1871(明治4)年に神官世襲の制が廃止されるまで、日本の神社には、世襲的に神職として神に仕え、奉仕する家柄が数多く存在していた。これを社家と呼んでいた。この制度が廃止されると、神位の高い神社に仕えてきた名家は、華族として列せられた。また、皇室尊崇の神社などは官幣社となり、それ以外の神社は、社家であった家筋のものがそのまま神職を受け継ぐ場合が少なくなかった。

 京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、北区))の周辺には、社家集落の佇まいがいまも見事に残っている。この集落は室町時代以降に形成されたといわれ、鎌倉時代から明治期に至る長い間、賀茂七家と呼ばれる家筋のものが上賀茂神社の専従の仕事に就き、この集落に住んでいた。多いときには150軒もの社家の住宅が存在していたという。

 古代より土地に根づいた祭祀を行ない、神社に奉仕してきたので、社家の住宅には、潔斎(けっさい)を必要とした独特の暮らしぶりを垣間見ることができる。その象徴となるのが集落に沿って流れる疎水である。社家では、上賀茂神社の境内を流れる明神川の水を疎水から住宅の庭園へと引き込み、みそぎや水垢離(みずごり、冷水を浴びて心身の汚れをとること)を行なった。平安末期1181年に十八代神主の藤木重保(しげやす)によって作庭されたという西村家住宅には、神官が神事に使った降り井の「みそぎの井戸」や水垢離の場、ご神体の神山(こうやま)を模(かたど)った石組み(降臨石)などが残っている。

 現在、このような社家集落の名残は、北野天満宮(上京区)の周辺にもみられる。神社東側のかつて上七軒(かみしちけん)遊郭のあった地域の一部は、明治維新になるまで北野社の社家が住んでいた場所であった。

明神川に沿った社前にかつての神官の家々が残る社家町。



明神川の水を引き込んだ曲水川、降臨石(右奥)、みそぎの井戸(左手前)が残る西村家庭園。


京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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