それなりの歴史をたどっている。その「人形操り」と「浄瑠璃」が合体して「人形浄瑠璃芝居」が成立した。浄瑠璃として語られる物語を人形によって視覚化し、観客に見せる芝居のことである。近世初期、四百年位前のころという。彼らが伴奏楽器として使用したものは、ほぼ同じ時期に渡来し、日本人の感性に適合した「三味線」を琵琶から持ち替えたことを付け加えておこう。
 現在、浄瑠璃を語る太夫、伴奏楽器を奏でる三味線弾き、それに人形を操る人形遣いの三者(「三業」と称す)によって上演され続けている「文楽」の基点はこの時であり、四百年間続いていることになる。この四百年の歴史は、語り物の内容が文学的に成長もし、それを語り聞かせる太夫あるいは三味線弾きの技術・技法の向上もあった。また、道具としての人形の操り方にもいろいろな変化があった。三味線と人形については紙数の関係で詳述できないので、それぞれの研究書を参照されることを願い、太夫によって語られる「浄瑠璃」の内容を中心に、少しくその変遷をたどってみよう。

  『外題年鑑』(宝暦七年〈一七五八〉二月刊)の目録には「当流祖竹本筑後掾ちくごのじよう」と記し、『浄瑠璃譜』(文化元年〈一八〇四〉二月序)には「是近松門左衛門竹本儀太夫の新浄瑠璃の作はじめ也」と記すように、「当流」とか「新浄瑠璃」の語が見え始める。「新」と区別されるのは「古」以外になく、浄瑠璃の歴史は大きく「古浄瑠璃」と「新(当流)浄瑠璃」との二つに区分されることとなる。この分水嶺ぶんすいれいに位置する作品は「出世景清しゆつせかげきよ」で、作者近松門左衛門、太夫竹本義太夫であることは、上記の引用文で明瞭である。
「出世景清」が大坂道頓堀どうとんぼりの竹本座で義太夫たちによって初演されたのは、貞享二年〈一六八五〉、近松三十三歳、義太夫三十五歳の時に当る。この二人は天才といってよい。だが文芸の世界では天才だからといって無から有を生むことはできない。すぐれた先輩たちの古浄瑠璃時代八十年の成果にのっとり新境地を開拓したと評価するのが穏当であろう。
 義太夫以前の太夫たちはその個性を各自の名前に「節」を付けて表した。「角太夫節かくたゆうぶし」「一中節いつちゆうぶし」 「文弥節ぶんやぶし」「嘉太夫節かだゆうぶし」などと。義太夫も先輩たちに従い自分の語るものは「義太夫節」とした。若太夫という多才の弟子は、師のもとを離れ、同じ道頓堀に豊竹座を開き、師の竹本座と競ったのであったが、若太夫はじめ豊竹座の面々の語る浄瑠璃も若太夫節でなく義太夫節であった。「浄瑠璃姫物語」以外のレパートリーを作り出した後でも、ジャンル名が「浄瑠璃」で通されたことと合せて考えてもらいたい。
 初めに筆者が母から聞いたジョーロリとは、この義太夫節のことに外ならない。
 若太夫こそ若太夫節を興さなかったが、義太夫以後にも多くの「名前+節」が興った。現在でも歌舞伎の舞台でよく耳にする常磐津節ときわづぶし清元節きよもとぶしも浄瑠璃の一流派ではあるが、「浄瑠璃」が「義太夫節」の代名詞のごとく使われていることは、世間の常識である。

 浄瑠璃の作品はどのくらいの数になるのであろう。非常に大雑把な言い方を許してもらうと、古浄瑠璃時代五百点、新浄瑠璃時代七百点、ただし新浄瑠璃七百点のうち、近松門左衛門と紀海音きのかいおん二人の作品は個人名を冠した全集もあるので別格として二百点を除くと、新浄瑠璃も五百となる。
 同じ五百作といっても伝承の仕方が大いに異なる。古浄瑠璃時代の作品は、外題が文献上にあって書物として残らないものがある。書物(「正本しようほん」と称す)が残っていてもごく限られた数が伝承されており、天下の孤本によって知られている作品も珍しくはない。しかも、音曲として語り伝えられている作品は無いに等しい。
 一方、新浄瑠璃の五百点は、天下の孤本を皆無とはいわないが、数点に過ぎない。現存の正本(俗に「丸本」と称す)は二万冊に達するようである。この数字を教えてくれたのは丸本調査に熱心な若き研究者である。彼の調査はまだ公の所蔵者が主で、私的な面はこれからであり、今後の課題として海外のものも調査しなければならぬ。学問の上で予測を言うべきではないが、筆者は今の世界に現存する新浄瑠璃の正本(丸本)は二万五千冊位で、三万冊に達することはなかろうと思っている。
 前に近松と海音を別格にした理由として、個人全集の出版を挙げた。近松に限れば戦前・戦後を通し、四種の活字化された全集、それに影印で全容を示すもの二種の全集がある。この二万五千以上の冊数を残している五百点の新浄瑠璃のうち、活字で読める作品は四割に過ぎない。有名作品の活字化は何種類もあるのに、残りの六割は活字化されていない。戦前までの日本人の教養の原点は浄瑠璃であったといって差し支えない。その教養を身につけるのは、芝居を通してというのは勿論もちろんであるが、直接丸本を読んでのことも少なくなかった。昔の人は丸本の字が読めたのであり、入手するのも容易であった。二万五千冊というのは、そのことも示す数字と解釈できよう。古浄瑠璃五百点のうち活字化されていないのはごくわずかであることを知ると、新浄瑠璃の活字化を、筆者は責務とさえ思っているのだが、遂行するには困難な面があるとだけ言っておく。
 かつて筆者たちは『義太夫年表 近世篇』(八木書店刊、三巻四冊・影印二冊・別巻二冊、昭和五十四年~平成二年)編纂へんさんした。この年表は延宝五年(一六七七)十二月、竹本義太夫の前名清水利太夫きよみずりだゆうが京都四条河原で興行したものから、慶応四年(一八六八)までの二百年に近い期間、義太夫節で語られた作品の興行年表である。作品の活字化を問題にしたときは別格に扱った近松や海音の作品も、この年表には勿論入っている。各項は何時いつ何処どこで、何を、だれが上演したかを明らかにしようという年表である。それには上演番付を資料にするのが最も確実なので、浄瑠璃番付の調査に努めた。少々大風呂敷を広げると、全世界の浄瑠璃番付を重複をいとわず複写して集めたのであるが、その数は一万止りであった。影印篇・補訂篇に掲げた番付の数は二千五百七十四である。義太夫・近松時代、すなわちこの年表の最初の頃にはまた浄瑠璃番付が宣伝用具になっていなかったので、版行されていない。この年表には、文献上の記録から立項したものも多い。よって興行数と番付数との間には大きな数の隔たりがある。
 では、全興行数はというと、三千八百三十五興行を数えることができた。この数を二百年で割ってみると、年平均二十回弱となる。この単純平均二十回が時代によっていかに違うか、表示することにしよう(下表)。
※本文に、影印篇・補訂篇の番付数は2574とあるが、これは別番付を加えているために表の番付数(2554)より多くなったものである。
なお、この『義太夫年表 近世篇』は、本篇が昭和五十七年に完結し、補訂・索引篇を刊行するまでに八年を要した。その間に発見した番付・文献記事、さらに千葉胤男氏旧蔵辻町文庫番付(辻町文庫の一切は早稲田大学演劇博物館に寄贈された)によって相当数の興行が加えられたが、表示は合算した数とする。
 この表でいろいろのことが読みとれるであろうが、二、三述べておくと、近松時代までは番付がなかったので、正本によって興行を立てたこと。番付は時代が遡るほど消滅するはずであるが、幕末より天保期のほうが多く残っていること。幕末に興行が多いのは、染太夫や弥太夫という太夫本人の日記が残っていたことによる、などなど。
 右に掲げた正本や番付の数は推定の数であり、『義太夫年表近世篇』の興行数には数え間違いもあるかと思う。あくまでも概算の数と理解されるようお断りしておく。

   本書に所収した四作の採用理由は各作品解説で触れられるであろう。それぞれ特性ある作品で、上演回数も多い。『義太夫年表 近世篇』によれば、「仮名手本忠臣蔵」は二百五十三回、「妹背山婦女庭訓」は二百七回、「碁太平記白石噺」は百十六回、「双蝶蝶曲輪日記」は七十五回の上演である。だが、国立劇場で発行している上演資料によると「妹背山婦女庭訓」四段目は百六十四回、「碁太平記白石噺」は四十八回、「双蝶蝶曲輪日記」は三十四回と数えている。(鳥越文蔵)
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