日本大百科全書(ニッポニカ)

サーカス
さーかす
circus 英語
cirque フランス語
Zirkus ドイツ語

高度な熟練による人間と動物の曲芸などで構成される見せ物。サーカスの語源はラテン語キルクスcircusで、「輪」を意味する。
 サーカスの起源を古代ローマの円形競技場キルクス・マクシムスCircus Maximusに置くことがあるが、ことばとしてのつながりはあっても、近代サーカスとは区別したほうがよい。このキルクスは古代ギリシアの競馬場に原型をもち、イタリア半島の先住民族エトルリア人がローマに伝えたとされ、ローマ帝国時代、ヨーロッパ各地に建設されて、競馬、戦車の競走、格闘技、狩猟競技などのスポーツをはじめ、見せ物も上演した楕円(だえん)形の野外大競技場(劇場)であった。今日の娯楽形態としてのサーカスはかならずしもその歴史的延長線上にあるわけではない。近代サーカスは、競馬ではなく曲馬を主要な演目として発展しつつ、そこに新しいショー形式が取り入れられ、興行として成長してきたものである。したがってここでは、有名なイギリスのアストリーの曲馬興行を起点として、近代サーカスの歴史をみることにする。
[田之倉稔・西田敬一]

サーカスの歴史

ヨーロッパ

イギリスのフィリップ・アストリーPhilip Astley(1742―1814)は陸軍の調馬下士官であったが、数頭の馬を購入して退役し、ロンドンのハーフペニー・ハッチという空き地で1768年に曲馬のショーを行った。これが人気をよんだため、彼はウェストミンスター橋の近くに仮設の曲馬場をつくったが、曲馬を演ずるスペースは円形に設計されてサーカス独特のリングの原型となった。1770年こうして近代サーカスは誕生した。この曲馬場にはやがて屋根がつき、さらに本格的な劇場建築の体裁を整え、アストリー・アンフィシアターAmphitheatreと名づけられた。そしてコミカルな曲馬をはじめさまざまな曲芸や軽業(かるわざ)が導入され、欧米のサーカスには不可欠の道化(クラウン)登場の下地もでき、民衆芸能を統合した近代的形態がつくられていった。イギリスでは、ついでアストリー一座の曲馬師チャールズ・ヒューズCharles Hughesが独立して一座を創立、1782年にロイヤル・サーカスと銘打ったが、ここで初めてサーカスということばが使われている。ヒューズ一座はやがてロシアにも進出、またその弟子のJ・B・リケッツはアメリカに、フランク・ブラウンは南アメリカにサーカスを紹介した。こうして世界各地に新しい形式のショーが広まる一方、アストリー一座からはアンドリュー・ダクローという曲馬曲芸師が現れ、1825年アンフィシアターを経営して一世を風靡(ふうび)した。また19世紀後半から活動を始めたサンガー一座は規模も大きく、名声もあがり、以後長い間イギリスのサーカス界に君臨した。
 フランスでの本格的なサーカス(シルクcirque)の公演は1776年のアストリー一座による巡業が最初であるが、83年には同座によってパリにイギリス・スタイルのアンフィシアターが建設され、これにイタリアの曲馬師アントニオ・フランコーニAntonio Franconi(1738―1836)が加わって大躍進を遂げる。1807年、彼は2人の息子とともにパリにシルク・オランピークを開いた。41年には建築家イトフ設計のシルク・デ・シャンゼリゼが開場、52年にはイトフのもう一つのシルク・ナポレオンも建設された。また、19世紀後半にはイポドロームという巨大な野外劇場もつくられ、フランスにおけるサーカスは民衆の娯楽を代表するものとなった。
 ドイツに一大サーカス王国を築いたのは、まず1847年ごろにベルリンで頭角を現したE・J・レンツ一座であり、48年にハンブルクで動物ショーを始めたハーゲンベック・サーカス、93年にベルリンに登場したシューマン・サーカスは、ともにヨーロッパ随一の一座へと成長していった。
 このようにサーカスはイギリスからフランスを経て、たちまちヨーロッパ各国へと広がっていくが、イタリアも曲芸師や道化師を供給する国として見逃せない。当時でこそイタリアはキアリーニ、ザバーダ、ゾッペなど小規模の一座を擁するにすぎなかったが、20世紀になるとオルフェオとダーリックス・トニーの二大サーカスが市場を席捲(せっけん)するまでになる。スペインもサーカスに関しては後進国であるが、高等馬術の領域で歴史的な貢献をしている。
 ロシアではエカチェリーナ2世(在位1762~96)の時代にイギリスのヒューズ一座が来演しているが、1845年にはイタリア人のアレッサンドロ・グエッラが一座を組んでペテルブルグで興行した。これにポール・キュザンの率いるパリ・サーカスが加わって、ロシアのサーカス団の創設を用意する。ニキチヌ三兄弟のサーカス団がその最初で、やがて彼らはロシアの各都市に常設の劇場をつくっていった。十月革命(1917)後、レーニンの政策によって、サラモンスキー、ニキチヌなどの国立サーカス団が発足、1927年には国立のサーカス学校も開設された。
[田之倉稔・西田敬一]

アメリカ

アメリカのサーカスの始祖はアストリー一座のJ・B・リケッツで、1793年にフィラデルフィアにサーカス場をつくったが、以来サーカス興行は盛んで、ヨーロッパをしのぐ速さで発展を遂げ、P・T・バーナムPhineas Taylor Barnum(1810―1891)が登場するに及んで頂点に達する。彼は巨大な動物や異形の人間を見せる見せ物の興行からスタートして、1871年にサーカス団を創設、さらにJ・A・ベイリーのサーカス団を合併し、1876年にはバーナム・アンド・ベイリーの「地上最大のショー」が生まれた。巡業用テントは巨大化して1万人を収容、三つのリングを備えるに至った。また1882年にはリングリング・サーカスが現れ、巨大な興行資本に支えられたアメリカのサーカスは19世紀末の大衆娯楽の世界を支配した。
[田之倉稔・西田敬一]

中国・朝鮮

中国の曲芸の歴史は古く、上古時代の蚩尤戯(しゆうぎ)から始まるといわれる。これが6世紀ごろまでに百戯(ひゃくぎ)とよばれるようになり、隋(ずい)代に散楽(さんがく)となって奈良時代の日本に伝来してくるが、その間に中国では西域(せいいき)から各種の百戯、散楽や幻術が伝わり、しだいに曲芸、見せ物としての形をなしていった。中国のサーカスの基底にはこれら歴史的な曲芸の伝統があって、人間の技芸の鍛練を中心としたものが多く、動物はほとんど使わなかったが、近年動物の調教にも力を入れている。現在の中国ではサーカスのことを雑技(ツァーチー)とよび、各都市ごとに団が結成され、その数は約30に上る。
 韓国のサーカスは新しく、伝統的な雑芸集団である男寺党(ナムサダン)などとの交流はない。その母体となったのは、おもに第二次世界大戦前に朝鮮や中国へ渡った日本のサーカスで、現在六つのサーカス団が活躍している。
[田之倉稔・西田敬一]

日本

日本における近代サーカスの始まりは、各種見せ物が人気を博していた江戸時代末期の1864年(元治1)横浜の居留地内で興行されたリズレー一座の「中天竺(ちゅうてんじく)舶来軽業」を契機にして、その後次々に来日した外国サーカス団による影響に求められよう。これによって、それまで軽業、足芸、曲馬など芸種別に独立していた一座がまとまり始め、明治初期には近代サーカスの素地が形づくられていった。来日したサーカス団のなかでとくに強い影響を与えたのは、1886年(明治19)と89年に来日した「チャリネ大曲馬団」であった。チャリネとは、イタリア人キアリーニChiariniに由来するのであろうが、これが一時期の日本ではサーカス風見せ物の代名詞ともなり、明治20、30年代にはチャリネを名のる一座も生まれた。その代表的なものに、1899年に発足した山本精太郎の「日本のチャリネ一座」がある。
 こうして外国の影響下にサーカス的な興行形態が整えられていくなかで、従来の日本の伝統的な見せ物の一部は衰退し、あるものは形を変えながら近代サーカスへと引き継がれていく。衰退したものの代表に日本曲馬(馬芝居)があげられる。これは曲乗りよりも歌舞伎(かぶき)の趣向を加えた見せ物だっただけに、スピードやスリルが主軸であるサーカス興行にマッチしなかったためと考えられる。
 わが国の近代サーカスに黄金時代を築く幕開きとなったのは、1933年(昭和8)万国婦人子供博覧会を記念して来日したドイツのハーゲンベック・サーカス団である。そのスケールの大きさに加え、特等4円という当時としては破格の入場料に人々は仰天し、サーカスに対する認識を大きく書き換えることとなった。サーカスの哀愁を代表する『美しき天然』とともに有名な『サーカスの唄(うた)』は、このハーゲンベック来日記念歓迎レコード『来る来るサーカス』のB面に収められた歌である。
 これを機にチャリネ、軽業団、曲馬団を名のっていた一座の多くがサーカス団と名前をかえ、その数30以上といわれた日本近代サーカスの黄金期を迎えるが、第二次世界大戦時に次々と解散に追い込まれた。しかし、サーカスは戦後いち早くテントもないままの青空の下での興行などによって復活し、ふたたび活況を呈した。現在の日本のサーカス団は木下、キグレ、矢野、カキヌマ、ホリデイン、国際の6団体で、いずれも常設小屋をもたず、テント興行を続けている。
[田之倉稔・西田敬一]

現代のサーカス

ドイツのハーゲンベックや、バーナム・アンド・ベイリーを吸収したアメリカのリングリングなどの巨大なサーカス団も、20世紀に入ってミュージック・ホールのショーや視覚的な演劇が発達するにつれて、民衆娯楽の中心的地位を失っていく。しかしその一方で、サーカスは文学者、画家、演劇人の関心を集め、しばしば作品化されるようになった。とくにフランスのフェルディナンド・サーカスやメドラー・サーカスは、多くの文学者や画家に愛好された。
 しかしサーカスの衰微は続き、第二次世界大戦中には多くのサーカス団が姿を消し、戦後は映画やテレビなど娯楽の多様化によってサーカスはいよいよ衰退し、往時の活況を取り戻すことはできなかった。このサーカスを再評価し、新たな民衆の娯楽として復活させようとする試みが、1960年代から始まり、現在ではサーカス団に財政的援助を与える国も多くなってきている。とくに、かつてのソ連をはじめとする社会主義諸国では、サーカスは国家によって育成保護され、西側諸国をしのぐ技術と組織を誇った。一方、西側諸国では、サーカス団が国際的編成になってきているのが特色の一つで、1980年(昭和55)に来日したモンテ・カルロ国際サーカスフェスティバルのように、興行師が世界各国から人材を集めて大規模の公演を行ったのもその一例である。
 日本の現代サーカスも、娯楽の多様化、興行地の確保の困難、一興行に相当の経費がかかることなど、世界各国と同じ困難に直面している。とくに1948年(昭和23)に制定された児童福祉法、労働基準法などによって、年少者の曲芸が禁止され、その制限が今日まで続いているために、芸の継承、後継者の育成に大きな問題を残している。なお1979年に「サーカス館実現準備委員会」(1984年に「サーカス文化の会」と改称)が設立され、季刊サーカス新聞『曲馬と曲芸』を発行していたが、会は2004年(平成16)に解散している。
[田之倉稔・西田敬一]

サーカスの演目

道具などを使っての人間の技芸を中心にしたものと、動物の芸、それに道化の芸に大きく分けられよう。
 なんといってもサーカスの花形は空中ブランコで、日本では「撞木(しゅもく)もの」とよばれる。大一丁(おおいっちょう)ブランコ、小一丁(こいっちょう)ブランコ、二丁ブランコなどブランコ上での芸もあるが、もっとも人気があるのは「空中飛行」で、中台とよばれる受け手を中心に、飛び手が回転・ひねりなどを加えた飛行をみせる。
 ついで、「綱渡り」や「針金渡り」など、「カジもの」とよばれるバランスをとる芸がある。「衣桁(いこう)渡り(青竹渡り)」もその一つで、両端を吊(つ)った竹を前後に揺すって渡りながらさまざまな手事(てごと)をする。勾配(こうばい)をつけた綱での「坂綱」や十字に張った綱での「四つ綱」などもあったが、現在の日本のサーカスではみられない。「足芸」には、重いものを支える「ふんばりもの」、梯子(はしご)などを使ってバランスをとる「突っ張りもの」、襖(ふすま)や樽(たる)、傘のような軽いものを手以上に器用に操る「小足もの」などがある。上乗りとよばれる芸人を、2人の足芸の芸人が毬(まり)のように蹴(け)り、受け止める「人曲(にんぎょく)」という芸は、残酷ということで現在の日本のサーカスからは消えているが、来日するボリショイ・サーカスはよくこの芸をもってくる。「肩芸」は、肩で竹や梯子を支え、その上で上乗り芸人がさまざまな芸を演じるもので、「一本竹」「はね出し」「旗わく」「くだけ梯子」などがある。
 これらの人間の演ずる芸に、曲馬をはじめ、ライオン、トラ、ゾウ、クマ、チンパンジー、イヌなどの動物芸が加わり、道化のクラウンが活躍して、サーカスの天幕の世界はできあがる。日本では道化はすべてピエロとよばれているが、本来、サーカスの道化はクラウンとよばれるべきである。
 現在の日本のサーカスでは、このほかに、オートバイに乗って鉄製の球の中を回るアイアンホール、針金上での空中自転車、一輪車、七丁椅子(いす)、回転梯子(はしご)、吊りロープなどがある。日本独自の芸のトップは足芸、肩芸と思われるが、中国ではアクロバット、ロシアではさまざまな機械類を用いるもの、アメリカ、メキシコでは空中ブランコ、動物の調教はロシア、ドイツなどと、それぞれ国によって特徴がある。
[田之倉稔・西田敬一]