2人が押し合い、突き合い、組み合って、力技(ちからわざ)によって行う個人競技の一種。スポーツ競技としては、俵で円形に築いた土俵(相撲場)の中で、裸に回し(褌(みつ))を締め、素手で、ルールに従って、2人が倒し合いや出し合いをして勝敗を争う競技。農耕民族である日本人が、豊作に感謝し、五穀豊穰(ほうじょう)を祈願する神事から生まれたものといわれる。日本を代表する格闘技でプロの大相撲とアマチュア相撲の二つがある。ほかに古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲、祭礼に行われる奉納相撲、子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)などがある。
[池田雅雄・向坂松彦]
相撲に類するスポーツは、世界各国で大昔から行われていた。たとえば、5000年前の古代バビロニアのカファジェの遺跡からは、取り組んだ姿の人形の青銅置物が発見され、また2500年前エジプトのナイル川横穴にある壁画には、相撲かレスリングのような絵画がたくさん描かれている。さらに、ほぼ同時代のインドでは、悉達多(える。この経本を409年にインド人が漢訳したとき、梵語(ぼんご)のゴダバラを「相撲」という新語で表現し、これが6世紀中ごろ日本に伝来すると、以前からあった「争い」「抵抗」などを意味する大和(やまと)ことばの動詞である「すまふ」に当てはめ、やがて「すまひ」の名詞に変化し、のちに音便化していまの「すもう」になった。
日本でも現在の相撲に似た力技が古くから行われていたことは、古墳時代の遺跡から出土した「須恵器」にかたどらられた相撲人形(島根県浜田市出土)によっても知ることができる。神話・伝説としては、神代の「国譲り」の争いが、建御雷神(たけみかづちのかみ)(武甕槌神)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力比べによって解決したことが『古事記』にあり、『日本書紀』には、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べの伝説が記されているが、これは垂仁(すいにん)朝のころとあるから、考古学上ではほぼ4世紀前期の古墳時代に相当する。
[池田雅雄・向坂松彦]
民俗学上すでに弥生(やよい)時代の稲作文化をもつ農民の間に、五穀豊穰(ほうじょう)の吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされているが、このように相撲は、ただ単に力比べのスポーツや娯楽ではなく、本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、642年(皇極天皇1)古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、その翌年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。農村における秋祭の奉納相撲も、その名残(なごり)の伝承である。
[池田雅雄・向坂松彦]
飛鳥時代に続き奈良時代の宮廷でも、相撲が行われたことは、『続日本紀』にみられる。すなわち、元正天皇の養老3年(719)の条に、初めて抜出司(ぬきでのつかさ)という、相撲人(すまいびと)(力士)を選抜する官職が設置されたとある。
ついで神亀(じんき)・天平(てんぴょう)年間(724~749)に、聖武天皇は諸国の郡司に、相撲人を差し出すように勅令を出し、この命令に違反するものには厳罰を与えた。そして宿禰、蹶速の相撲伝説が7月7日であるところから、七夕(たなばた)祭の余興に相撲を観覧することが恒例となった。天皇が相撲をご覧(天覧)になった記述は、734年(天平6)7月7日が初めであるが(続日本紀)、それ以前から催す風習が伝承していたことは、相撲に関するいろいろの記述から推察される。
奈良末期から催された余興相撲が端緒になって、平安時代に入ると天覧相撲はますます盛大になり、弘仁(こうにん)年間(810~824)には、宮中儀式の相撲節会(すまいのせちえ)という独立した催しに発展する。これは、中国の唐朝の儀式をまねたなかに、日本の農業生産に伴う相撲が取り上げられたものであるが、905年(延喜5)に至り、相撲節会は宮中の重要な儀式である三度節(さんどせち)(射礼(じゃらい)・騎射(うまゆみ)・相撲)の一つに定められて、その催しは、豪華絢爛(けんらん)たる王朝絵巻を繰り広げて、その壮麗さは『江家次第(ごうけしだい)』などに詳しい。こうして、太古のころから各地の農民の間で年中行事化していた神占いの神事相撲が、宮廷において国々から相撲人を召し集め、相撲をとらせる相撲節会という大規模な国家的年占いに発展した。
相撲節会は、天皇が宮廷において相撲をご覧になり、相撲に付随した舞楽を演技させ、貴族と上級臣下と宴を開く相撲大会の儀式で、「召合(めしあわせ)」といった。現在の相撲と違って、土俵と行司役がなく、すべて官吏によって運営された。相撲人は左・右の近衛府(このえふ)から1人ずつ出場し、15~18番の取組があり、勝数を合計して多いほうの左近衛(さこんえ)か右近衛(うこんえ)を勝ちとした。召合は1日だけの催しではあったが、大会に関係する者はおよそ三百数十人、美々しく行列を練り、紫宸殿(ししんでん)た同士、また疑わしい勝負の者を取り直しさせた相撲)、内取(うちとり)(召合前の稽古(けいこ)相撲)などがあり、また、天皇が幼少のときに催されて、子供同士が対戦する童(わらべ)相撲などの天覧相撲があった。
相撲節会は規模の盛衰、ときには天災地変のため中止することもあったが、約300年の間、三度節の一つとして毎年のように催されていた。王朝が衰微した高倉(たかくら)天皇の1174年(承安4)を最後に廃絶してしまったが、この長い年月にわたる王朝相撲の繁栄は、日本文化史上に大きな意味をもち、またこの間に、実技においても今日の相撲とほぼ同一の洗練された内容が形成された。ただし、当時は土俵がなかったから、現在のような、外へ相手を出す技はなかった。
[池田雅雄・向坂松彦]
源氏・平氏の争覇以後、政権は武士階級に移り、相撲は戦場における実戦用の組み打ちに必要な武術として、平時はもとより陣中においても鍛練された。曽我(そが)兄弟の仇討(あだうち)の原因となった、河津(かわづ)三郎と俣野(またの)五郎の相撲は、源頼朝(よりとも)の前で取り組んだ余興相撲であったが、これは相撲節会の儀式が絶えてからわずか2年後の1176年(安元2)のことである。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)において、しばしば神事を兼ねた上覧相撲を催したことが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に詳しく記されている。ところで、1257年(正嘉1)の将軍家(宗尊(むねたか)親王)の上覧相撲を最後に、これまで支配階級が維持してきた儀式中心の相撲は、鎌倉末期から室町時代を通じて約300年間行われなかった。
室町後期になると、都会では土地相撲の集団が半職業的におこった。まず京都・伏見(ふしみ)に発生し、戦乱の収まった地方を巡業して歩くようになるが、これは後世における勧進相撲の初源的な形態といえる。同時に、民衆の相撲熱も盛んで、辻(つじ)相撲、草相撲などが行われ、これを物語るように当時の能狂言には「大名と相撲」を主題にしたものが多く、現在にも伝わっている。
戦国時代には、相撲は武術として鍛練されるようになる。なかでも織田信長は、1570年(元亀1)から12年間、毎年多数の力士たちを集め、安土(あづち)の城などで上覧相撲を開いたことが『信長公記(しんちょうこうき)』に詳しい。この上覧相撲は相撲史上、画期的な催しであった。このとき勝敗を裁決し、相撲大会を進行させる役目の行司(行事とも書いた)が初めて出現したのである。
[池田雅雄・向坂松彦]
江戸時代になって江戸幕府が開かれると、京都、大坂で失業した浪人者を交えた職業力士の相撲集団が、神社の祭礼の際村人に雇われて、土地相撲を交え勧進相撲を興行することもあった。勧進とは本来、神社仏閣の建立・修繕、橋の架け替えなどの資金に寄付を勧めることであり、職業相撲は神社の境内で行われた。のちには勧進本来の意味を離れて生活のための営利的な興行をするようになり、江戸初期には、このような相撲集団が各地に続々とできてきた。一方、都会の盛り場に投げ銭目当ての辻相撲が大流行した。まだ職業相撲としての制度や組織がなかったため、興行を主催する浪人者の勧進元の力士(元方(もとかた))と、寄せ集めた侠客(きょうかく)を交えた側の力士(寄方(よりかた))の間に、つねに喧嘩(けんか)騒動が付き物であった。そこで幕府は1648年(慶安1)から江戸、京都、大坂の三都に、勧進相撲と辻相撲の禁止令をしばしば出したから、約30年間は停止状態になったが、民衆の相撲熱は衰えず、禁止令が緩むと辻相撲がまた盛んになってきた。
職業相撲で生活していた力士集団は、禁止令の打開策として、力士たちを監督・取り締まる有力者を選び、興行の責任者として奉行所(ぶぎょうしょ)に勧進相撲許可を申請する一方、騒動の原因となる相撲作法の乱れを正して勝負のきまり手(四十八手)、禁じ手を成文化すると同時に、相撲場に初めて境界線を設けることになった。これまでは人形屋(ひとかたや)(人方屋)といって、取り組む場所を力士たちが円形の人垣で囲み、その中に倒すか外側に押し出せば勝ちとした。そのため、けが人が生じて争乱を引き起こす原因ともなったので、人垣のかわりに土を詰めた五斗俵を地上に置き、初めは四角、のちには円形に並べて、これを相撲場の境界線とすることを考案した。このようすは寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)年間(1661~1681)の相撲絵画にみられる。
[池田雅雄・向坂松彦]
江戸時代の芸能が、すべて京坂で熟して江戸へ下ってきたように、相撲も江戸後期に入る宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)年間(1751~1772)になって、その中心勢力はしだいに幕府のある江戸に移り、大名抱え力士も師匠の相撲部屋に所属して訓練されていった。この部屋を統率したのが江戸相撲会所で、制度組織を整備し、年寄(親方)たちによる運営を行い、名実ともに全国の組織を中央化した天明(てんめい)・寛政(かんせい)年間(1781~1801)にその全盛期を迎える。
この時期は田沼時代を経て松平定信(さだのぶ)の「寛政の改革」が行われ、それに伴う幕府の尚武気風の奨励が、いっそう民衆の相撲熱を高めた。1791年(寛政3)には江戸城で将軍家斉(いえなり)の上覧相撲が初めて催され、谷風、小野川、雷電らの力士が活躍して相撲史上空前の繁栄をみるようになる。江戸相撲は年2回、1月から4月までの春場所、10月か11月の冬場所が市中の神社境内で催され、その間は4、5組に分かれて巡業し、夏には京坂で合併大相撲を興行した。大坂、京都にもそれぞれ相撲会所があり、毎年夏ごろに江戸相撲を迎えて番付を編成し、京坂力士は江戸幕内力士の下位に名を連ね、実力のある者は江戸相撲に加入して名をあげることを競った。このように江戸中期から発達した勧進相撲は、江戸後期の100年間に職業相撲として完備した組織のもとに隆盛を続けた。今日の大相撲は、この江戸勧進相撲の継承であるということができる。
[池田雅雄・向坂松彦]
明治維新による幕藩体制の崩壊により、力士は大名の保護から離れ、相撲界は急速に進む欧化主義の圧迫を受けて沈滞した。明治政府は「相撲は野蛮な裸踊り」ときめつけ、禁止令が出されそうな状況になったが、西郷隆盛(たかもり)、黒田清隆(きよたか)の援助で断髪令の免除、禁止されていた女性の見物が許されるなどがあって、ようやく存在を保った。1873年(明治6)高砂浦五郎(たかさごうらごろう)が相撲会所に改革を迫ったのが契機となって、1886年組織が改正され、3年後、相撲会所は東京大角力(おおずもう)協会と名を改めて発足した。一方、明治天皇の天覧相撲がしばしば催され、長い沈滞期を抜け出して、しだいに回復の兆しがみえ始めた。
ついで日清(にっしん)・日露の戦勝とともに、相撲は好況の波にのり、1903年(明治36)常陸山(ひたちやま)、梅ヶ谷が出て、明治末期には寛政の盛時を思わせる「梅・常陸時代」を現出した。1909年相撲常設館として東京・両国に国技館が開設され、これを機に諸制度が改革された。東西優勝制度に伴う優勝旗、個人優勝掲額も新設され、翌年には行司の裃(かみしも)姿は烏帽子直垂(えぼしひたたれ)に改められた。
大正時代に入ると、古風な四つ相撲は近代的なスピード相撲に変わり、大錦(おおにしき)、栃木山(とちぎやま)、常ノ花らの頭脳的、合理的な押し相撲、技能相撲に技が進歩した。一方、1923年(大正12)9月の関東大震災のため相撲協会は負債に苦しみ、世間の不景気は力士らの生活を脅かした。1925年に摂政宮(せっしょうのみや)(昭和天皇)の御下賜金で優勝賜杯(天皇杯)がつくられ、個人優勝制度が確立したが、これを機会に、長年の懸案であった大阪大角力協会との合併案がまとまり、同年12月には財団法人大日本相撲協会が設立された。大阪相撲が東京に吸収された正式の合併興行が1927年(昭和2)1月に開かれて、一時衰微した相撲も復興の兆しがみえたやさき、1932年、力士待遇改善をめぐって春秋園事件(天竜事件)が起こった。脱退した力士たちは大阪で関西角力協会を旗揚げしたが、1937年同会は解散して事件は終わった。このころから不世出の英雄といわれる双葉山(ふたばやま)(先代時津風(ときつかぜ))が出現して、破竹の勢いで勝ち続け、たちまち大関、横綱と昇進、1939年春場所4日目安芸ノ海(あきのうみ)に敗れるまで69連勝という大記録を樹立した。当時、相撲界は軍国調の時流にのって黄金時代を謳歌(おうか)し、興行日数も15日間と延長された。
[池田雅雄・向坂松彦]
第二次世界大戦後は、急速に盛んになった野球の人気に押されて、相撲界の立ち直りは遅かった。国技館は進駐軍に接収され、興行場所は転々としていたが、1950年(昭和25)1月から東京・蔵前(くらまえ)を本拠にし、1954年蔵前国技館が完成。その前年5月に開始されたテレビの実況放送が、復活した相撲熱に拍車をかけた。そして、1958年には、これまでの東京、大阪、九州に加えて名古屋場所が本場所とされ、年間6場所を興行する好況時代に入った。この間、1952年の四本柱の撤廃、1957年の力士の月給制など、観客サービスおよび相撲界の改革も実行された。1952年から始まる栃錦(とちにしき)・若乃花のいわゆる「栃若時代」に続いて、1961年の柏戸(かしわど)・大鵬(たいほう)の「柏鵬時代(はくほうじだい)」をピークに、力士のサラリーマン化はしだいに相撲内容の低下を招く傾向をみせたが、1973年、学生相撲から角界入りした輪島が横綱に昇進、大関貴ノ花(たかのはな)とともに人気を集めた。1974年武蔵川(むさしがわ)理事長の後を受けて名横綱栃錦の春日野(かすがの)親方が理事長に就任して、土俵刷新に大きな期待が寄せられた。同年7月の名古屋場所後、北の湖(きたのうみ)が横綱に栄進した。
1970年代後半の土俵は、北の湖と輪島の「輪湖時代」、1980年代は千代の富士、隆の里(たかのさと)の対立に移ったが、その間に異色のハワイ出身の巨人小錦(こにしき)が出現して土俵を沸かし、北の湖、若乃花(2代)らの「花の28組(にっぱちぐみ)」(昭和28年生まれ)にかわり、小錦、北尾(きたお)、保志(ほし)らの「38(さんぱち)組」が進出してきた。大関には北天佑(ほくてんゆう)、若嶋津(わかしまづ)、朝潮(5代)、大乃国、北尾が昇進し、北の湖の1985年1月限り引退の穴を埋めるべき横綱取り争いが熾烈(しれつ)であったが、1986年名古屋場所の結果、北尾は横綱(双羽黒(ふたはぐろ))に、保志は大関(北勝海(ほくとうみ))に昇進した。その後、北勝海、大乃国、旭富士(あさひふじ)が横綱となっている。春日野理事長は、JR両国駅近くに新国技館を建設することを決め(1985年完成)、1986年初場所から国技館が40年ぶりに蔵前から両国に戻った。
1990年代に入ると若手の台頭が顕著となった。1991年(平成3)5月、2代目貴乃花(たかのはな)(当時貴花田)が横綱千代の富士を破って引退に追い込み、旭富士、北勝海も千代の富士の後を追うように引退、横綱不在時代が現出した。1993年、ハワイ生まれで、アメリカ国籍の曙(あけぼの)が、史上初めて外国人として横綱に昇進した(その後日本に帰化)。曙と同期の2代目貴乃花も1994年横綱に昇進、曙貴時代を迎えた。また貴乃花の兄、3代目若乃花が1998年横綱に昇進、兄弟横綱の誕生として話題となった。1999年ハワイ出身の武蔵丸(むさしまる)が横綱昇進。2000年若乃花、2001年曙、2003年貴乃花、武蔵丸が引退。2003年モンゴル出身の朝青龍(あさしょうりゅう)が横綱に昇進した。
[池田雅雄・向坂松彦]
(略)
(略)
勝敗を決めるときの技を「手」といい、勝負が決まった際、勝者が攻めに用いたときの技をきまり手という。きまり手は通称「四十八手」といわれ、鎌倉時代に書かれた『源平盛衰記』にこの呼称が初めて現れるが、当時は数多い手(技)の意味で、四十八手に限られた数ではなかった。のち勧進相撲の盛んになった江戸中期に、伝承された物語にある48の数に当てはめ、「投げ手」「掛け手」「反(そ)り手」「捻(ひね)り手」の4部門に分け、それぞれに基本技の12手がつくられた。さらに、これに変化技の手を加えて、四十八手の裏表(うらおもて)と称したが、実際には100手以上あった。寛文・延宝年間に、土俵が初めてできると、それまで倒すことに重点を置いた技に、相手を土俵の外へ押し倒す手も生まれ、宝暦年間(1751~1764)には168手も編み出された。そのきまり手も各地の行司の流派によって、さまざまな名称でよばれた。現在用いられている名称は、多く宝暦から寛政(1789~1801)ごろに現れ、明治・大正時代一部に変化をみた。このように百数十手もあるきまり手を、相撲協会では1935年(昭和10)に56手、1955年(昭和30)に68手、1960年に70手に整理した。2001年(平成13)に12手を追加し、現在82手と5結果(非技)となっている。
きまり手は、四つの基本技を中心に次のように分類されている。
(1)投げ手(腰を中心にしてかける技) 上手(うわて)投げ、下手(したて)投げ、小手投げ、すくい投げ、掛け投げ、など。
(2)掛け手(相手の足に自分の足を掛けるか、相手の足をとって倒す技) 内掛け、外掛け、蹴返(けかえ)し、蹴たぐり、渡し込み、小股(こまた)すくい、足とり、つまどり、など。
(3)反り手(相手のわきの下に首を入れて、後ろに反りかえって倒す技) たすき反り、掛け反り、居反り、しゅもく(撞木)反り、など。反り技は動きの早くなった近年の相撲ではあまりみられない。
(4)捻り手(腕を中心にしてかける技) 突き落し、巻き落し、上手捻り、下手捻り、外無双、内無双、頭捻(ずぶね)り、はりま投げ、かいな捻り、合掌捻り、首捻り、網打ち、など。
以上の四十八手の4部門のほかに、土俵ができてから、外に出す技で、突き出し、押し出し、寄り切り、送り出し、吊(つ)り出し、きめ出し、打棄(うっちゃ)り、割り出し、などがある。
[池田雅雄・向坂松彦]
禁手(きんて)ともいう。相撲規則で、立合いのとき、または取組中に用いることを禁じられている行為で、禁じ手を用いた場合は反則負けと規定されている。
(1)握りこぶしでなぐること。
(2)頭髪を故意につかむこと。
(3)目またはみぞおちなどの急所を突くこと。
(4)両耳を同時に両手で張ること。
(5)前立褌(まえたてみつ)(前袋)をつかみ、または横から指を入れて引くこと。
(6)咽喉(のど)をつかむこと。
(7)胸、腹を蹴上げること。
(8)手の一指または二指を折り返すこと。
[池田雅雄・向坂松彦]
(略)
(略)