「桜の塊がまるで水を圧するかのように咲き誇り、疎水が斜めによぎっている。春になると、我家の周りを水がさらさらと流れ、幽人は明け方の夢に心がかき乱されている。風につけ雨につけ花のことが心から離れない」

 銀閣寺へと向かう疎水の堤で、白沙村荘(はくさそんそう)の前にちょうどさしかかったところにある石碑には、爛漫の桜に心奪われている橋本関雪(日本画家)の美しい漢詩(冒頭の文章はその口語訳)が刻まれている。哲学の道は春になると、関雪桜が一面の雪のように咲き乱れる。そして、初夏には源氏蛍が舞い、秋には冬枯れていく山際の紅葉が、しみじみとした味わいを醸し出す。

 哲学の道とは、北は銀閣寺橋から南の若王子(にゃくおうじ)橋に至り、東山山麓を北流する琵琶湖疎水分流の西側に沿った小径である。五山送り火で知られる大文字山のちょうど麓の辺りにある。もともと付近には多くの文人が移り住んでいたため、明治時代には「文人の道」と呼ばれており、さらに「延寿の道」という散策路へとつながっていた。そして、1890(明治23)年に始まった琵琶湖疎水の分線工事によって、現在のような小径が形づくられたのである。この小径の土手に橋本関雪の妻・ヨネが、桜の苗を植えたのは1922(大正11)年のこと。それ以来、この道の桜の並木は「関雪桜」と呼ばれている。

 では、いつからどんな理由で「哲学の道」になったのか。実ははっきりとしていない。若王子神社のそばに哲学者・和辻哲郎が住み、霊鑑寺のそばには、宗教家・西田天香(てんこう)が一燈園を設けた。これにより哲学者・西田幾太郎や田辺元(はじめ)などのいわゆる京都学派の重鎮をはじめ、京大教授で人道主義者として知られる河上肇などの学者や学生が、この辺りを足繁く行き来するようになった。そのような時代の流れの中で「文人の道」は「哲学の道」や「哲学の小径」と呼ばれるようになっていったのである。

 おそらく誰もが、当時は哲学者たちがゆったりと瞑想に耽りながら、散策していた様子を想像するだろう。しかし、その頃を知る人の話によれば、むしろ、せかせかと足早に歩く姿が記憶にあるという。そんなギャップがまた、訪ねてくる人を楽しませているようである。

 

   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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