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茶臼山(日本歴史地名大系)
[現]天王寺区茶臼山町 四天王寺南西、天王寺公園のなかにある比高約八メートルほどの小丘。茶磨山(摂陽群談)・茶磑山(摂津名所図会大成)とも書く。東面して三段築成された前方後円墳とみられ、西側から南側にかけてめぐる河底かわぞこ池は周濠の遺構と推定されている。全長約二〇〇メートルで
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
一条戻橋(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
[現]上京区堀川下之町堀川の一条大路に架かる橋。古代・中世を通じて京域の境とされ、また橋占を行う場所として多くの伝承を生んだ。「権記」長徳四年(九九八)一二月二五日条に「自〓上東門〓東行、至〓万里路〓更北行、自〓戻橋路〓、出〓鴨下御社西堤下〓」とあるのが初見。
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
天竜寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある臨済宗天竜寺派の大本山。霊亀山天竜資聖禅寺と号する。本尊は釈迦如来。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐天皇が吉野行宮で崩御するや、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺であり
厳島神社(改訂新版・世界大百科事典)
広島湾南西部に浮かぶ厳島(広島県廿日市市,旧宮島町)に鎮座。市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命をまつる。旧官幣中社。祭神〈伊都岐島神〉は,811年(弘仁2)名神に列し四時幣に預かり,神階は867年(貞観9)従四位上に昇叙。《延喜式》で名神大社に列し,のち安芸国の一宮となる。平安時代末
薬師寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。西京寺、瑠璃宮薬師寺ともいう。南都七大寺の一つ。本尊は薬師三尊。680年(天武天皇9)天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して一寺の建立を発願したが、天皇が崩御したため持統天皇、文武天皇が698年(文武天皇2)藤原京に完成した。
唐招提寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良市五条町にある律宗総本山。本尊は盧舎那仏。756年(天平勝宝8)、聖武・孝謙両上皇の勅願により来朝した唐僧過海大師鑑真和上が新田部親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、戒壇を設け律宗の根本道場とした。初めは唐律招提寺、唐寺、律寺などと称され、延喜式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。
平城宮(日本大百科全書(ニッポニカ))
710年(和銅3)から784年(延暦3)の首都平城京の中枢部分をいう。元明(げんめい)~桓武(かんむ)天皇の7代にわたる宮である。平城京の北端に位置し、一辺1キロメートルの正方形の東に張り出し部分があり、面積は合計124ヘクタールを占める。大正年間より遺跡保存がはかられ、現在国の特別史跡として
三十三間堂(蓮華王院)(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市東山区三十三間堂廻り町にある蓮華王院の本堂。本尊は千手観音。蓮華王院は天台宗に属し、天台三門跡の一つである妙法院が管理する。南北に125メートルある御堂内の柱の間数が33あることに由来してこの名がある。1164年(長寛2)後白河院の勅願を受けて平清盛が建立、平家滅亡後も後白河院は多くの保護を加え
出雲大社(改訂新版・世界大百科事典)
島根県出雲市の旧大社町に鎮座。大国主神をまつる。《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。杵築大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。
鹿苑寺(金閣寺)(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市北区金閣寺町にある寺。金閣寺と称し、銀閣寺(慈照寺)とともに一般に広く知られている。北山と号し、臨済宗相国寺派に属する。本尊は聖観世音菩薩。もとこの地には西園寺家の山荘北山殿があったが、1397年(応永4)足利3代将軍義満がこれを譲り受け
伏見稲荷大社(日本歴史地名大系・改訂新版 世界大百科事典)
稲荷山の西麓に鎮座。式内社で「延喜式」神名帳の紀伊郡に「稲荷神三社 並名神、大、月次、新嘗」とみえ、旧官幣大社である。祭神は古くから種々の説があるが、現在は宇迦之御魂大神(中央・下社)、佐田彦大神(北座・中社)、大宮能売大神(南座・上社)であり
南禅寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜山大平興国南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円の法を継いだ無関普門(仏心禅師、大明国師)を招いて開山とした。
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
姫路城(日本大百科全書(ニッポニカ))
南北朝期~江戸期の城。兵庫県姫路市本町にあり、白鷺(しらさぎ/はくろ)城ともよばれる。姫路平野の中央、高さ45メートルの姫山を本丸とした平山城の典型である。城の歴史は古く、1331年(元弘1)の元弘の乱のとき、播磨守護赤松則村が陣を構えたのに始まり、1346年(正平1・貞和2)則村の子貞範が築城したと伝えられる。
弘前城(国史大辞典)
青森県弘前市下白銀町に中心部のある城。築城当初は高岡城と呼ばれた。平城。津軽平野南部の盆地状地形の中の台地北端に位置する。慶長八年(一六〇三)に大浦(津軽)為信が起工し同十六年為信の子信枚の時に一応の完成を見た。為信はもと大浦城におり元亀二年(一五七一)ごろから津軽統一への歩みを開始したが
錦帯橋(日本歴史地名大系)
横山郭の正面乗越門前より、錦川対岸の錦見乗越へ架けられた五橋の反り橋。横山小路と錦見大明小路を一直線につなぐ、城下大手の通り筋にあたる。五橋のうち三橋が支柱のない刎橋で、構造の妙と美しさで知られる。岩国橋・十露盤橋・凌雲橋・帯雲橋・五竜橋などの名でもよばれるが、錦川の名にちなむ錦帯橋が一般的である。
三奇橋(改訂新版・世界大百科事典)
日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとしてあげられてきた岩国(山口県)の錦帯橋,甲斐(山梨県)の猿橋,黒部(富山県)の愛本橋をいう。愛本橋の代りに木曾の桟あるいは祖谷(徳島県)のかずら橋を入れる説もあるが,桟はけわしい崖に沿って板をかけ渡した橋で,構造的には上述の諸橋ほどの特色はない。
本能寺(日本歴史地名大系)
[現]中京区下本能寺前町寺町通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔開創〕応永二二年(一四一五)日隆が油小路高辻と五条坊門の間(現京都市下京区)に建立、当初本応寺と号した。日隆は妙本寺(現妙顕寺)第四世日霽に師事したが
大坂城(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国期から江戸期の城。大阪市中央区大阪城にある。金城(錦城)ともいい、明治以後は大阪城と書かれる。南から北に延びた高さ20メートルほどの台地が淀川流域の低地に突き出た北端(上町台地)に位置し、大和川がその東を巡り、三面を水に囲まれた要害の地に築かれていた。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
沖ノ島祭祀遺跡(日本歴史地名大系・日本大百科全書)
[現]大島村沖之島 沖ノ島の南部に宗像大社三宮のうち沖津宮がある。沖津宮背後の谷部に山頂などから崩落してきた巨岩が多数あり、そこを中心に祭祀遺跡が形成されている。四世紀後半から九世紀代までの約四〇〇年にわたり国家的な祭祀が行われた。
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