集合住宅とは、1棟の建物の中に多くの住宅が存在すること、すなわち建物の内部が壁や床によって、いくつもの部分にくぎられて、そのおのおのが独立した住宅になっているものをさす。
集合住宅と似た用語がいくつかある。「集団住宅」は、一団の土地の上に集団的に計画され、建設される住宅の総称で、一戸建て住宅、集合住宅どちらの場合にも用いられる。「共同住宅」はいわゆるアパートとよばれる、住宅が上下に積層した1棟の建物をさし、出入口を共用する。「長屋」「連続住宅」は平面的に連続した1棟の建物で、各戸が専用の出入口をもつ。
海外での呼称との対応でいえば、集合住宅はイギリスではフラットflatとよび、アメリカではアパートメントとよぶ。いずれの国も、各戸が庭をもつ住宅(一戸建てでも連続住宅でも)をハウスと総称し、非接地型のフラットやアパートメントと明確に区別している。
ハウス系には、一戸建て(デタッチト・ハウス)、二戸建て(セミデタッチト・ハウス)、連続建て(テラスハウス)があり、コモンスペース(共用庭)をもつ連続建てはタウンハウスともよばれる。ハウスは一般に平家か2階建てが多いが、まれには3階建ての場合もある。
積層型集合住宅(共同住宅)のうち、1戸の区画が1平面の中に収まっている(1階形式)場合にはフラットとよばれるのに対し、2階建て形式の住宅が積み重ねられている場合にはメゾネットmaisonetteとよばれている。
なお、建物の階数によって低・中・高層を区別するが、1~3階が低層、4、5階が中層、6階以上でエレベーターを必要とする建物を高層とよぶのが慣例である。
[延藤安弘]
集合住宅は、人間の集まって住むことの歴史とともに歩んできている。紀元前3000年ごろ、人類最初の都市を発達させたメソポタミアやエジプトでは、狭い曲がりくねった廊下に沿って水平方向に相互に密接した泥れんがの住居に住んでいた。しかし、人類史で積み重なって住む経験が初めてみられるのは、エジプトのテーベ(前1580年ごろ~前1085年ごろのエジプトの首都)という人口が密集した都市であった。当時の壁画によると、このころすでに4階建ての集合住宅の存在をうかがわせる。
多くの庶民が積層型の集合住宅に住むことが一般化したのはローマ時代である。公的交通機関がない時代に、増加しつつある人口を比較的小さい場所に詰め込む方策として、インシュラとよばれた上下に住戸を重ねる積層住宅が活用された。
当時の集合住宅の復原図をみると、外観はとても現代的であるが、基礎や構造は欠陥だらけで、棟ごと崩壊したこともあった。建物内部に配管がなく、庶民は水を路上噴水までとりに行き、それを階上まで運ばなければならなかった。
中世の城壁都市、とくにイタリアの都市には積層の集合住宅があった。
しかし、近代的な意味で本格的な集合住宅が建ちだすのは、18世紀に始まる産業革命によって都市に労働者が集まるようになってからである。20世紀になり、ヨーロッパ諸国は、国が勤労者のための良質な低廉な家賃の集合住宅を供給する制度を一般化するようになった。二つの世界大戦を経て、集合住宅をつくる技術は、計画面でも生産面でも進歩した。
[延藤安弘]
長屋も集合住宅の一種であるから、日本の集合住宅は、長屋が文献上初めて現れる『日本書紀』や『万葉集』の時代までさかのぼる。しかし、長屋が都市庶民の住まいとして一般化するのは、京都・大坂で室町時代の末期より発達した貸家に始まる。江戸時代には、江戸・京都・大坂をはじめ、城下町や商業都市が発達するにつれて、有力な町人は自分の屋敷内や裏に長屋を設けて、そこに借家人を住まわせ、蓄財・金もうけの対象にした。
積層の集合住宅が日本で初めてお目見えするのは、1910年(明治43)に建った東京の下谷上野倶楽部(したやうえのくらぶ)という60戸を収容した木造5階建てのアパートであった。鉄筋コンクリートのアパートが出現するのは、1915年(大正4)に三菱(みつびし)が、長崎から18キロメートル離れた端島(はしま)に建てた9階建ての社宅であった。
1923年(大正12)の関東大震災の復興のために、同潤会(どうじゅんかい)が、その事業の一つとして鉄筋コンクリートの集合住宅の建設を始めた。東京都内各所(代官山、青山など)、横浜市内に建てられた同潤会アパートは、優れた計画とデザインによって、第二次世界大戦前におけるもっとも進歩的・文化的な住生活様式を実現した。
戦後の集合住宅は、1948年(昭和23)東京・高輪(たかなわ)に公営住宅として建てられたのが始まりである。集合住宅が華々しく脚光を浴びだしたのは、1955年に日本住宅公団(81年より住宅・都市整備公団、99年より都市基盤整備公団、2004年より都市再生機構)が発足し、集合住宅を集団的に、つまり団地として建てることが一般化してからである。1958年、鉄筋コンクリートの集合住宅居住者が100万人に達したとき、ある週刊誌は「ダンチ族」特集を行い、それ以後「ダンチ」は都市居住者にとって一般的な用語となった。
[延藤安弘]
現代の世界の集合住宅には一つの特徴がある。それは高層住宅から低・中層集合住宅への転換である。欧米にその典型例を求めてみよう。
[延藤安弘]
イギリスは第二次世界大戦後、大量の住宅建設を行うために、ある時期低層から高層へ急激に転換したが、撤退するのも早かった。すなわち、かの国では1950年代にはフラットは32%だったが、1960年代になって徐々に増え、1966年には53%になる。ところが、1968年、イギリスは1960年代の高層住宅の時代に終わりを告げた。この年の5月に起こったロンドン、ローナンポイントのガス爆発事故(相当数の死者と重軽傷者を出した)は、それ以前から鬱積(うっせき)していた高層住宅批判を背景に政府住宅当局をして、高層住宅をその施策メニューから外す決意を促した。
高層住宅は、その建設費や維持管理費が高くつくかわりに、規模そのものに対する人々の深い心理的な反作用(無力感と社会的隔離感)をおこし、破壊行為(バンダリズム)という住環境破壊と犯罪の温床になること、子供を育てる生活環境としては、生理的にも心理的にも望ましくないこと、等々の批判が高まっていた。
1970年代に入ってからは、大ロンドン県の公営住宅建設は、高層住宅を基本的にやめ、低層集合住宅、中層集合住宅が主流を占めるようになった。具体例をロンドンの都心近くの高密市街地内にある公営住宅のマーキス・ロード団地に求めてみよう。これは戸数1185戸の再開発団地である。
集合住宅の形態面で、3~5階建ての準接地型市街住宅として興味深いものがある。3層までは子供をもつ世帯用接地型住宅がクロス・オーバーセクションとして構成されており、3階の天井スラブの上に老人住居が廊下を挟んでのっかっている。この廊下は屋上通路(ルーフストリートまたはペデストリアン・デッキ)とよばれているが、このレベルに実際上ってみると、老人たちが気持ちよさそうに日なたぼっこをしたり談笑しており、さらにみごとな草花が咲きこぼれており、そこにはまるで日本の伝統的長屋等の路地空間を彷彿(ほうふつ)とさせるものがある。
ここには、イギリスの集合住宅の計画原則がみごとに生かされている。一つは、育ち盛りの子供をもつ世帯は、直接外に出られるようにすること、いま一つは、老人同士のコミュニティを形成できるようなグルーピングがなされていることである。
もう一つイギリスの現代の典型的な集合住宅として、コベント・ガーデンという都心の再開発住宅オダムをみてみよう。これはわずか7000平方メートルの敷地に、102戸からなる5階建て集合住宅である。普通、中層集合住宅といえば、羊かんを切ったような板状をしていることが多いが、これはまったく異なったスタイルをとっている。それは、周辺の街区に対しては比較的硬い壁をつくりながら、内側に向かっては開放的な共用庭と変化のある専用庭(パティオ)をもち、12戸の住居群(クラスター)が寄り集まって一つの住宅街区(ブロック)を形成しているという形態をとっている。近代の集合住宅は大量生産と合理化のために画一性・単調さを免れなかったのに対し、これは、この地区のコミュニティ・フィーリングを生かした個性的な表情のある集合住宅である。
4階のレベルに立体街路(フロア・ギャラリー)があり、地上とエレベーターでつながってこのレベルにシェルタード・ハウジングとよばれる老人住宅群30戸がある。シェルタード・ハウジングとは、住み込みの介護人のサービス付きの、老人向きの特別設計の集合住宅のことをいう。
都心にありながら、この集合住宅は、各戸が大きな専用庭をもち、接地型住宅の庭と同じ役割を果たしている。子供が安心して暮らせ、老若混合して住むことができ、周りの街並みに対して積極的な表情をつくりだしているこの集合住宅は、高密快適居住・街並み形成型の集合住宅として注目される。
[延藤安弘]
近代建築の粋といわれた高層集合住宅が衝撃的な事件によって転換せざるをえなかったことはアメリカでもおこった。1972年7月、ミズーリ州セントルイスにあるプルーイット・アイゴー団地が爆破された。この公営団地(11階の高層住宅、2764戸)は、近代集合住宅計画において目標とされた「都市における三つの喜び」(ル・コルビュジエ)である「太陽と空気と緑」をみごとに提供したとされ、1951年AIA(米国建築家協会)から建築賞を受けたモダン建築の華であった。
しかし、この高層住宅団地のもつ基本的特徴――長い廊下、匿名性、セミプライベート・スペースの欠如が原因となって、高層住棟では絶え間ない破壊行為が続いたあとに、管理に手を焼いた市当局の手によって爆破されてしまった。
この現代集合住宅計画史における象徴的なできごとは、その後のアメリカの集合住宅計画においては、住民のコミュニティ感覚の育成、子供への自然監視、安全性、維持管理、住みやすさ、近隣との連続性の共感、空間の使い方のフレキシビリティ等の計画指標が重視されるようになった。これらを具体化しうる集合住宅として、1970年代以降、低層高密度住宅の開発が盛んとなっていった。
たとえば、サンフランシスコの都心部再開発(ゴールデン・ゲート・センター)では1960年代には高層住宅を建てたが、その後の建設コストの値上り、住宅市場が変貌(へんぼう)し高層敬遠志向が高まり、周辺住民も高層建築の周辺地区に与える影響に対してたいへん敏感となった。そこで、これらをクリアするために1970年代後半に建てられた隣接ブロックは、1、2階を事務所とガレージにし、その上に2層の低層集合住宅50戸をのせるスタイルに変わった。
また、郊外では、在来的な一戸建てではなく、共用のプールやテニスコートなどを伴ったタウンハウスが1970年代以降一般化してきている。それらは、環境全体が新鮮なイメージを含んだ、巧みにデザインされた低層集合住宅である。
[延藤安弘]
国土の狭い高密な土地利用を余儀なくされているオランダでは、集合住宅の質が高い伝統がある。20世紀初頭にすでに、居住性において優れた集合住宅を、とくにアムステルダム中心に生み出した。それらは、集合住宅は都市勤労者の各家庭生活を満たすだけでなく、居住者同士が集まって住むことの感覚を高めるための配置計画(レイアウト)や建物デザインに独特のくふうがなされ、人間味のある暖かい表情のあるものであった。
現代においても、オランダは「実験住宅制度」によって、各地に特色のある創意的な集合住宅が建設されている。たとえば、ヘルモンドという小都市に実験的に建てられ始めた「木の家」は、文字どおり木の形をした住宅が連なって「森」のような団地を形成している。住み手にとって住みやすく、経済的にも技術的にも合理的であることが確かめられたのち、こうした特殊な集合住宅が他都市にも普及していっている。
オランダの集合住宅の外部空間構成で特徴的なことは、ボンエルフ(生活の庭)と称して車と人の融合空間を計画的につくりだしていることである。これも高密度な土地を有効に活用するために生まれた知恵である。一般には道路の歩車分離原則が強くいわれてきたのに対し、オランダでは住宅地内部の道路では、車がゆっくりと走り、子供の遊び空間と共存できるような仕掛けがある。この手法は、近年日本でもすこしずつ普及し始めている。
[延藤安弘]
振り返ってみると、戦後から高度経済成長期の期間は、「戸数主義」からくる集合住宅は標準化、画一化の色濃い時代であった。しかし、都市住宅を取り巻く状況・背景の変化によって、現代集合住宅は新しい転換を図りつつある。
その背景の変化とは、第一に、オイル・ショックを境目にした社会経済の安定期への移行にある。量を最高に評価していた時代から、質を評価する時代の転換は、それ以前の高層・巨大プロジェクト中心から、低層・人間的規模のプロジェクトへ、急ぎすぎの開発からユックリズムへと集合住宅づくりの基調を変えた。
第二の変化は、EC(ヨーロッパ共同体)の秘密文書が「日本人はウサギ小屋とさして変わらぬ住宅・環境の下に生息している働き中毒」と指摘し(1979)、この酷評を甘受せざるをえないほどの、日本の都市住宅全般の質の低さにある。こうした状況のなかで、平面的・立体的建てづまりとしてのミニ開発やマンションに対抗しうる環境付き住宅としてのタウンハウスや、定住に足る広い多様な中層住宅への模索が重ねられた。
第三に、集合住宅のさま変わりの背景要因にあげられるのは、集合住宅を積極的に選好し、かつそこをふるさとにしようとする「集合住宅ファン」が相当の厚みをもって形成されていることである。そのことは、都市において過密居住が進行しているなかで、公的賃貸住宅などのそれまでの集合住宅居住体験を踏まえて、住戸内外空間を一体的につくりうる集合住宅のよさを知りつつある層の増加を意味している。
こうして、従来の集合住宅の画一化や、強まりつつある都市住宅の過密化等に対して抱かれた危機感を超えて、いまようやく日本でよい集合住宅を広く育てうる可能性が開けてきたわけである。
[延藤安弘]
1970年ごろ以降およそ15年間の集合住宅の流れを通してみると、三つの節がある。
第1期は1970年代前半までである。この期には民間プロジェクトに有名建築家がかかわり、集合住宅設計上新鮮なキー・ワードが提起された。たとえば、内井昭蔵の桜台コートビレッジ(横浜市青葉区)は、地形的特性に集合住宅をなじませるとともに、「集合住宅の本質はコミュニティ・スペースにおける人間的接触である」ことを具体的に空間化させた。
同じころ菊竹清訓(きよのり)も「共有空間は住宅を集合させる場合の重要な結合部分である」として、住宅・個人生活と、環境・社会生活の間の中間領域に、セミプライベート・スペースとセミパブリック・スペースが存在し、これらによって都市生活の新しい文化が形成されることを明示した。
この時期の注目すべきことは、都市と集合住宅のかかわりを槇文彦(まきふみひこ)が東京・渋谷の代官山集合住宅計画で示したことである。この全体計画は200メートルの街路に沿って住宅が並ぶことから「単体としての建物の細部のプロポーションよりも、アーバンファサードとよぶべき都市に対する表情」が考慮された。
第2期は1970年代後半である。この期の特徴は、広範な都市中間層または低所得者向け集合住宅において、コモンスペースを伴った低層集合住宅が登場したことである。そのことは、一戸建てと中高層集合住宅の間に新種の接地型都市住宅を持ち込み、住戸の「内」と「外」とを領域的に区分する考え方をおこし、住戸周りの表出性とコミュニティ形式を促すところに特徴がある。
公営住宅のなかにあっては、一つの魅力的プロジェクトが現れた。それは茨城県営住宅六番池団地(1976)である。これはスキップ構成の上下3戸が重なる準接地型の集合住宅である。階段にも路地的でヒューマンスケールな形が振り付けられている。六番池から始まる一連のプロジェクトを通して、この型の集合住宅計画に一つの活路をみいだした藤本昌也は、建築と環境の「大地」との連続性の回復を強調し、周辺環境との調和、地方性豊かな住環境、土着化したコミュニティ空間の創造をやってのけた。これらが公営住宅として登場することによって、従来の箱型の公的集合住宅の概念は、みごとに壊された。
公的集合住宅のいま一つの代表である東京多摩ニュータウンの諏訪(すわ)タウンハウス(1979)は、大量空き家発生と「遠・高・狭」の社会的批判を浴びたあとに登場した公団の都市型低層住宅である。タウンハウスは、住戸内外空間を一体的につくり、住みこなされたときに功を奏するものである。その意味でこれは、住戸が多少狭くとも、外部空間=コモンスペースと緑の豊かさが、住み手の定住意識とコミュニティ形成の向上に十分に寄与しうることを明瞭(めいりょう)に示した。人間と緑との相互の親和力が失われつつある都市のなかで、それを集合住宅の側から蘇生(そせい)させる可能性を示しえたプロジェクトである。
高品化住宅とできあいの住宅が普及するほど、また孤立化した住まい方が多くなるほど、人々のつくることへの参加、協同志向は高まってくる。こうした状況のなかで、土地取得から計画・建設・居住・管理に至る全ハウジングプロセスに、住み手の小集団グループがコーディネーターの協力を得つつ、参加・協同するコーポラティブ住宅が生まれ、優れた実施例が生み出されたのも、この時期の特徴として見逃すことができない。
コープ方式の集合住宅づくりは、三つの点で新しい意義を与えつつある。一つは、住み手の願う間取りの多様さのなかで、LDKの組立て方などにおいて、新しい平面計画構成原理を提起していること。第二は、「わたしの家」という個性ある表情の住まいの集合が街並み形成に独特の活気を与えていること。第三に、人間関係のよさをはぐくむことに居住価値をみいだすコミュニティ運動的側面を担っていることである。
第3期は1980年代である。1970年代の低層集合住宅の創造と経験の蓄積という刺激的な時期のあとにきたこの期の特徴は、低層集合住宅の外部空間における歩車融合化、中層住宅の見直しなどである。そのことは、経済面からの要請としての高容積率、生活面からの要請としての高駐車率と高緑被率といった相矛盾する要素を、集合住宅計画のなかでどのように統合するかといった新しい課題への対応を迫られていることを意味している。いいかえれば、高密快適居住の集合住宅づくりへの道を歩み始めているといえよう。
古い時代に建てられた中層住宅は腰掛的な住まいであった。しかし定住型中層住宅として種々のくふうがなされたものに多摩ニュータウン鶴牧(つるまき)プロジェクトがある。定住を促すために、それは、専用住戸面積が90~100平方メートル、多様な間取り、勝手口とサービスバルコニー、屋根裏物置や納戸、木戸や植木鉢置き場のある玄関ポーチ、切妻の勾配(こうばい)屋根、小庇(ひさし)のある家らしい外観、住棟で囲まれた安定した共用庭、小山や池をあしらった外部空間等々の魅力がある。
この時期のいま一つの新しい動向は、既存集合住宅の改善事業である。古い公営住宅は相当に狭い(2K、40平方メートル以下が多い)が、これに1室増築や2戸を1戸にする改造は、従前の狭い公営住宅を定住の場にし、団地をふるさとにしようという住み手側の要求と、供給者側のストックの有効活用施策が呼応して始まったが、今後はより広範な集合住宅ストック改善方策が注目される時代になろう。
[延藤安弘]
以上のように集合住宅は、徐々に日本の都市住宅の一大典型として定着しつつあり、とりわけ人々が定住し、熟成した住環境となり、都市の生きた部分を構成する集合住宅の可能性はしだいに膨らみつつある。
よりよい集合住宅づくりを目ざすことに、政策や技術の側の役割も大きいが、集合住宅の質は建築の形態そのものと同じぐらいに、住み手の住み方と管理への主体的取り組みがたいせつである。その意味では、集まって住むことへの志を高めるための住教育や住環境学習が今後の課題となってこよう。
[延藤安弘]