よもやま句歌栞草

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。

中村 裕(俳人・編集者)

Vol.28戦争

戦争は季節には無関係のものなので、俳句におけるメインの題材になることはあまりなかった。日清戦争での正岡子規の「戦ひの後にすくなき燕かな」、内藤鳴雪の「此頃は女畑打ついくさかな」や日露戦争での与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」(七五調八行五連の長詩)などが明治時代の詩歌では目につくぐらい。しかし昭和に入り、中国への侵略の道を歩み出し、軍国主義体制が強化されていくとともに、それが国民感情を圧迫、圧殺するものとして、しだいに意識されていく。俳句において、その意識は保守的な「ホトトギス」に反発する感情と重なり、ついには新興俳句運動という大きなうねりになっていく。この新興俳句運動において、かつてないほど積極的に戦争が詠まれるが、その運動の性格上、内容は厭戦、反戦色の濃いものがほとんどで、これに脅威を感じた国家権力によって昭和15、16年、弾圧を受ける。したがってそれ以降の戦争俳句は、国によって発表を許された戦争協力の姿勢があらわなものばかりになってしまうのである。

征く人の母は埋れぬ日の丸に井上白文地 白文地は関西における新興俳句運動のリーダー的存在であったが、昭和15年の弾圧で検挙され、戦争末期に40歳で召集を受け、朝鮮のソ連軍収容所で消息を絶った。戦時中よく街角で見られた出征風景のひとこま。打ち振られる日の丸の小旗の群れの中に、息子を見送る母親が埋もれていくようだというのである。人間の最も基本的な絆である親子関係さえ、躊躇なくのみ込んでしまう国家という存在を、当時としてはごく見なれた光景から鋭く切りとった。そしてさかんな見送りを後に戦場へ送られた息子や父のある者は、英霊という名に姿を変えて帰ってきたのである。「山陰線英霊一基づつの訣れ」「我講義軍靴の音にたたかれたり」という句も名高い。

戛々(かつかつ)とゆき戛々と征くばかり富澤赤黄男 新興俳句における戦争俳句を代表する作品の一つ。昭和12年、陸軍少尉として中国へ出征した折の句で、行軍の様をきわめてリアルに、かつこれ以上ない簡潔さで伝え、戦慄的でさえある。「落日をゆく落日をゆく赤い中隊」という作品もある。武及ばず敵に捕らえられた場合は「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」(平畑静塔)ことになる。

墓標立ち戦場つかのまに移る石橋辰之助 「戦争二十二句」と題された中の一句。とはいっても辰之助が実際に戦場に身を置いてつくった作品ではない。このように戦場を想像してつくられた俳句は「戦火想望俳句」と呼ばれた。映写技師だった辰之助は、当時さかんに映画館で流されたニュース映画などから材を得たかもしれない。戦死者をねんごろに弔う間もなく、あわただしく戦場が移動していくという戦争の非情さを冷静に描き出している。

ものいはぬ馬らも召され死ぬるはや小澤青柚子 馬を人類が家畜化した歴史はきわめて古く、農耕や運搬にだけでなく、軍事においても大きな役割を果たしてきた。太平洋戦争でも多くの軍馬が大陸にわたり、そして潰えた。その数は兵士の数よりも多かったといわれている。この句はそのことを淡々と叙しているだけだが、もの言えぬ馬だからこそ、もの言えぬ人々の胸に突き刺さってくるのだ。作者の青柚子も中支戦線で戦病死をとげた。ホトトギスの長谷川素逝にも「わが馬を埋むと兵ら枯野掘る」「馬ゆかず雪はおもてをたたくなり」という軍馬を詠んだ句がある。

倦怠や戦場に鳴く無慮の蝿鈴木六林男 緊張に張りつめた戦場にあっても、ときに倦怠感におそわれる瞬間はあるだろう。それが長期間にわたるものであれば、なおさらだ。そんなときに蝿がけだるい羽音を鳴らしながら、飛んでいるのだ。蝿はそこで行なわれている戦争のなんたるかを知る由もないから、遠慮のない「無慮」の蝿なのだ。しかし人間の行なう戦争こそが生物としては異常な行為なのだから、無慮の蝿こそが正常といえる。また無慮は数の多いこともいうから、その場合は死体にたかる無数の蝿ということになる。作者は太平洋戦争における最も悲惨な戦いといわれるフィリピンのバターン・コレヒドール戦を体験しているから、兵士たちの死体に無数の蝿がむらがっているむごたらしい光景を思った方がいいかもしれない。そんな凄惨な状況においても、容赦なく倦怠感が襲ってくるのだ。その無力感、絶望感、虚無感。三橋敏雄に「戦争にたかる無数の蝿しづか」という句がある。

十二月八日の霜の屋根幾万加藤楸邨 12月8日というのは1941年(昭和16年)の12月8日のことで、アメリカ、イギリスへの戦争を始めた日。つまり真珠湾攻撃やマレー半島攻略に着手した日である。その後の日本、というより日本人の行末を決定づけた日であることを、作者は霜の屋根によって象徴させようとしている。「幾万」というところに、傍観者的な態度もうかがえるが、それ以外の説明を一切、排したことで、この日のもつ重大さをより強く訴えようとしている。

戦争が廊下の奥に立つてゐた渡邊白泉 昭和14年の作だが、当時、軍は軍の施設以外のところで会議などをしなければならなくなると、機密保持のため、廊下に歩哨を立て、一般の立ち入りを禁じたという。戦争は戦場だけにあるのではなく、実はその元凶たちは、この廊下の奥で額を寄せ合って、会議をしているのだという鮮烈なイメージ。当時の新興俳句でさかんに試みられた口語文体であることも、その事態を伝える上で効果的だ。他の「銃後といふ不思議な町を丘で見た」「憲兵の前で滑つて転んぢやつた」「戦場に手ゆき足ゆき胴ゆけり」「夏の海水兵ひとり紛失す」「玉音を理解せし者前に出よ」等々、白泉が戦争を詠んだ作品は昭和戦争俳句中、最高水準のものである。

戦争身近に拳闘を叱咤する三谷昭 戦争がしだいに身近なものに感じられてきた今日この頃、世の中たいへんなことになっているというのに、この自分はというと、暢気にボクシングの試合を見に来て、夢中になって選手を叱咤激励している。戦争、戦争といわれても実感がわかないけど、目の前で行なわれている男と男の殴り合いはよくわかるのだ。実際の戦争はこんなものではないだろうが、自分に理解できる戦いとはこんなものだという、一見、居直ったような物言いの底に秘めた戦争への批判である。

路地ふかく英霊還り冬の霧大野林火 戦時体制下の、いわゆる銃後にあっての出征風景や、戦死して英霊となった遺骨が帰って来たときの雰囲気は、戦争の初期と後期ではずいぶん違ったようだ。初期のまだ日本軍が躍進していた頃の盛大さにくらべ、後期は人目をはばかるような寂しいものだったという。英霊の数が日に日に増えていくのだから、誰の目にも日本の劣勢は明らか。それを見せたくない、あるいは直視したくないという心理が働いたのだろう。この句もおそらく戦争後期の風景である。「母の手に英霊ふるへをり鉄路」という高屋窓秋の作品も名高い。

大戦起るこの日のために獄をたまはる橋本夢道 「この日」とはつまり昭和16年12月8日。その前年からその年にかけて新興俳句運動に対する弾圧事件が起きている。プロレタリア俳句を推進していた夢道も16年2月、治安維持法違反の嫌疑で検挙され、2年間の獄中生活を送っている。だからまさしく開戦へ向けての国家体制を整備するために、俳句とはいいながら反体制色を強めていた新興俳句やプロレタリア俳句に関わる俳人たちが検挙されることになったのである。「たまはる」に万感の抗議の思いがこもる。

戦争と畳の上の団扇かな三橋敏雄 昭和63年頃の作で、戦後40年以上たっているわけだが、その間もずっと持続してきた戦争への作者の思いが、背後にあって、それがこの句の重量感を生んでいる。新興俳句のもうし子というべき敏雄にとって戦争は、どのような季題も及ばない俳句表現にとっての大きなテーマだった。18歳の時の「射ち来る弾道見えずとも低し」から72歳の時、湾岸戦争をきっかけにつくられた「こちら日本戦火に弱し春の月」まで、生涯になした戦争俳句は数多い。自分にとって戦争は、今、かたわらの畳の上に放り出されている団扇のようなものだというのだが、この意表をついた取り合せが説得力をもつのは、生活に根ざした批判精神というものが底に秘められているからである。それは戦争同様、自分をも自らから突き放して見ることのできる冷静なまなざしである。

かつて戦艦陸奥と呼ばれし日のありて鉄が吐き出す水をさびしむ佐佐木幸綱 「陸奥」は「長門」とともに旧日本海軍を象徴した戦艦で、建造当時は世界最大の戦艦であった。昭和十八年、呉軍港の外で、原因不明の火薬庫爆破によって、瀬戸内海に轟沈した。その後、スクラップとして引き揚げられたが、その折の作品。無残な鉄の塊となってしまったかつての大戦艦が吐き出す苦い海水に、作者は戦争の虚しさを味わっている。

2004-07-26 公開