江戸中期の浮世絵師。鳥居家4代目当主で、天明(てんめい)期(1781~1789)を代表する美人画家。江戸の本材木町一丁目の書肆(しょし)白子屋市兵衛の子で、関(一説に関口)氏、俗称新助、のち市兵衛。鳥居家3代目の初代清満(きよみつ)門人。1767年(明和4)ごろから鳥居派伝統の筆法を用いた細判紅摺絵(べにずりえ)の役者絵を発表。1775年(安永4)ごろからは美人風俗画の揃物(そろいもの)や、黄表紙(きびょうし)など版本の挿絵も精力的に描き出し、初め鈴木春信(はるのぶ)、のち礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)や北尾重政(しげまさ)の画風を吸収しながら、しだいに写生に基づく独自の様式を樹立、1781年ごろには湖竜斎にかわり美人画の第一人者となった。背高くすらりとのびやかな八等身の、健康的で生命力にあふれているのが清長美人画の特徴で、1782年(天明2)から1784年ごろに制作した『当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)』『風俗東之錦(あずまのにしき)』『美南見(みなみ)十二候』は、清長の三大揃物として高く評価されている。そしてこのころから制作されるようになった大判二枚続、三枚続という大画面にも意を注ぎ、江戸の実景を背景にして、女性群像を巧みに表現した秀作が多い。また一方では、舞台図に新様を開拓、複数の役者を大道具、小道具とともに描出して、緊迫感のある構成美を生み出した。とくに所作事(しょさごと)の場面を太夫(たゆう)と三味線弾きともども描写した出語図(でがたりず)には、他の追随を許さぬものがある。
師の清満の死後、1787年ごろに懇請されて鳥居家4代目を継承してからは、鳥居家の家業である看板絵・番付絵に専念、一枚絵の制作から徐々に離れていった。また遺品は多くないが、『柳下納涼(りゅうかのうりょう)図』(ボストン美術館)などの肉筆画や絵本・艶本(えんぽん)にも優れた手腕を発揮している。勝川春潮(かつかわしゅんちょう)、窪俊満(くぼしゅんまん)など天明期の多くの絵師が清長様式を踏襲、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)ら次代の絵師に大きな影響を及ぼすなど、浮世絵美人画の流れのなかで歌麿とともに一つの頂点にたつ絵師として位置づけられている。
[浅野秀剛]