言わずと知れた京都土産の代表である。米粉を捏ねて蒸したものに、砂糖、蜂蜜、肉桂(にっき)やケシの粉を混ぜ、短冊形にした後、鉄板で焼いて作られている。これが八ツ橋煎餅というものであるが、焼き上げる前の求肥(ぎゅうひ)のような生皮や、その生皮で粒あんなどを包んだ「生八ツ橋」も含め、「八ツ橋」が総称担っているといったほうがよいだろう。

 八ツ橋が誕生したのは、京都の修験道の拠点である左京区の聖護院(しょうごいん)。811(弘仁2)年に役小角(えんのおづぬ)の十世僧日圓(にちえん)が紀州熊野大神を勧請して創建された「京都熊野神社」は、当時、東大路から鴨川付近に及ぶ広大な社地を有していた。その一角の聖護院の地で門前茶屋を営んでいた西尾家が、八ツ橋発祥地とされている。ただし、発祥の由来には二説あり、15社ほどある八ツ橋事業者は、それぞれ真っ二つに分かれた立場をとっている。

 一説は、『伊勢物語』や謡曲「かきつばた」の舞台となった、「三河国八ツ橋」の故事に因むというものだ。この故事は、子どもを川で溺れさせてしまった母が悔恨の念から出家し、後に川を渡るための橋を作ったという話である。故事では、その橋が八つの橋板が並べてあった、とされ、それをもとに創作された菓子が「八ツ橋」というわけである。

 もう一説は、江戸初期のお琴の名手で、八橋流箏曲の流祖の八橋検校(けんぎょう)にちなんで作られた、というものである。八橋検校は大変な倹約家だったそうで、米の残りや米炊き釜の焦げなどを集め、それで米粉を挽き、「八ツ橋」の原型となる煎餅を作っていたという。検校の死後、弟子たちによって作られたのが八ツ橋煎餅で、今日の丸みを帯びた独特の形は、師の徳を偲び琴の形状を模したものだとされている。八橋検校の墓所は、「京都熊野神社」からもほど近い黒谷金戒光明寺(くろだにこんかいこうみょうじ)にある。江戸期には墓参りに訪れた人の茶菓として、たいへん話題を呼んだという。

 和菓子などで元祖を名乗り合うということはよくあるが、それが明確なのに由来が複数存在するというのは珍しいことだろう。


黒谷金戒光明寺の八橋検校の墓所。


   

京都の暮らしことば / 池仁太   


池仁太(いけ・じんた)
土曜日「京都の暮らしことば」担当。1967年福島県生まれ。ファッション誌編集者、新聞記者を経てフリーに。雑誌『サライ』『エスクァイア』などに執筆。現在は京都在住。民俗的な暮らしや継承技術の取材に力を入れている。
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