古典への招待

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黄表紙・川柳・狂歌の誕生の前夜

第79巻 黄表紙・川柳・狂歌より
 本集におさめる黄表紙・川柳・狂歌は、それぞれ異なる文芸から派生した異なるジャンルの文芸である。が、この黄表紙・川柳・狂歌が江戸という、十八世紀中葉まではいわば政治都市として成長してきた土地で文芸として存在をアピールし、人々に認知されたのはほぼ時を同じくしている。それゆえに、ジャンルがまったく異なりながらもここに一緒におさめたわけである。
 黄表紙・川柳・狂歌の変遷については、おのおのの解説を読んでいただくとして、ここでは江戸の庶民文芸として先陣を切ることとなる三者の派生・誕生と隆盛期を迎えた時代背景についてごく簡単に触れておきたい。
 江戸時代も八代将軍徳川吉宗の享保改革を境にして、以降、江戸の地にもようやく、あらゆる分野において独自な文化が根づき始めたといってよかった。文芸においては、文運東漸ということばが最も端的に表すように、上方文化の江戸への移入が一段落して、享保期以降はあらたな江戸文芸の隆興があり、独特な文芸風土が築かれたのであった。上方文化の移入に伴い、文芸も盛んに吸収した江戸ではあったが、文化的にまだ成熟していない新興都市であったことがかえって幸いしたともいえた。というのも、上方で見られるような伝統性に縛られた固定化された既存の文芸としてではなく、新興都市であった江戸だけに、もっとのびやかに自由な文芸としてとり入れられ、江戸の地で定着したからである。
 封建社会が建設されてからおよそ百年を経て、とかく緩みがちであった綱紀の粛正を図り幕藩体制の安定強化をねらった享保改革はいちおうの成果をみた。だが、その反面、支配階級として厚遇を受ける者と不遇をかこつ者とに峻別された。支配階級の武士と被支配階級の町人とが混在同居している政治都市江戸では、そうした支配階級の武士たちの現実を、被支配者の町人たちが眼前に見ているという図式があった。厚遇を受けて権勢を得た者の支配権が強まるところに、必然的に幕政にかかわる利権も集中する。幕府の上層部がそうであれば、皆これに習うというわけで、川柳で、
役人の子はにぎにぎを能く覚え (うんのよい事よい事・誹風柳多留初篇)
といった風刺の句も生まれたわけである。
戯作の誕生
 吉宗が将軍職を家重に譲って(延享二年〈一七四五〉)から、寛延(一七四八~)・宝暦(一七五一~)年間に移り、田沼意次が加増されて万石となり評定所へ出座するようになったのは、家重が政権を家治に譲る(宝暦十年)二年前の宝暦八年のことであり、翌宝暦九年には質素倹約令が出されている。
 十代将軍家治の代は宝暦・明和(一七六四~)・安永(一七七二~)・天明(一七八一~)と続くわけだが、初めは家治も享保の節倹政治を志向するものの、明和四年(一七六七)に側衆田沼意次を側用人とし、同六年には老中格、安永元年に老中となるに従い、結局、田沼の側近政治の横行が強まり、田沼の重商主義的な政策に万事が委ねられることになってしまう。しかし、田沼の殖産政策によってもたらされた解放経済は一大消費文化の開花を招き、おそらく有史以来はじめて日本人は消費文化を享受し、この家治の時代こそ、江戸の地に庶民を巻き込んだ新鮮自由な文芸の誕生が次々にあったのである。
 戯作の誕生はこうして招来された。
 固定した封建社会の厳しい秩序の現実の中にあって、遊里だけは例外として自由解放の空間であった。その遊里に取材した洒落本は戯作の代表格であろうが、権力とは距離を置いていたであろう漢学書生たちの余技として享保年間に洒落本の発祥があった。その享保年間の享保改革も修正を余儀なくされた元文元年(一七三六)から、よく言えば自由解放、悪く言えば放漫体制とも言える田沼時代になるまで、三十年余の時間があった。この間に不遇をかこつ学者や書生、そして若い武家連中は同好の士たちと語らってひとつのグループを形成し、競って洒落本を執筆したようである。
 そんな洒落本作者達に対し、少々異色であるが、風来山人平賀源内は警句の人であった。あり余る才能を持ちながら仕官もかなわないという源内の不満が談義本『根南志具佐』(宝暦十三年刊)や『風流志道軒伝』(同年刊)等によって一気に発露されることになり、不遇のあまり鬱憤を狂文の形を借りて吐き出し、滑稽のうちに社会に対する批判や罵倒・風刺を繰り返し、「うがち」の姿勢が一段と強い作風であった。 「うがち」とは、「穴」をうがつ意で、穴とは人間・社会の裏面に隠れた事実や欠陥・弱点などをいい、「うがち」はそれ等の指摘であり暴露である。洒落本においては多く遊里の「うがち」に終始し、黄表紙は画面の視覚的手法を有力な手段として、現実生活や世相の「うがち」が、さまざまな形で随所に試みられている。たとえば『江戸生艶気樺焼』は主人公の愚行を誇張して笑いをとりながら、一皮めくれば余りある資産で妄動を重ねる人物の存在する現実と、冷笑せずにその愚挙に喝采を寄せる庶民がいるという現実に対する「うがち」でもあった。また、川柳や一部の狂歌は、この「うがち」が生命でもあった。
 風刺や「うがち」の強烈さで、後世に「平賀ぶり」と称された源内の文学活動は多くの武家連中より共感を得たことは確かであった。その源内は狂教壇の指導者的立場にあった大田南畝や平秩東作と親交があり、洒落本にも染筆していた幕臣の国学者山岡浚明とも親しく、竹杖為軽(万象亭)を門下に抱えていた。かなり高度な知識人には源内の存在は魅力的であったかも知れない。それも権威・権力と距離を置かざるを得なかった武家たちにとっても同様であったに違いない。
川柳の誕生
 平賀源内ほどではなかったとしても、武家の知識層の高まる欲求不満の解消にも向けて、「うがち」の利いた句を集めるべく万句合興行を始めたのが、浅草新堀の名主で江戸前句付点者であった柄井川柳である。それは宝暦七年(一七五七)のこと、川柳が四十歳の時であった。時代の風潮もよく知る年代になっていたといえよう。それから八年後の明和二年(一七六五)に、より大衆娯楽に徹し、自由な発想様式として愛好された万句合のそれまでの川柳点せんりゆうでんを収めた『誹風柳多留』初篇が刊行された。ここに柄井川柳の名にちなんで、短詩形の文芸としての「川柳」の誕生があった。
 前句付という連句とかかわりの深かったものから、川柳は一句として独立したものへと移ることになって、句材に自由自在さがもたらされたのである。世情万般から時の世相・政治向きまでその対象とすることができた。
狂歌の誕生
 同じ短詩型の狂歌にも胎動が始まっていた。さかのぼれば狂歌は藤原定家の孫暁月坊に始まるともされるが、江戸時代になってからは文化人・歌人・俳諧師等によって余技座興としてもてはやされながら、上方においては正統・正常な伝統的和歌に対する余技座興としてあった。その点ではまだ、雅の文芸の一隅を占めていたといえよう。
 それでは、正統なもの、本格的なもの、要するに雅の文芸という伝統を持たない江戸の場合はどうであったろうか。そうした第一義的な文芸に対して斜に構えることしかできなかったということも多分にあろうが、それより、卑俗な第二義的なものに遊んで徹しようと居直った雰囲気が横溢していた。文化的に後発の新興都市江戸ではありながら、そのように居直って自身の手で芸術を創り出せるというところまで成長したと見ることもできよう。
 明和六年(一七六九)、唐衣橘洲宅で開いた狂歌会が江戸狂歌の始まりであった。後年大田南畝が『奴凧』に、
江戸にて狂歌の会といふものを始めてせしは、四ツ谷忍原町に住める小島橘洲なり
と記しているそれである。その会の盛況と成功が翌明和七年の『明和十五番狂歌合』の上梓へとつながって行ったことは、狂歌の解説と巻末の年表を参照してもらいたい。なお、ちなみに、明和六年に田沼意次が老中格となり、幕政を牛耳るや、積極的な殖産、膨張経済政策を敢行した。その結果、幕府の中枢の一部と町人資本が直結し、賄賂・請託などの不正が横行、武家と町人の癒着は拝金主義に拍車をかけて、その風潮は武家の町人化をもたらしたともいえよう。
 狂歌に関わった人々が皆そうであったとはいわないが、武家と町人が同居するサロン文芸が隆盛をみた背景にはこうした社会世相も色濃く反映したということである。
黄表紙の誕生
 消費文化は子どものもてあそぶ商品にまで確実に及んだはずである。草双紙もある程度庶民の間で定着して来ると、作者の技量が今度は勝負ともなって来た。つまり草双紙ファンの開眼である。明和頃より作者名や画工名がぽつぽつ作品に署名されるようになって来て、読者の要望に応えつつあった。そして安永四年、遂に恋川春町の『金々先生栄花夢』の登場となる。これ以来、草双紙(黄表紙)は大人の読み物へと変貌した。
 ところで、大人のファンを爆発的に増やしたと思われる『金々先生栄花夢』をよくよく考えてみると、学問の精進や徳行・修行を重ね、すなわち刻苦力行して立身出世するという話ではない。突然の僥倖の夢物語であり、金持ちとなってからは吉原・深川・品川の遊里通いに明け暮れるという、まさに享楽的消費文化を絵に描いたような大人の夢物語であった。ここに当代世相が鮮やかに反映されていたのである。田沼時代の享楽的消費文化の謳歌が作品に反映されていて、そこに何も違和感がなかったのである。そうした時代の寵児が『金々先生栄花夢』であったともいえよう。
 春町に遅れること二年、安永六年には朋誠堂喜三二が黄表紙界にデビューした。以後続いて山東京伝や市場通笑・芝全交といった黄表紙の常連作家達のデビューがある。
 天明期に入ってからは黄表紙作者は狂歌壇にも顔をのぞかせて活動している。そして、天明期の黄表紙には「川柳取次所」の看板等の見える場面がしばしば見られるようになった。これからも、川柳が庶民の中にすっかり根づいたことが十分うかがわれるわけである。この一見太平楽的な時代はしかし、その後あまり長くは続かず、やがて寛政改革によって黄表紙は作柄・作風を大きく旋回し、川柳の政治がらみの風刺は自主規制し、狂歌壇からは武家連中が退壇し、一時的な衰退がもたらされるわけである。黄表紙の誕生からわずか十五年たらずで、黄表紙・川柳・狂歌は大きな岐路に立たされて、やがてかつての精彩を失って行くのである。(棚橋正博)
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