日本大百科全書(ニッポニカ)

揚州
ようしゅう/ヤンチョウ

中国、江蘇(こうそ)省中南部、揚子江(ようすこう)と高郵湖(こうゆうこ)の間にある地級市。大運河と通揚(つうよう)運河の分岐点にあたる。1949年に江都(こうと)県の市街区を分離して市が設置された。江都など3市轄区と1県を管轄し、2県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。常住人口445万9760(2010)。市区の北部には蜀岡(しょくこう)とよばれる比高10メートル前後の第三紀に形成された丘陵が続く。南部は揚子江の沖積平原で、泥砂が堆積し低湿である。
 かつては農産物の集散地で、また漆器などの伝統工芸と食肉加工などが行われていた。中華人民共和国成立後は各種の工業が発達し、1958年に新たに開通した大運河(京杭(けいこう)大運河)の両岸には化学肥料、機械、半導体などの工場が操業している。市の北部、旧大運河(古運河)の沿岸には火力発電所と製鉄所が立地し、南部の宝塔湾(ほうとうわん)地区は綿紡績、電動工具などの工業区である。また、ポリエステル繊維生産が発達しており、中国の代表的な繊維産業の一つに数えられる。農業では、蓮根(れんこん)の生産が盛ん。伝統工芸品では漆器、玉器、造花、刺しゅう、切り紙細工が有名。
 市の西の痩西湖(そうせいこ)と北の平山堂一帯は風光明媚(めいび)な遊覧地区である。1973年に大明寺に鑑真(がんじん)和尚記念堂が建設された。
[林 和生・編集部]

歴史

春秋時代に呉が広陵邑(こうりょうゆう)を建て、楚(そ)がこれを継ぎ、秦(しん)、漢では広陵県、東晋(とうしん)以後は南(なんえん)州が置かれた。隋(ずい)代に揚州と改名、交通の要地として成長、離宮もあった。唐もこれを受け、東アジアやアラブとの海上交通が揚州を拠点とし、また北送する江南の米、塩などの集結地となって栄え、「揚一益二」つまり四川(しせん)(益州(えきしゅう))の成都(せいと)と並ぶ華中の大都会となった。日本に布教した律宗の僧鑑真は近くの大明寺に居住していた。
 唐末の兵乱で荒廃したが、節度使楊行密(ようこうみつ)(852―905)が揚州を都に呉国を建てた。このころから揚州は江蘇沿海の淮南(わいなん)塩の集散地、また北送される江南の米、絹などの積換え地となり、北宋(ほくそう)では転般倉、南宋では総領所が置かれた。明(みん)・清(しん)では北辺の軍隊への補給に淮南塩からの利益が利用され、山西(さんせい)、新安(しんあん)の大商人が揚州に集まってふたたび繁栄し、学者、文人による文化的サロンもできた。『揚州画舫録(がぼうろく)』にその繁栄ぶりが詳しく記録されている。
[斯波義信・編集部]

世界遺産の登録

2014年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「中国大運河」の構成資産として、揚州運河が世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]