9月12日、兵庫県神戸市の先端医療振興財団先端医療センター病院で、目の難病患者に対して、iPS細胞を使った世界初の臨床試験が行なわれた。

 iPS細胞は、人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell)の略語で、人間の皮膚などの体細胞に特定の遺伝子を入れることで、さまざまな組織や臓器の細胞に成長する。「万能細胞」とも呼ばれており、病気やケガで失われた身体機能を回復させる「再生医療」のほか、病気の原因解明や新薬の開発のための研究分野にも利用できるのではないかと期待されている。

 世界中でiPS細胞の作製方法は研究されてきたが、はじめて作られたのは2006年8月。京都大学の山中伸弥教授がマウスでの実験で作製方法を確立させ、翌2007年11月に人間の皮膚からiPS細胞を作製することに成功した。

 それから7年を経て、iPS細胞を使った再生医療研究は、人体での臨床試験が行なわれる段階まで進んできた。今回、手術を受けたのは加齢黄斑(おうはん)変性という目の疾患をもつ70歳代の女性。加齢とともに網膜の近くに血管が入り込み、細胞が圧迫される病気で、視野の真ん中が見えにくくなったり、モノがゆがんで見えたりする。症状が進むと失明の恐れもあるという。現在は、注射薬などで病気の進行を抑える治療が行なわれているが、完治する方法は見つかっていない。

 今回行なわれた臨床試験は、この加齢黄斑変性の患者の皮膚からiPS細胞を作って、網膜の細胞シートに成長させ、目の奥に移植するというもの。理化学研究所と先端医療振興財団の共同プロジェクトで、iPS細胞は理研の高橋政代プロジェクトリーダーが作製し、手術は先端医療センター病院の栗本康夫眼科統括部長が担当した。

 具体的な移植方法は、患者の皮膚からiPS細胞を作り、これを分化・増殖させて縦約1.3㎜×横3㎜のシート状の網膜細胞を作製。細胞を圧迫している原因となっている血管などを取り除いたあとで、iPS細胞から新たに作った網膜細胞を移植した。手術をした栗本医師は、手術後の記者会見で記者からの「手術は成功か?」との問いに、「そのように理解してよい」と回答。翌日、患者は「見え方が明るくなった」と話しており、経過は良好で6日後の18日に退院した。

 ただし、今回の手術は、あくまでも臨床試験で、今後1年程度かけて移植した細胞ががん化しないかなど、安全性の確認が行なわれる。症状の進行が止まる可能性はあるが、大幅な視力回復は見込めないとされている。また、今回のiPS細胞の作製には、全遺伝情報の解析を含め数千万円のコストがかかっており、2例目の臨床試験の予定は決まっていない(臨床試験は、患者に費用負担はかからない)。すぐに医療の現場で誰もが利用できる治療になるわけではなく、実用化までには長い道のりになりそうだ。

 再生医療をめぐっては、「病気で困っている人を助けたい」「患者の命を救いたい」という純粋な思いを超えて、国や経済界などさまざまな人々の利害が複雑に絡み合い、産業としての側面が大きくなっている感もある。だが、研究によって、どんなに素晴らしい技術や薬ができたとしても、一部の富裕層しか利用できないものであれば、もはや「医療」ではなくなってしまうだろう。

 そんな中、理研の高橋リーダーが記者会見で、今回のiPS細胞を使った治療を「(健康保険が適用される)標準治療にしていきたいと決意した」と言った言葉は、病気で苦しむ多くの患者の救いになるのではないだろうか。iPS細胞が、誰もが使える治療法として普及していくことを願いたい。
   

   

ニッポン生活ジャーナル / 早川幸子   


早川幸子(はやかわ・ゆきこ)
水曜日「ニッポン生活ジャーナル」担当。フリーライター。千葉県生まれ。明治大学文学部卒業。編集プロダクション勤務後、1999年に独立。新聞や女性週刊誌、マネー誌に、医療、民間保険、社会保障、節約などの記事を寄稿。2008年から「日本の医療を守る市民の会」を協同主宰。著書に『読むだけで200万円節約できる! 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社)など。
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