日本を代表する大女優、67歳。11月3日公開の東映創立60周年記念映画『北のカナリアたち』に主演。
 私事で恐縮だが、生まれが同年ということもあり、私は由緒正しいサユリストである。彼女がデビューした連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』(1957年1月~59年2月、ラジオ東京=現TBSラジオ)から彼女のファンになり、映画『キューポラのある街』(1962)や『泥だらけの純情』(1963)、ちょい役だったが赤木圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』(1960)の小百合に胸をときめかせた。
 東京オリンピックの1964年に、病気で大学受験を断念した私は『愛と死をみつめて』を5回観て、ミコの不治の病に比べれば己の病気などと、心を鼓舞した。橋幸夫とのデュエット曲『いつでも夢を』で第4回レコード大賞も受賞したが、私の愛唱歌は『寒い朝』である。
 映画女優としては順調だったが、私生活では父親との確執や渡哲也との悲恋、15歳も年上のテレビプロデューサー岡田太郎氏との結婚、と波乱に富んでいる。『週刊アサヒ芸能』(以下『アサ芸』)は10/11号から「永遠のマドンナ 吉永小百合の神秘」を連載しているが、岡田の同僚だった千秋与四夫(せんしゅう・よしお)氏が、彼に頼まれて自宅で結婚式を挙げたときの写真を公開している。吉永の両親は猛烈に反対して出席せず、たった5人だけの式だった。
 結婚に悩んでいるころ、寅さんの『男はつらいよ 柴又慕情』(1972)に出て、渥美清に言われた言葉で結婚を決意した。結婚後休業期間を経て銀幕に戻ったが、清純派から脱しきれない彼女への評価は高くなかった。
 その流れが変わったのは早坂暁(あきら)の脚本で始まったNHKのテレビドラマ『夢千代日記』(1981~84)である。原爆二世で余命2年と宣告された芸者置屋の女将を演じ、浦山桐郎(きりお)監督によって85年に映画化もされる。
 『アサ芸』にはこんなエピソードが紹介されている。浦山が、夢千代が死ぬ間際に「原爆が憎い!」と叫んでくれと要求したが、吉永は「私はそのセリフはいえません」と断ったというのだ。自分の短い余命を受け入れていた夢千代が、最後になって取り乱すようなセリフは言えなかったのではないかと、早坂は彼女の気持ちを忖度(そんたく)している。
 朝日新聞(2011年5月15日付)で吉永は、自分の性格を将棋の「香車(きょうしゃ)」に似ている、右にも左にも動けず、後戻りもできないと語っているが、外見とは違って芯の強い女性である。
 反戦・非核を訴え、原爆の詩を朗読する活動に熱心なのは、東京大空襲のころに生まれ、戦後民主主義とともに育ってきたからであろう。
 私が『フライデー』編集長の時、堤義明氏や清原和博選手、岡田裕介氏との不倫の噂があり、張り込ませたことがあったが、確証はつかめなかった。『天国の駅』(1984)で性の渇きのために2人の男を殺してしまう女死刑囚を体当たりで演じ、初めて日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞(以降3度受賞する)を獲得したが、そうした激情が彼女の内にも流れているのかもしれない。

 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   


元木昌彦(もとき・まさひこ)
金曜日「読んだ気になる!週刊誌」担当。1945年東京生まれ。早稲田大学商学部卒業後、講談社に入社。『FRIDAY』『週刊現代』の編集長をつとめる。「サイゾー」「J-CASTニュース」「週刊金曜日」で連載記事を執筆、また上智大学、法政大学、大正大学、明治学院大学などで「編集学」の講師もつとめている。2013年6月、「eBook Japan」で元木昌彦責任編集『e-ノンフィクション文庫』を創刊。著書に『週刊誌は死なず』(朝日新書)など。
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