日本独自の伝統的な挿花(そうか)の技法。いけ花は時代の変遷に応じていろいろな様式を生じ、それがその時代のいけ花の名称となっている場合が多い。いけ花の初期は「たてはな」といい、それが江戸初期に様式を完成させて「立花(りっか)」の形式を生むと、立花が当時のいけ花の名称となった。また茶の湯の流行により茶室の花が生まれると、単に「花(はな)」とよび、「お花」などという呼び名もここからおこった。江戸時代に「抛入花(なげいればな)」が愛好され、やがて「生花(いけばな)」を生むようになる。生花は、江戸中期ごろからおこった天地人三才格の花型(はながた)をもついけ花様式の一つだが、その広範な普及によって、いけ花がいつか一般的な名称のように用いられ、今日に至っている。江戸時代には「瓶花」「挿花」「活花」などの字をあてて「いけばな」とよぶ場合も多く、また別に「花道(かどう)」といった呼び名もおこるようになった。明治以後「盛り花」「投入れ」様式が新しく生まれると、それとの区別の必要からも、生花を「せいか」「しょうか」とよんでいけ花様式の一つとし、いけ花が一般総称として用いられるようになった。いけ花の近代化に伴い、盛り花、投入れから「自由花」「現代花」が派生し、第二次世界大戦後には「前衛いけ花」が生まれるなど、いけ花は多様な様式の歴史を展開している。いけ花は、その形式の成立は、室町時代の座敷飾りの室礼(しつらい)から発展したものだが、これが確立する前提としては、日本人の花に対する感覚の系譜というべきものをたどる必要がある。
[北條明直]
祭りにはかならず木を立てるということが、日本の民俗信仰に一貫して流れている特徴である。神霊が樹木に天降(あもり)すると考えたからだ。樹木は神の依代(よりしろ)である。樹齢を重ね大空にそびえ立つ大木などは、そのままで神霊のよりつくかっこうな神の依代と考えられた。そこに社(やしろ)、すなわち神社ができた。また神への祈願として、マツやスギやサカキなど色の変わらない常磐木(ときわぎ)を選び、これを地上に直立させることによって、そこへ神を迎え入れ、その年、その土地、その家の安全と幸せを祈った。
いけ花は花よりも枝を立てることのほうに基本的骨格があるが、それは民俗信仰の依代の習俗を投影しているといっていい。一方、咲く花は、死霊をよみがえらせる具として考えられた。『日本書紀』にみえる伊弉冉尊(いざなみのみこと)の死霊供養の祭祀(さいし)に、花の盛りには花を供える土俗があったというのは、霊のよみがえりを図る呪術(じゅじゅつ)的儀式にほかならず、そこには花を活霊(かつれい)としてみる民俗があったことを物語る。そして、花は咲くがゆえに散り、散るがゆえに咲くという死滅と再生の象徴として民俗のなかでとらえられ、そこに花の生命に対する強い関心が注がれた。花見が本来、ムラのその年における農作物の吉凶を判断する予祝行事だったことも、また苗代(なわしろ)の水口(みなくち)に花を挿して田の神を祭る行事のあることも、花の活霊に対する神秘畏敬(いけい)の念の表れであり、こうした感覚が花の生命を凝視する日本人の心を培い、やがて1回限りの花の生命をひときわ高揚させようとするいけ花を生む精神的土壌となっている。
しかし、呪術や信仰のうえでの植物の扱いは、依代の樹木であろうと、供える花であろうと、自然の状態のままの花や枝を切ったり採ったりするにとどまり、そこに人工的改変を加えられることはないが、花を好みの場に移して生かし育てることについては、古代貴族の屋敷内に花園をつくることでまず現れた。いわゆる庭の前栽(せんざい)として植え込みをつくり、そうした前栽の花を前に、貴人の邸宅で酒宴を張り歌を詠むことが盛んに行われ、それはやがて瓶に花を切って挿すという鑑賞へと移行する。『枕草子(まくらのそうし)』には、「勾欄(こうらん)のもとに青きかめの大いなる据ゑて、桜のいみじくもおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いとおほくさしたれば」とある。一方、仏教信仰が上流貴族に受け入れられてきたのと並行して、仏前の供花(くげ)を瓶子(へいし)や壺(つぼ)や皿などに挿して献ずる風が一般化し、また寺僧の勤めとしてシキミやハスの花などを挿し供える仏前供養の献供の作法も入り、日本人と植物とのかかわり方は、日本人本来の民俗信仰行事を受けつつも仏教的な潤色が加えられ、屋外から屋内の花へ、さらには美しく加工が施されるといった過程をたどるのである。
積極的に美しい花をつくりだそうとする傾向を促したものに、歌合(うたあわせ)から派生したともいえる貝合(かいあわせ)、草合(くさあわせ)などの物合(ものあわせ)の一類としての花合(はなあわせ)があった。当時中国宋(そう)代の花卉(かき)園芸の影響もあって、園芸が平安時代の公家(くげ)生活のたしなみ事とされ、品種の多様化とともに葉を摘んだり枝を整えたりというくふうによって、草木花の形姿を美しくつくることがなされたが、物合の花も優劣を競う遊びのなかで、おもしろさ、珍しさへの趣向が凝らされた。こうした趣味性をもった花への指向が、民俗信仰や仏教のもつ宗教性から花を解放し、いけ花の誕生を促すことになる。
南北朝から室町時代にかけては、政治的意味合いを込めて、平素の共同性を確認する機会としての寄合(よりあい)がしきりに催された。それは酒宴その他の遊興を名目とするもので、公家、武家、僧侶(そうりょ)間で盛んに行われたが、こうした寄合の流行のなかで花合という催しも流行した。とくに七夕(たなばた)に際して多く、『迎陽記(こうようき)』によると、1399年(応永6)の七夕に、北山の足利義満(あしかがよしみつ)邸に青蓮院宮尊道(しょうれんいんのみやたかみち)親王や聖護院道基(しょうごいんみちもと)以下多くが集合、7種の花の瓶に挿したものを競べ合わせ、賞品に小袖(こそで)を贈ったとある。また後崇光(ごすこう)院の『看聞御記(かんもんぎょき)』には、1416年(応永23)から1443年(嘉吉3)にわたって毎年七夕法楽(ほうらく)の記事がみえる。その座敷飾りの室礼にはかなりの技巧を凝らしたことが記されている。それは常(つね)の御所を会所として座敷を飾り、日ごろ出入りの廷臣や僧俗が種々の花器に入れて献上した花を置き並べ、そこで乞巧奠(きこうでん)にふさわしく和歌の会を催し音楽を奏するものであった。こうした七夕の花献上の習俗は、有力な公家や将軍家、守護大名の間にも広まり、また献上者間に競争意識が働き、珍しい花器を求め、花の形も考えるというくふうが凝らされ、かつその技法に長じた専門家も出現するようになった。
[北條明直]
こうした風潮のなかで、挿花の風が室内装飾としてさらに重きをなすに至ったのは、床の間の発生である。日本に床の間が発生するのはおよそ15世紀ごろと推定される。南北朝から室町時代にかけて中国絵画がおびただしく流入し、これが珍重され、これらの絵画のほとんどが軸物であったところから、これを掛けて鑑賞する施設として床は発生した。15世紀の終わりごろの『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は、室町時代の唐絵(からえ)や唐物(からもの)、器物の鑑賞と座敷飾り方式を述べた秘伝書だが、これによると、正式な床の飾り方式として三具足(みつぐそく)を掛軸の前に置くことになっている。すなわち、三幅一対、五幅一対の掛軸の前に卓を置き、その上に向かって右に燭台(しょくだい)、中央に香炉や香合、左に花瓶を置くのが定式となっていた。この方式は仏前荘厳(しょうごん)の飾り方式を踏襲したもので、そこに床の間のもつ儀式的機能をみることができるが、一方、床の間は美術鑑賞の機能もあわせもつところから、略式になるほど娯楽鑑賞の側面が強調され、そこではいけ花が鑑賞の花として重きをなすようになる。
床飾りの方式が整備されるようになるのは足利義政(よしまさ)の時代からで、これらの規定(きじょう)に参与したのは、多く半僧半俗の同朋衆(どうぼうしゅう)とよばれる義政の側近衆であった。彼らはいずれも阿弥(あみ)を号し、そのなかには絵画の能阿弥、芸阿弥、相阿弥、飾り付けの立阿弥(りゅうあみ)などがいた。立阿弥は義政の命でしばしば花を立てているが、書院の座敷飾りの方式が整うと、文阿弥(もんあみ)のように花を立てることを専門にする名人も現れ、「たてはな」とよばれた後の立花様式の前身ともいうべき花型が生まれるようになる。このころの花の堪能な人は阿弥系以外にも、山科言国(やましなときくに)の雑掌(ざっしょう)大沢久守のような公家所属の人もいる。彼は1488年(長享2)正月から1492年(明応1)12月までに小御所(こごしょ)、御学問所、黒戸御所に花を立て、その数123瓶に及んだという。
また京都六角堂頂法寺(ちょうほうじ)の池坊(いけのぼう)の寺僧のなかからも名手が輩出し、なかでも専慶はその技(わざ)が巧みで、将軍家以外の武家の邸宅で、主人の求めに応じて花を立てて賞賛を浴びた。専慶は、今日の池坊の開祖をなしている。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以後、足利幕府の衰亡とともに同朋衆の花が影を潜めたのに対し、頂法寺は札所(ふだしょ)として諸人の参詣(さんけい)が絶えず、庶民に親しまれたところから、池坊の花はますます発展し、同朋衆の一派をも吸収し、16世紀中ごろには、いけ花は完全に池坊の独占するところとなった。しかも専慶以後もいけ花名手が相次ぎ、代々くふうを重ねた結果、武家社会だけでなく貴族社会にも進出し、1530年(享禄3)には宮中で花を立てるまでに至っている。
このころから口伝書の類が多く残されるようになる。享禄(きょうろく)2年(1529)の奥書のある『宗清花伝書(そうせいかでんしょ)』、1445年(文安2)から1536年(天文5)にかけ相伝されたという『仙伝抄(せんでんしょう)』、天文11年(1542)の奥書のある『池坊専応口伝(せんのうくでん)』(『専応花伝書』)、天文21年(1552)の奥書のある『宣阿弥花伝書』、同じく天文21年相伝という『花伝書ぬきかき条々』などで、なかでも『仙伝抄』と『池坊専応口伝』が知られている。『仙伝抄』の条々のなかにうかがえるのは、多分に呪術めいた働きを「たてはな」に与えていることである。信仰と密接な関係をもちつつ、座敷飾りとして東山時代の武家社会のなかに機能していったいけ花は、『池坊専応口伝』となると、その序文にいけ花の哲理が述べられ、いけ花は花の美を賞するだけでなく、自然の本然の姿を現し宇宙の理(ことわり)を示すものだという形而上(けいじじょう)的意義を付して、以後のいけ花の発展方向に大きな示唆を与えている。こうして天文(てんぶん)年間(1532~1555)に数多い口伝書を成立させた「たてはな」は、安土(あづち)桃山時代を経て寛永(かんえい)(1624~1644)に至り、立花様式を大成させるのである。
[北條明直]
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