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  11. 豊臣秀頼

豊臣秀頼

ジャパンナレッジで閲覧できる『豊臣秀頼』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
豊臣秀頼
とよとみひでより
一五九三 - 一六一五
豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り、「拾い」と名づけるよう命じた。民間の習俗にならい松浦讃岐守重政を拾い親とし、生育の健全を期したところによる。秀吉は当時甥秀次を養嗣子として聚楽第に住まわせ、みずからは伏見の隠居城に居たが、秀頼の誕生を機に諸大名に命じて伏見城の大拡張普請を行わせ、文禄三年十二月秀頼をここに迎えた。翌四年三月朝廷は童形の秀頼の伏見移居を賀して勅使を派遣している。秀吉は養子秀次と秀頼との関係調整に悩み、誕生の翌九月には日本国を五分して四分を秀次に、一分を秀頼に分かつ案を示し、翌々十月には秀頼と秀次の女との婚約を提起した。文禄四年七月秀次が自殺させられると、前田利家を秀頼の傅とし、徳川家康・毛利輝元以下の諸大名、石田三成・増田長盛ら奉行衆につぎつぎと秀頼への奉公と忠誠を誓約させ、血判起請文をあげさせた。慶長元年(一五九六)五月秀頼は入洛、参内して従五位下に叙爵、十二月大坂城において拾を秀頼と改めた。翌二年四月より秀吉は京都の内裏の東に屋敷を築いていたが、その完成とともに九月秀頼をここに移らせ、ついで参内、元服せしめ、従四位下左近衛権少将に叙任し、同月さらに権中将に進んだ。同三年七月秀吉の病が重くなると五大老・五奉行の職制を定め、諸大名に血判誓書の提出を求めて、秀頼への奉公、法度置目の遵守、公儀への奉仕、徒党の禁止、私に下国しないことなどを誓わせ、八月死に臨んで家康以下の有力大名に「返々秀より事たのみ申候」と遺言した。秀頼は遺言により翌四年正月伏見から大坂に移る。五年九月の関ヶ原の戦後は実質上摂津・河内・和泉六十五万七千石の大名となった。しかし、国制上の官位は家康に雁行し、六年三月権大納言、七年正月正二位、八年四月内大臣、十年四月右大臣と進んだ。秀吉の法度置目を中軸とする豊臣体制の存在がそれをもたらしていた。この間、八年七月徳川秀忠の女千姫と結婚し、十二年正月右大臣を辞した。十六年三月家康は後水尾天皇を擁立すると、秀頼を二条城に迎えて謁見し、これを機に体制は徳川へと転換が進む。一説にこの会見で秀頼の凡庸でないことをみてとった家康が豊臣氏を滅亡させる決意を深めたといわれる。秀頼は近畿諸社寺の造営に力を尽くしたが、同十九年方広寺大仏殿再興に際し鋳造した鐘銘の件を口実に家康は大坂城を囲み(冬の陣)、いったん講和したものの元和元年(一六一五)再び兵を起してこれを攻めた(夏の陣)。秀頼はよく戦ったが、五月八日大坂城は陥落、秀頼は母とともに自害し、豊臣氏は滅びた。二十三歳。秀頼の男子国松は捕えられて京都六条河原に斬られ、女子は尼となり、鎌倉東慶寺に入れられて天秀と称した。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ二〇 元和元年五月八日条、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』
(朝尾 直弘)


日本大百科全書(ニッポニカ)
豊臣秀頼
とよとみひでより
[1593―1615]

安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣秀吉の次男。幼名拾丸(ひろいまる)。母は側室淀殿(よどどの)浅井氏。大坂城で出生。翌1594年(文禄3)12月新築なった伏見(ふしみ)城に移され育てられた。57歳にして実子を得た秀吉の愛育ぶりはひとかたでなく、また周囲からも秀吉の愛児ということで特別に扱われ、95年3月にはその伏見移居の祝儀として朝廷から勅使が遣わされ、太刀(たち)・馬を下賜されるほどであった。同年7月関白秀次が自刃してからは、豊臣家の世嗣(よつぎ)と目された。秀吉は、拾丸の将来を非常に疑懼(ぎく)し、傅役(もりやく)には前田利家(としいえ)を選び、また徳川家康、毛利輝元(てるもと)らの大名には血判の誓書を出させ、拾丸に対して忠誠を誓わせ、翌96年(慶長1)正月にも再度この誓書提出のことを行わせている。同年5月秀頼は秀吉に伴われて参内して天盃(てんぱい)を賜り、従(じゅ)五位下に叙され、同12月には秀頼と改名した。97年9月禁中において元服し、従四位下・左近衛権(さこのえごん)少将に叙任され、その翌々日には左近衛中将に進み、98年4月には6歳にして従二位・権中納言(ごんちゅうなごん)となった。同年、重態となった秀吉は再三諸大名に血判の誓紙を書かせ、秀頼を助けて忠誠を尽くすことを誓わせたが、秀吉が死去するとそれも反故(ほご)同然となり、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍大敗すると、豊臣氏は摂河泉約70万石の一大名に転落した。03年4月内大臣となり、同7月には徳川秀忠(ひでただ)の女(むすめ)千姫(せんひめ)をめとり、05年4月右大臣に上るが、政治的大勢のなかで豊臣氏の退潮は覆うべくもなかった。14年11月大坂の役(冬の陣)が起こり、15年(元和1)5月再度の大坂の役(夏の陣)で大坂城は徳川軍の総攻撃を受けて落城し、秀頼は生母淀殿とともに自刃し、豊臣氏は滅亡した。
[橋本政宣]



世界大百科事典
豊臣秀頼
とよとみひでより
1593-1615(文禄2-元和1)

安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の側室淀君が生んだ次子。幼名拾(ひろい)。長子の鶴松は1591年(天正19)8月に3歳で死んでおり,名実ともに秀吉の世嗣。秀吉が死ぬ98年(慶長3)には従二位権中納言に昇進していた。このとき徳川家康らの年寄衆,石田三成らの五奉行はじめ主要武将は秀頼への忠誠を誓約している。関ヶ原の戦後も大坂城に居城し,公儀権力に支えられた存在であったが,実体は摂津,河内,和泉の60万石を領有する一大名にすぎなかった。1603年家康の将軍宣下のおりに内大臣。徳川秀忠の娘千姫と結婚。05年秀忠の将軍宣下のおりに右大臣となる。14年,方広寺大仏殿の開眼供養の問題(鐘銘事件)で徳川氏と対立し戦闘となったが,和議が結ばれた。しかし翌年5月の大坂夏の陣で落城し,淀君とともに大坂城で自殺し豊臣氏は滅亡した。公家文化に親しみ名筆でも知られている。
[三鬼 清一郎]

[索引語]
豊臣鶴松
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1. 豊臣秀頼
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3. とよとみ‐ひでより【豊臣秀頼】
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[1593〜1615]安土桃山時代の武将。秀吉の次男。6歳で家督を相続、前田利家に養育されたが、関ヶ原の戦いののち、摂津・河内(かわち)・和泉(いずみ)60余万 ...
4. とよとみ‐ひでより【豊臣秀頼】
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6. 豊臣秀頼
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7. とよとみ-ひでより【豊臣秀頼】
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9. Toyotomi Hideyori 【豊臣秀頼】
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12. 豊臣秀頼印[図版]
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(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
13. 豊臣秀頼花押[図版]
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(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
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18. 不開間
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19. あさのながまさ【浅野長政】
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32. あんどうしげのぶ【安藤重信】
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33. あんらくじゅいんのみなみのみささぎ【安楽寿院南陵】 : 近衛天皇
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40. いしかわやすかつ【石川康勝】
国史大辞典
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中心に記した軍記物。15巻。作者、成立年代不明。全76項目。豊太閤(ほうたいこう)治世より筆を起こし、豊臣秀頼(とよとみひでより)誕生、同秀次(ひでつぐ)讒言( ...
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44. いしづちさん【石鎚山】愛媛県:総論
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った福島正則は石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参籠したといわれ、慶長一四年(一六〇九)豊臣秀頼は正則を普請奉行として成就に神殿を建立している。〔近世〕江戸 ...
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武将の信仰もあつく、天正年間(一五七三―九二)には河野通直や村上通総が社領を、慶長十五年(一六一〇)には豊臣秀頼が成就社を寄進している。近世に入ると、寛文年間( ...
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48. いしやまでら【石山寺】滋賀県:大津市/南部地域/寺辺村
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纂所所蔵文書)、「本光国師日記」同一八年八月条では寺辺村のうち五七九石余となっている。同七年豊臣秀頼の母淀君の寄進による礼堂の再興(年代記録)を皮切りに本格的な ...
49. いずみあなしじんじゃ【泉穴師神社】大阪府:泉大津市/豊中村地図
日本歴史地名大系
豊臣秀吉はそれを没収したという(泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝)。その後、慶長七年(一六〇二)に豊臣秀頼は片桐且元に命じて社殿を造営したが、無禄であったため領主の ...
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。この頃になると五社総社の勢力は当社を圧倒していたようである。慶長一〇年(一六〇五)と伝える豊臣秀頼の、当社と総社の社殿再興(豊臣秀吉の根来・雑賀攻撃時に両社焼 ...
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一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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