それはあまりにも唐突な提案だった。

 9月24日の記者会見で、安倍晋三首相が経済成長の推進力として「新三本の矢」を発表。(1)希望を生み出す強い経済、(2)夢を紡ぐ子育て支援、(3)安心につながる社会保障、の3項目を掲げて、「少子高齢化の問題に正面から挑戦したい」と意気込みを語ったのだ。そして、3本目の矢の「安心につながる社会保障」の具体的方策として、安倍首相が唐突に打ち出したのが「特別養護老人ホームの増設」だ。

 近年、家族の介護のために退職に追い込まれる「介護離職」が社会問題になっている。厚生労働省の雇用動向調査によると、2012年に離職した673万人のうち、家族の介護を理由にあげた人は6.6万人。とくに50代の女性に介護離職の割合が高い。

 背景には、介護が必要な人を受け入れる施設の不足が指摘されており、特別養護老人ホーム(特養)の入所待ちは全国に約52万人いる(2013年度)。今回、安倍首相は、このうちの介護保険の要介護3以上に認定されている15万人を2020年代初めまでにゼロにすることを発表。社会保障制度改革の最重要施策に掲げたのだ。

 特養は、常時介護が必要な65歳以上の高齢者で、認知症や寝たきりなどで自宅での介護が難しい人が入る施設で、現在は入所できる基準が原則的に介護保険の要介護3からとなっている。これは、2013年8月に発表された社会保障制度改革国民会議の報告書に基づくものだ。報告書では「特別養護老人ホームは中重度者に重点化を図り、併せて軽度の要介護者を含めた低所得の高齢者の住まいの確保を推進していくことも求められている」として、特養はこれ以上は積極的に増やさないというのが関係者間での暗黙の了解となっていた。その代わりに、ここ数年、増えてきたのがサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)だ。

 サ高住は、安否確認と生活相談などの見守りサービスが義務付けられた高齢者の住まいで、家事援助やデイサービスなどの介護保険も利用可能。登録事業者に建設費の助成、税制優遇などを行なうことで、特養に代わる施設として建設が進められ、2015年8月末時点で18.4万戸が登録されるまでになっている。

 今回の安倍首相の提案は、これまでの高齢者介護をめぐる議論を無視した唐突な提案で、現場からは「特養を増やしても、働く人がいない」「虐待問題が増えるのではないか」「介護離職ゼロの前に、介護職の離職をストップしてほしい」といった強い反発の声も上がっている。

 福祉施設介護職員の平均月額賃金は21万8900円で、全産業の平均の32万4000円よりも10万円以上も低い(2013年度)。そうした介護従事者の待遇を改善せずに、ただハコモノだけつくっても問題の解決はできないだろう。

 9月19日に成立した安全保障関連法案をめぐり、安倍首相は「憲法解釈の最高責任者は私だ」などと、立憲主義や民主主義を無視する発言を繰り返してきた。

 介護や医療などの社会保障制度は、学者などの有識者が議論を重ね、多くのステークホルダーが少しずつ譲歩しながら長い時間をかけて一つの方向性を見出し、今のような政策がとられてきた。それを突然、「総理の一言」で簡単に変えてしまうのは、現場を無視し、民主主義による決定プロセスもないがしろにした許されない行為といえる。

 だが、安全保障関連法に比べて、社会保障政策はそれに関わる利害関係者が多く、首相の鶴の一声でそう簡単に山が動くものではない。本当に15万人を収容するような特養の増設は可能なのか。首相の声に惑わされず、関係者には国民のための冷静な判断を期待したい。
   

   

ニッポン生活ジャーナル / 早川幸子   


早川幸子(はやかわ・ゆきこ)
水曜日「ニッポン生活ジャーナル」担当。フリーライター。千葉県生まれ。明治大学文学部卒業。編集プロダクション勤務後、1999年に独立。新聞や女性週刊誌、マネー誌に、医療、民間保険、社会保障、節約などの記事を寄稿。2008年から「日本の医療を守る市民の会」を協同主宰。著書に『読むだけで200万円節約できる! 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社)など。
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