嵯峨嵐山(右京区)を流れる大堰(おおい)川は、渡月橋より上流を「保津川」と言い習わす。古くから旨い川魚が捕れるうえ、上流の丹波は、山の幸や良質の材木が豊富な場所である。平安期以前から都に材木や薪炭、さまざまな食糧が川を下ってきた。慶長11(1606)年に川船の水路が開削されると、川下りを楽しむ船遊びのメッカとしても知られるようになった。その河原には、月面のような大岩盤や珍妙な形の奇岩によって見事な渓谷が形づくられており、急流の瀬や静寂の深潭ありと、またたく間に人気の観光スポットになった。かつての保津川での水運や歓楽の様子は、船頭の一挙手一投足をつぶさに描写した夏目漱石『虞美人草』をはじめ、水上勉『金閣炎上』、井伏鱒二『篠山街道記』などの文学作品にも数多く登場する。

 さて、川上の亀岡市にある乗船場から渡月橋の下船場までは16kmほどあり、2時間あまりの船遊び(現在の保津川下り)を楽しんだ後、乗ってきた船はどうなるのか、おわかりだろうか。現代は下船場近くで三艘ずつ重ねてトラックに積み込み、乗船した場所の船溜まりまで搬送されている。交通手段の限られた昭和20年代半ば(1940年代末期)までは、といえば、そのまま川を上流へ向け、船を引き綱で曳きながら、3人から4人の船頭の手で折り返していた。これを曳舟(ひきふね)と呼んでいた。

 船頭は草鞋履きで曳舟用の引き綱をもち、腰巻きには握り飯という軽妙な出で立ちで、乗船場がある亀岡まで4時間あまりをかけて引き返した。川の流れや蛇行の様子、水深や登りミト(水路)、川を下ってくる筏や船などの状況を見ながら、右岸や左岸を行ったり来たり、はたまた引き綱を岩にかけて船の向きを変えたりしながら上流へと遡っていった。過酷な仕事である。かつて船頭によって何度も何度も踏みしめられた河岸は、石がやすりでこすったような踏み跡になり、それは今でもはっきり残っている。こうした船頭の歩いてきた道、いわゆるフットパスのことを綱道と呼ぶのである。

 明治32年に山陰線が開通し、戦後になってトラック輸送が本格化すると、筏や荷船による水運は姿を消し、船遊びの曳舟も、トラック運搬に変わっていくことになった。最近の保津川はラフティングを楽しむ人も多い。渓谷に奇勝を探りながら、綱道トレッキングをしてみるのも面白い。


写真中央の岩場に立つ船頭は、右下より中央に向かってのびる曳き綱を肩にかけ、川船を引き上げている。絶景百図(1903年発行、石敢堂)より。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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