手元にかなり前の『フライデー』がある。1991年(平成3年)11月29日号、定価230円。「創刊7周年特大号」とある。カメラがやや下からあおって撮っているのだろう、表紙の宮沢りえが上から私を見つめている。私には思い出深い1冊である。

 『フライデー』編集長になって1年。スキャンダルを中心に順調に部数を伸ばしてきたが、表紙選びには苦労した。『フライデー』に張り込みをされた女優はもちろんのこと、プロダクションがOKを出さないところがいくつもあった。

 宮沢りえもそのひとりだった。“一卵性”母娘といわれていたりえママが頑強で攻めどころがなかった。

 この雑誌が出る2週間ほど前になるだろうか、張り込み班が某有名写真家の身内のスキャンダルを撮ることに成功した。だが写真家側の“抵抗”は激しかった。

 脅しすかし泣き落とし。最後は私と2人の話し合いになった。何としてでも掲載しないでくれと懇願する写真家に、それでは編集部が納得しないと突っぱねていたが、ふとあるプランが浮かんだのだ。

 宮沢りえに7周年の記念号から6週間、表紙に出てもらうというものだった。その提案をすぐに受け入れ、写真家は私の目の前の電話でりえママに電話してくれた。彼女が渋っていることはやり取りでわかる。最後はやるといったらやるんだという写真家の決めゼリフで表紙が決まった。

 最初の撮影の時は私も立ち会った。抜けるように肌の白い妖精のような宮沢りえは、写真家の指示通りにポーズをとり、ほとんどものを言わずに帰って行った。りえママの姿はそこにはなかった。

 この号が出たあと業界では、なぜりえが『フライデー』に出たのかが話題になった。日本中が沸いた貴花田(現貴乃花親方)との婚約を発表するのはこの1年後である。

 世紀の婚約などと騒がれたがあっという間に破談してしまう。理由はあれこれ言われたが、りえママが反対したという説が当時は有力だった。宝物のようなりえを奪われるのが耐えられなかったのかもしれない。それほど2人は一心同体に見えたが、いつからだったろうか、りえの横からママの姿が消えていた。そのりえママこと宮沢光子さんが9月23日に肝腫瘍のため亡くなった。享年65歳。宮沢りえ41歳。

 光子さんの人生はりえを通してしか知られていない。りえのためなら身体を張ることも厭わない“女傑”の人生はどんなものだったのだろう。『週刊文春』(10/9号、以下『文春』)がその一端を垣間見せてくれている。 

 宮沢りえには生き別れたままの弟がいるという。その弟がお姉さんに会いたいと『週刊文春』(10/9号)で告白している。

 光子さんはオランダ人男性との間にりえをもうけた後、ピアニストの後藤徹(仮名、71)さんと結婚していた。1977年7月に男の子が生まれたが、その4か月後に光子さんはりえを連れて家を出てしまって、以来音信不通だという。

 弟の後藤聡(仮名、37)さんは20歳になった頃、祖母から伝えたいことがあると言われた。自分の母親は宮沢光子で女優の宮沢りえのお母さんだとそのとき知ったという。

 母・光子が亡くなったことは「2ちゃんねる」で知った。これまでにも姉に会いたいと接触したことがあるという。

 「四年ほど前に池袋の東京芸術劇場で姉さん主演の舞台があって、再会を希望する趣旨の手紙を祖父がしたため、それを父親が持参し、関係者に渡したのですが、結局連絡はなかった。僕は会って話してみたいけど、向こうはそうでもないのかなと思いました」(聡さん)

 光子さんの人生を芸能記者がこう語っている。

 「光子さんは留学目的で渡欧した船中で船乗りだったオランダ人と知り合って結婚。七十三年にりえが誕生しましたが、生後四ヵ月で破局。その後、光子さんが保険外交員や飲食店で働きながら、シングルマザーとしてりえを育てた。一方、りえは十一歳からモデルを始め、十四歳で『三井のリハウス』のCMに出演し大ブレイク。その陰には光子さんの凄腕のプロデュース力があり、アイドル絶頂期のふんどしカレンダーや篠山紀信撮影のヘアヌード写真集『サンタフェ』も彼女なくしては成功しなかった」

 貴花田との婚約破棄の理由についても話している。

 「結婚して、部屋のおかみさんになったら芸能界を引退するという条件だったのが、光子さんが反対して破談。その後も、自殺未遂や激やせなど、りえの波瀾万丈の人生の背景には、光子さんとの濃密な親子関係があった」

 りえは、2年前に元プロサーファーの夫と離婚協議中であることを発表し、現在5歳になる娘と2人きりで生活している。

 『文春』は聡さんの父で光子さんの元夫だった徹さんにもインタビューしている。

 「初めて出会ったのは、1974年頃。私は銀座のクラブでピアノを演奏していて、彼女はモデルをやりつつ、お店で働いていました。同じ職場ということで、ボクは毎日演奏して、彼女も週に何回か来ていました。彼女はオランダから帰ってきたばかりで、娘のりえがいて、生活のためにクラブで働いていました。平日は仕事があるので、娘を彼女のお姉さんの家に預けて、週末になると一緒に過ごしていました。最初の印象は、背の高い女性。身長が一六六センチくらいで、スリムな体型でした。お酒が好きで、煙草も吸っていた。酒はすぐに酔うタイプ。『ウチの後藤はいるか?』と酔っ払ってお店に来ることもありました」

 2人は1年ほど同棲してから正式に結婚する。しかし、結婚生活はわずか2年で破綻した。

 「彼女はりえに対しては何でも尽くしたと思います。そう、彼女は冗談で『将来、りえはハーフできれいだからホステスでもさせよう』と言っていました。結婚当時は芸能界なんて考えていなかったと思います。別れた後にりえが三井のリハウスのCMに出ることになったという電話があった。この仕事もりえは、母親の考えに従っていたと思います。
 でも息子には一度も連絡してこなかった」

 徹さんは最後に「いつか、りえと息子が出会える機会があればいいなと願っています」と漏らした。

 私は女優・宮沢りえを高く評価している。りえの演技と根性は、母とともに歩んだ激しい人生の浮き沈みが磨き上げてくれたものであろう。りえが弟に会わない理由もそこにあると思うのだが。

元木昌彦が選ぶ週刊誌気になる記事ベスト3

 今週は日本が直面している「大問題」を扱った記事を3本選んでみた。皆さんはこの問題をどう考えるだろうか。

第1位 「迫り来る富士箱根破局噴火から目を背けるな」(『週刊ポスト』10/17号)
第2位 「本人直撃! 安倍総理に『腹違いの弟』がいた」(『週刊現代』10/18号)
第3位 「『在特会報道』本誌を捏造呼ばわり 山谷えり子大ウソ粉砕テープ公開」(『週刊文春』10/9号)

 第3位。在日特権を許さない市民の会(在特会)幹部と写真に収まっていたことが、『文春』の報道で発覚した山谷えり子国家公安委員長
 写真もさることながら、取材に対して山谷氏が「ザイトクカイって何ですか?」と答えたことが、担当大臣としての資格の欠如ではないかと大きな問題に発展している。
 しかも山谷氏は記者会見で『文春』とのやりとりを「捏造」と主張しており、怒った『文春』は『週刊文春WEB』でこのやりとりを流すと宣言したから、さあ大変。
 国会では拉致問題よりも在特会との関係を追及されている。
 『週刊現代』(10/18号)では北朝鮮労働党幹部がインタビューに答え、拉致問題の交渉が進まないと日本が批判するが、悪いのは日本側だと開き直っている。だが、この言い分だけはわかる。

 「誠意がないのは、むしろ日本の側だ。9月3日に内閣改造した際、安倍首相が、ゴリゴリの右派の論客である山谷えり子参議院議員を、拉致問題担当大臣に据えたのはどういうことだ?
 山谷大臣は、わが民族の女性を日本は慰安婦に強制連行した事実はないと言い張っている。また、自身はむろんのこと、安倍首相の靖国神社参拝を熱心に説いている。それに最近は、在日朝鮮人の排斥を訴える『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の連中と記念写真におさまっていた事実を暴露された。
 こんなわが民族の仇敵のような政治家を拉致担当大臣に据えて、安倍首相は拉致問題を本当に解決しようという意思があるのか?」

 山谷問題は拉致問題にも影響を与えているのだ。早く変えたほうがいいと思う。

 第2位。久々にジャーナリストの松田賢弥氏が大スクープの予感。安倍首相に腹違いの弟がいるというのである。
   それはおよそ30年前にさかのぼる。安倍首相の父親・安倍晋太郎氏と深い仲になったある料亭の女将がいて、彼女が産んだ男の子が晋太郎氏の隠し子だというのだ。
   かつて都内有数の繁華街の一隅でこぢんまりとした料亭を営んでいた女性、伊藤秀美(仮名)。その料亭には晋太郎氏をはじめ、彼を慕う通産官僚らも数多く出入りしていたという。
 その秀美が30代後半だった80年ごろに男の子を産んだ。そのころ晋太郎氏はまだ自民党政調会長で、息子の晋三氏は神戸製鋼の新入社員だった。男の子は龍太(仮名)と言い、彼女は女手一つでこの子を育てた。
   この龍太氏は現在東京の大学で教鞭を執っている。私もだいぶ前にこの大学で教えていたことがある。少し前に松田氏から、誰か大学の人間を紹介してくれないかという連絡があった。
   だが残念なことに、私の知り合いはみな退職していて役には立てなかったが、松田氏の執念の取材で本人に直撃している。
 本人は驚き慌ててはいるが、自分が晋太郎の子どもだとは言っていない。また秀美にも質問しているが言質はとれていない。
 晋太郎氏はすでに鬼籍に入っているため確証を取るのは容易ではない。今回の記事もハッキリした裏付けはないが、龍太氏の顔が晋太郎氏によく似ていると書いている。松田氏はこう結ぶ。
 「龍太は、晋三のように将来を保証されて育ったのではない。ちょうど、父母と死別した晋太郎が独力で戦後を生き抜いたように、彼は自らの力で道を開いていくのだろう」

   息子の晋三氏より父親の晋太郎氏のほうが人間味があるように感じるのは私だけではないようだ。

 第1位。御嶽山の噴火による死者はおびただしい数になってしまった。ご冥福を祈りたい。
 『ポスト』は次は富士山噴火だと警鐘を鳴らしている。たしかに日本には多くの火山が存在し、そのどれが噴火してもおかしくないといわれている。
 だがその予知というのは、多額の金を投入しているにも関わらずまだまだのようだ。『ポスト』はこう憤る。

 「今回の噴火に際して、国民をあ然とさせたのは気象庁の諮問機関である火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣(としつぐ)会長(東京大学名誉教授)の会見だった。
 『予知に失敗したというかもしれないが、ある意味では仕方のない状態。われわれの火山噴火予知に関するレベルというのはまだそんなもの』」

 この連絡会が設置されたのは1974年からで、国土地理院に事務局を置く地震予知連絡会(68年設置)と並んで国策として金が注ぎ込まれてきた。
 火山と地震を合わせた研究関連予算は年間約217億円(13年度)に上り、特に東日本大震災が発生した11年度は約459億円と大盤振る舞いされ、この20年間の総額は4000億円を超えるという。
 それなのにこの程度では予算の無駄遣いと言われかねない。そのなかで今回の御嶽山の噴火を予知していた学者がいたという。
 海洋地質学者の木村政昭・琉球大学名誉教授は数百の火山噴火をサンプリングし、過去50年以上にわたる気象庁の地震データをもとに噴火リスクを算出し、昨年3月に上梓した著書で御嶽山の噴火時期を「2013年± 4年」と予測し、ピタリと的中させたというのである。木村氏はこう話す。

 「富士山は1707年の宝永大噴火を最後に活発な活動を休止しているが、関東大震災(1923年)の頃から再び地下で活動が始まっているとみている。地下の地震の回数やその深さからマグマの位置が関東大震災の後に上昇してきたと推定できるからです。
 また、富士山周辺では、洞窟の氷柱が25年ほど前からだんだん短くなっており、富士五湖の水位低下(06年)、大量の地下水が地上にあふれ出して床下浸水などの被害をもたらした湧き水の異常(11年)といった本格的な噴火の前兆現象がいくつも見られる。
 世界の噴火を分析すると、火山の周辺で地震が増加した時期から35年ほど経ったところで噴火が起きています。富士山周辺の地震の回数は1976年を境に増加している。諸条件を勘案して計算していくと、富士山は『2017年± 5年』で噴火する可能性があるとみています」

 富士山が噴火すれば季節にもよるだろうが、大量の死者が出ることは確実である。世界文化遺産が死の山になるなど想像もしたくないが、いつ起きても不思議ではないようである。
   

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   


元木昌彦(もとき・まさひこ)
金曜日「読んだ気になる!週刊誌」担当。1945年東京生まれ。早稲田大学商学部卒業後、講談社に入社。『FRIDAY』『週刊現代』の編集長をつとめる。「サイゾー」「J-CASTニュース」「週刊金曜日」で連載記事を執筆、また上智大学、法政大学、大正大学、明治学院大学などで「編集学」の講師もつとめている。2013年6月、「eBook Japan」で元木昌彦責任編集『e-ノンフィクション文庫』を創刊。著書に『週刊誌は死なず』(朝日新書)など。
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