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江戸末期から明治の浮世絵師。江戸に生まれ、本名は吉岡米次郎。別号には玉桜楼(ぎょくおうろう)、一魁斎(いっかいさい)、魁斎、咀華亭、子英、たいそ、大蘇(たいそ)などを用いた。1850年(嘉永3)12歳のとき歌川国芳(くによし)の門に入り、3年後に早くも処女作を発表。1866年(慶応2)に兄弟子の落合芳幾(よしいく)とともに描いた『英名二十八衆句』の残酷絵シリーズで一躍人気絵師となった。多様な画風をこなしたが、幕末から明治初年にかけては歴史画に傾注し、維新後は時事報道の分野に新生面をみいだし、『郵便報知新聞』『絵入自由新聞』『やまと新聞』などの新聞挿絵に活躍した。またこのころ100枚に及ぶ『月百姿(つきひゃくし)』をはじめ『風俗三十二相』などの美人画の大作も発表している。水野年方(としかた)など多くの門人にも恵まれた。1872年(明治5)ころに精神に障害をきたし、その後、快癒(かいゆ)することなく没した。
[永田生慈]