江戸後期の浮世絵師。歌川豊春の高弟。芝神明前の人形師、倉橋五郎兵衛の子として生まれ、幼名を熊吉(くまきち)、のち熊右衛門(くまえもん)といった。幼時から絵を好み豊春に入門したが、その時期についてはつまびらかではない。初作とされるのは1786年(天明6)に刊行された万象亭(まんぞうてい)作の黄表紙『無束話親玉(つがもないはなしのおやだま)』の挿絵といわれているが、刊行年に問題があり、翌々年刊行の『苦者楽元〆(くはらくのもとじめ)』が確認できるもっとも古い作品とされる。このように画壇へのデビューを1787、1788年ごろとみるのが最近での一致した見解である。デビュー後、何年かは画名のあがらない時期があり、黄表紙などの挿絵を描いていたが、20代なかばごろより神田明神前の大店、和泉屋(いずみや)市兵衛から作品を発表するようになって、しだいに知られるようになった。とくに、1794年(寛政6)から発表し始めた役者絵のシリーズ『役者舞台之姿絵(やくしゃぶたいのすがたえ)』により一躍人気絵師として認められるようになる。その画風は勝川春好(しゅんこう)や春英(しゅんえい)などに影響されながらも、26歳という若さからか独特な新鮮さをもっており、豊国画の確立をみせている点からも記念すべき作といえる。その後、享和(きょうわ)年間(1801~1804)ごろまでは芸術的絶頂期とみられ、役者絵はもとより、美人画にも多くの優品をみいだすことができる。文化(ぶんか)年間(1804~1818)以降は、殺到する注文に応じ、乱作に陥ったが、人気は依然衰えず、門人の数も40名以上を数え、歌川派中最大の勢力を形成した。多くの門人のなかからは国芳(くによし)、豊重(とよしげ)(2世豊国)、国貞(くにさだ)(3世)、国政(くにまさ)(4世)などの著名絵師が輩出して、豊国一門は幕末の浮世絵界に指導的な役割を果たした。文政(ぶんせい)8年1月7日没。
代表作とされるものには、版本では1799年刊行の『俳優楽室通(やくしゃがくやつう)』、1804年(享和4)刊行の『役者相貌鏡(あわせかがみ)』などがあり、錦絵(にしきえ)では美人画に『風流七小町略姿絵(ふうりゅうななこまちやつしすがたえ)』『風流三幅対』『今様美人合』などのシリーズが知られ、役者絵は『役者舞台之姿絵』のほか大首絵(おおくびえ)に優品が多い。
[永田生慈]