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経国集(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安前期の漢詩文集。827年(天長4)、滋野貞主、良岑安世、菅原清公らによって編纂撰進された。書名は魏の文帝の「典論」にある、「(文章は)経国之大業而不朽」による。もともと20巻だったが、現存するのは巻1「賦」、巻10、11、13、14(以上、詩)、巻20
日本後紀(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
『続日本紀』に続く勅撰の歴史書。40巻。「六国史」の第三番目。792年(延暦11)より833年(天長10)に至る桓武、平城、嵯峨、淳和四天皇の時代42年間の記録を編年体でまとめたもの。819年(弘仁10)嵯峨天皇の指示を受け、藤原冬嗣、藤原緒嗣らが編纂を開始した。
続日本後紀(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典・国史大辞典)
『日本後紀』に続く勅撰の歴史書。20巻。「六国史」の4番目。833年(天長10)の仁明天皇の即位より850年(嘉祥3)の仁明の死去と葬儀に至る18年の歴史を記す。855年(斉衡2)文徳天皇の命により藤原良房、藤原良相、伴善男、春澄善縄、県犬養貞守の5人が編集にあたり、清和天皇の869年
菅家文草(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
菅原道真の漢詩文集。12巻。900年(昌泰3)8月、自ら編纂して醍醐天皇に献呈した。成立の事情は道真の「家集を献ずる状」に詳しい。現存本は成立時の原形をほぼそのまま伝えている。巻1から巻6までは詩、巻7から巻12までは散文で、468首の詩と、賦・序・詔勅・奏状・願文等の多様な文体の
土佐日記(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
紀貫之作。『土左日記』とも書く。土佐守の任満ちた貫之が、934年(承平4)12月21日に任地をたち、翌年2月16日に帰京するまでの55日間の海路の旅をもとにした日記体の紀行文。帰京後まもなくに成立か。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」といい
将門記(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本古典文学全集)
平安時代の軍記物。修飾の多い和風漢文体。「まさかどき」ともいわれるが、古くは「将門合戦章(状)」などとよばれた。巻頭部を欠く「真福寺本」、稿本の概をみせるといわれるが零本の「片倉本(楊守敬旧蔵本)」のほか数種の抄本が伝えられている。物語の主人公平将門の系譜から
後撰和歌集(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
『古今和歌集』に次ぐ第二の勅撰和歌集。略称「後撰集」。951年(天暦5)、村上天皇の命により昭陽舎(梨壺に撰和歌所が設けられ、別当に藤原伊尹、寄人に大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城のいわゆる「梨壺の五人」が任ぜられて
蜻蛉日記(日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安中期の歌人藤原道綱母の書いた回想録的な日記。道綱母の20歳ごろの954年(天暦8)、時の右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚してから、974年(天延2)に兼家の通うのが絶えるまでの、20年間の記事をもつ。上中下の3巻からなり、上巻末尾に「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふ
うつほ物語(宇津保物語)(日本古典文学全集・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安時代の物語。題名は首巻の「俊蔭」の巻で、主人公の仲忠が母と杉の洞穴で生活したことによる。従来「宇津保」と書かれていたが、変体仮名の原漢字を用いたもので、題意からは「うつほ(ウツオ)」がよい。成立時代は円融朝(969~984)~
日本往生極楽記(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安中期の往生伝。一巻。慶滋保胤著。初稿本の成立は983年(永観1)~986年(寛和2)。のちに兼明親王に加筆を委嘱したが、987年(永延1)親王が薨じたため、著者がふたたび筆をとり完成させた。日本における最初の往生伝で、聖徳太子、行基
落窪物語(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
〔一〕今は昔のこと、中納言である人で、姫君を大勢持っていらっしゃった方がおられた。長女や次女の君には婿を迎えて、それぞれ西の対、東の対に派手に住まわせ申しあげなさって、「三女、四女の君には裳着の式をして差し上げよう」と、大事にお世話なさる
和泉式部日記(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
【現代語訳】〔一〕夢よりもはかない人の世、亡き宮様とのことを、嘆きわずらいながら、夜を明かし日を暮しているうちに、四月十日すぎにもなったので、木々の葉陰の闇がしだいに濃くなってゆく。築地の上の草が青々としているのも、他人はことさら目もくれないけれど
なが‐うた 【長歌・長唄】(日本国語大辞典)
和歌の一体。五音、七音の二句を三回以上続け、最後に七音を添えるもの。ちょうか。*古今和歌集〔905〜914〕雑体・一〇〇二・詞書「ふるうたたてまつりし時のもくろくのそのなかうた」*源氏物語〔1001〜14頃〕行幸「なかうたなどの心ばへあらむを、御覧ぜむには
短歌(国史大辞典)
歌体の一つ。「みじかうた」「みそひともじ」ともいう。形式は五・七・五・七・七の五句体、三十一音。五句を分けて、五・七・五の三句を上の句、七・七の二句を下の句、さらに第一句を初句・頭句・起句、第二句を胸句、第三句を腰句、第五句を結句・尾句・落句などと呼ぶ。
やまと‐うた 【大和歌・倭歌】(日本国語大辞典)
わが国固有の歌。多く、唐歌(からうた)に対して和歌をいう。*古今和歌集〔905〜914〕仮名序「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」*後鳥羽院御口伝〔1212〜27頃〕「やまと哥を詠ずるならひ、昔より今にいたるまで
旋頭歌(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
歌体の一つ。「みじかうた」「みそひともじ」ともいう。形式は五・七・五・七・七の五句体、三十一音。五句を分けて、五・七・五の三句を上の句、七・七の二句を下の句、さらに第一句を初句・頭句・起句、第二句を胸句、第三句を腰句、第五句を結句・尾句・落句などと呼ぶ。
歌論書(国史大辞典)
歌に関して批評的文学論的見解を述べた文献。歌の定義・要素・分類・歌病などのほかに、歌に関する種々の研究、たとえば歌集の校訂・注釈・類纂および歌書の文化史的研究などをも含むものが多い。奈良時代、『万葉集』にも批評意識は散見するが、歌論書としては『歌経標式』(藤原浜成)
歌仙(国史大辞典)
古く歌泉(『万葉集』)とも。歌道において特に優れた者。のちには特定の歌人を指すに至った。『古今和歌集』序により、柿本人麻呂・山部赤人を二歌聖、在原業平・小野小町・僧正遍照・喜撰法師・文屋康秀・大伴黒主の六人を六歌仙と称した。のちに成った各種の新六歌仙・続六歌仙などと
唐物語(国史大辞典・世界大百科事典)
中国説話二十七篇を歌物語風に翻訳した物語。一冊。前田綱紀の手記『桑華書志』所収の『古蹟歌書目録』は『漢物語』として作者を藤原成範と伝える。これが『唐物語』を指す蓋然性は高く、院政期の成立と見てよい。各話は王朝物語にもしばしば引用される著名な人物が配される。
千載和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
第7番目の勅撰和歌集。藤原俊成撰。平氏都落ち直前の1183年(寿永2)2月に後白河院の下命があり、源平戦乱終息後の1187年(文治3)に形式的奏覧、翌年俊成75歳のおりに完成した。前勅撰集の『詞花集』に対しては歌壇に強い批判があり、その気運のなかから『拾遺古今』『後葉集』などの
梁塵秘抄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
歌謡集。後白河天皇撰。全二十巻のうち、巻一巻頭の断簡と巻二全体および口伝集巻一巻頭の断簡と口伝集巻十全体が現存する。歌謡集十巻と口伝集十巻から成っていたと推定される。十一世紀初頭ごろ、今様歌とよばれる流行歌謡がうたわれていた。それらは十一世紀後葉から十二世紀前葉に
とりかへばや物語(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代末期の物語。運命のいたずらで女装、男装を余儀なくされた異腹の兄妹の物語。作者未詳。三巻三冊または四巻四冊。『とりかへばや』には古本と今本とがあり、古本は散佚、古本を改作した「今とりかへばや」が『とりかへばや』『とりかへばや物語』の名で現存する。
成尋阿闍梨母集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代中期の家集。二巻。作者の出自・生没などは不明の点が多いが、源俊賢女として永延二年(九八八)ごろ生まれ、藤原実方の男と結婚して男二人を生み、間もなく夫に死別しわが子の成長を唯一の頼みに五十余年の寡婦生活を続けた。八十歳を超えた延久二年(一〇七〇)
今鏡(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安末期の歴史物語。1170年(嘉応2)成立説とそれ以後とする説とがあり、作者は藤原為経(寂超)説が有力。『大鏡』を受けて、1025年(万寿2)から1170年までの歴史を、座談形式を用い、紀伝体で叙述したもの。巻1~3は後一条天皇から高倉天皇までの帝紀、巻4~6は藤原氏
詞花和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝第6番目の勅撰和歌集。10巻。崇徳院の下命で、藤原顕輔が撰進した。1144年(天養1)下命ののち7年を経て、51年(仁平1)に完成、院の意志でさらに7首を削って409首の第二次精撰本が完成。もっとも小規模な勅撰集である。顕輔の撰集は、前代歌人を重視し、冒険を避けたが
金葉和歌集(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安朝第5番目の勅撰和歌集。撰集下命者は白河院、撰者は源俊頼。1124年(天治1)に最初の草稿を奏覧に入れたが、新味がないと返却され、次に翌年4月に改撰して奏上したが、今度は現代歌人に偏りすぎるという理由で受納されず、三度目に三代集歌人を復活させた草稿を呈したところ
大鏡(日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安後期の歴史物語。文徳天皇の850年(嘉祥3)から後一条天皇の1025年(万寿2)まで、14代176年間の歴史を描いたもので、1025年を現在時として叙述しているが、これは藤原道長の栄華の絶頂で擱筆しようとした作者の作為で、実際は1025年以後40、50年から90年の間の成立とみられる
俊頼髄脳(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
歌学書。源俊頼著。もと五巻か。『今鏡』すべらぎの中および本書顕昭本奥書により、俊頼が関白藤原忠実の依頼で、その娘(のちの高陽院泰子)の后がね教育のため、天永二年(一一一一)から永久二年(一一一四)の間に述作したもの。『和歌童蒙抄』以下に『俊頼朝臣無名抄』
讃岐典侍日記(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
〔一〕五月の空も、わたしの心に似て、雲に閉ざされ、雨が降り続いて、田植えに濡れた農夫の着物の裾も、わたしの衣の袖のように、干すことができずに困っているであろうが、それももっともなことと思われ、ただでさえうっとうしい折しも、何かと気を遣うことのない自宅
江談抄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代後期の説話集で、大江匡房の談話を集めたもの。「江談」の偏をとって『水言鈔』とも題される。信西入道(藤原通憲)の父藤原実兼の筆録とされてきたが、内容からみて筆録者は複数であると考えられる。成立は匡房の没年(天永二年(一一一一))を下限と見るべきであろうが
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