奈良県生駒 (いこま)郡斑鳩 (いかるが)町にある聖徳 (しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。
歴史
草創の由来は、金堂の薬師如来坐像 (やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明 (ようめい)天皇が病気平癒を念じ、大王天皇(推古 (すいこ)天皇)と聖徳太子を召して造寺と薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古天皇15年(607)に寺と薬師像を完成したという。これは『顕真得業口訣抄 (けんしんとくごうくけつしょう)』『古今目録抄』などにも「推古2年起工15年完成」とあって確かめられる。しかし、『東寺王代記』の記す崇峻 (すしゅん)天皇の代、『興福寺年代記』の推古7年説、『興福寺略年代記』の推古21年説など、建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせよ、金堂の釈迦 (しゃか)如来三尊像が623年、聖徳太子逝去の翌年に造像されており、この年を下るものではない。太子は598年に播磨 (はりま)国の地50万代 (しろ)を法隆寺に施入、その後も606年に播磨国水田100町を施入、609年に270余町ずつ施納して経済的基盤を築いている。
寺域は、太子が605年から622年まで住し政務をとった斑鳩宮 (いかるがのみや)の西に位置した。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿 (そがのいるか)によって太子の子山背大兄王 (やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、その後に再建された伽藍 (がらん)が現在の法隆寺伽藍とされる。この天智 (てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並 (ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こり、大正から昭和にかけて、『日本書紀』に信を置く歴史学者と、様式論から立論する美術史学者の間で激論が展開された。しかし1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘調査などにより、現在では再建説が定説化している。それによれば、法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされる。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式で、中軸線は北より約20度西に傾斜(現法隆寺は西へ4度傾斜、16度の差がある)しており、斑鳩宮跡の方位とほぼ一致すること、また瓦 (かわら)は現在の複弁ではなく、飛鳥 (あすか)寺や四天王寺のように単弁の蓮華 (れんげ)文であったことなどが判明した。さらに1968~69年(昭和43~44)の金堂解体修理の際、金堂礎石が旧伽藍の焼けた礎石を流用したものであることが明らかになった。
再建法隆寺は旧若草伽藍から北西に位置を変え結構を変更して建立されたが、再建年代は不明。しかし、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃 (ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統 (じとう)天皇の代(在位686~697)には建立されていたとみられ、8世紀初頭には経蔵などの建立をみ、諸堂が完成されたらしい。
739年(天平11)僧行信 (ぎょうしん)は斑鳩宮の跡に八角円堂の夢殿 (ゆめどの)を中心とする伽藍を建立した。これが今日、金堂・五重塔の伽藍を西院とよぶのに対し、東院とよばれる上宮 (じょうぐう)王院伽藍である。夢殿は現存の八角円堂中最古のもので、堂内には聖徳太子等身の御影 (みえい)と伝えられる本尊救世観音 (ぐぜかんのん)像を安置。行信の建立100年後、道詮 (どうせん)律師が堂の修復を果たしたので、堂内には行信僧都 (そうず)・道詮律師の坐像が並祀 (へいし)されている。
その後、法隆寺は、925年(延長3)大講堂が焼失し再建された。諸堂の修理は数度に及ぶ。わけても鎌倉時代の修理は1219年(承久1)東院の舎利殿 (しゃりでん)・絵殿 (えでん)の拡張再建、1230年(寛喜2)の再建に近い諸堂の改造、あるいは西円堂、聖霊院 (しょうりょういん)、西室 (にしむろ)・三経院 (さんぎょういん)、東院礼堂 (らいどう)、東院鐘楼の再建などがあって伽藍の様相を一新するものであった。江戸時代には慶長 (けいちょう)大修理(1600~06)や元禄 (げんろく)大修理(1690~1707)が行われ、各堂の部材が取り替えられた。また1933年から53年にかけて法隆寺伽藍昭和大修理がなされ、建物はすべて解体修理し、改造部分を除いて建造当初の姿に復原された。この間、1949年1月に金堂壁画が焼失する不幸があったが、68年模写再現された。その後、大宝蔵殿が完成、綱封蔵 (こうふうぞう)伝来品ほか多数の寺宝を収蔵、展観されるようになった。
聖徳太子が『三経義疏 (さんぎょうぎしょ)』(「勝鬘経 (しょうまんきょう)義疏」「維摩 (ゆいま)義疏」「法華 (ほっけ)義疏」)を作成し講じたことは有名であるが、この伝統はよく護持され、法隆寺は法相 (ほっそう)、三論、律、真言 (しんごん)の四宗兼学道場として南都の学問の中心に位置し、道詮をはじめ高僧が歴住し、倶舎唯識 (くしゃゆいしき)の学者を輩出した。1585年(天正13)の古図によると子院は62を数え、太子信仰の中心としても栄え、明治以降も聖徳太子奉賛会などの組織を通して維持管理されている。1950年太子の遺徳を表す意味をもって聖徳宗を開き、その総本山となった。
伽藍・行事
現法隆寺境内は西院伽藍と東院伽藍からなり、10余の塔頭 (たっちゅう)を擁している。伽藍の総門にあたる南大門左右には長い築地 (ついじ)塀が延びる。西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築である。回廊の外、東側には東室・聖霊院、妻室、綱封蔵、細殿 (ほそどの)、食堂など、西側には西室・三経院がある。東院伽藍は夢殿を中心として、礼堂、舎利殿・絵殿、回廊、鐘楼、伝法 (でんぽう)堂などからなる。これら建築物の多くが国宝、国重要文化財に指定されており、また堂内には貴重な仏像、絵画、工芸品を多く蔵し日本美術史の一大宝庫となっている。1993年(平成5)には、法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。
なお、明治維新後、法隆寺も衰退し、1878年(明治11)宝物の一部を皇室に献納して下賜金を受けた。これは法隆寺献納宝物とよばれ、現在は東京国立博物館に展示されている。
おもな年中行事には、東院舎利殿で行われる舎利講(1月1~3日)、金堂修正会 (しゅしょうえ)(1月8~14日)、西円堂修二会 (しゅにえ)(2月1~3日)、お会式 (えしき)(3月22~24日)、夏安居 (げあんご)(5月16日~8月15日)などがある。修二会は薬師如来の前で修され、3日目夜の結願 (けちがん)に行われる追儺 (ついな)式は名高い。またお会式には聖霊院内に米粉でつくった鳥・花など華麗な供物が供えられ、聖徳太子を賛嘆する。