文覚御覧じて、「それは五逆罪の人なれば、涙をかけぬ御事なり。それ、こなたへ」と仰せあって、またもとのごとくに取り納め、「いかに頼朝、聞し召せ。文覚が有らん程は、御心やすく思し召せ。平家調伏すべし」とて、十二か条の巻物を、書きこそしるし給ひけれ。(中略)頼朝なのめに思し召し、三度いただき、守りに掛け、「万事は頼み奉る。さらばお暇申す」とて、また御舟に召され、奈古屋の御所へぞ帰られける。是ぞ此の源氏繁盛のはじめとぞ聞えけれ。
鎌倉幕府初代将軍。源義朝(よしとも)の三男。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の女(むすめ)。義朝は1143年(康治2)から45年(久安1)ごろにかけて、相模(さがみ)国鎌倉の館(やかた)を本拠として東国経営を進めていたが、のち上洛(じょうらく)して季範の女と結ばれた。熱田大宮司家は、鳥羽(とば)法皇と結んで勢力の維持に努めていたから、義朝も妻の縁を媒介として鳥羽法皇の側近武将として活躍し、保元(ほうげん)の乱(1156)の戦功によって、右馬権頭(うまごんのかみ)に任ぜられた。58年(保元3)頼朝は12歳で皇后宮権少進(こうごうぐうのごんのしょうじん)に任官。翌59年(平治1)2月に鳥羽法皇の皇女統子が上西門院(じょうさいもんいん)となるや、上西門院蔵人(くろうど)となり、6月には後白河(ごしらかわ)上皇の皇子二条(にじょう)天皇に仕え、蔵人に補せられた。藤原信頼(のぶより)、源義朝は、同年12月、平清盛(きよもり)の熊野詣(もう)での留守をねらってクーデターを起こし、政権の奪取に成功した。このとき、義朝は播磨守(はりまのかみ)、頼朝は従(じゅ)五位下右兵衛佐(うひょうえのすけ)に叙任した。しかし信頼らは帰京した清盛との合戦に敗れ、義朝は東国へ敗走した(平治(へいじ)の乱)。頼朝は父義朝とともに東国へ逃れようとしたが、父は尾張内海(おわりうつみ)で長田忠致(おさだただむね)に謀殺され、頼朝も美濃(みの)において平頼盛(よりもり)の郎党平宗清(むねきよ)に捕らえられ、京都に護送された。まさに斬罪(ざんざい)に処せられんとするところを清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって死を免れ、解官(げかん)のうえ伊豆に配流された。
伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)、北条時政(ときまさ)の監視下に置かれた頼朝は、以後20年間にわたって読経三昧(どきょうざんまい)の日々を過ごしたとされている。しかし、この間も天野遠景(あまのとおかげ)、土肥実平(どいさねひら)、岡崎美実(おかざきよしざね)ら伊豆、相模の武士たちと連絡をもち、京都の三善康信(みよしやすのぶ)から情報を受け取るなどして、後白河上皇と平氏との間に展開する政治情況の変化を適確に把握していた。時政の女北条政子(まさこ)との結婚もこの間のことである。
1180年(治承4)5月、後白河上皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政(よりまさ)が平氏打倒をスローガンに挙兵した。以仁王の令旨(りょうじ)を受けた頼朝は、時政らの援助を得て、8月、伊豆の目代(もくだい)山木兼隆(やまきかねたか)を討って反平氏の旗幟(きし)を鮮明にした。頼朝が伊豆に挙兵すると、東国の武士たちは「源家中絶の跡を興さしめ給うの条、感涙眼(まなこ)を遮ぎり、言語の及ぶところにあらず」(吾妻鏡(あづまかがみ))と喜び、各国の目代を次々に攻撃した。頼朝は伊豆から相模へと東進したが、石橋山の戦いで平氏方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れ、再起を期して海路安房(あわ)に逃れた。頼朝が安房を目ざしたのは、父義朝と密接な関係にあった三浦半島の豪族三浦一族が、安房に強力な勢力を扶植していたからである。頼朝は安房の武士たちの援助を得て短時日のうちに勢力を挽回(ばんかい)し、ついで上総(かずさ)の在庁官人上総介広常(かずさのすけひろつね)、下総(しもうさ)の千葉介常胤(つねたね)らを味方に引き入れることに成功した。広常は2万余騎を率いて頼朝の陣営に参加している。態勢を整えた頼朝は、上総、下総を経て武蔵(むさし)に入り、江戸重長(しげなが)、河越重頼(かわごえしげより)、畠山重忠(はたけやましげただ)らを味方に加え、10月には曩祖(のうそ)の地鎌倉に入ることができた。石橋山での惨敗ののち、安房に逃れた頼朝が短時日のうちに再起しえたのは、目代を攻撃することによって平氏の支配連絡網を切断し、挙兵参加者に所領の安堵(あんど)を保証し、あわせて敵方の没収地を新しく給与するという彼の政策が、平氏の独裁的支配に不満をもち、その変革を願っていた東国武士の要求と完全に一致したからである。
平氏は頼朝を討つために平維盛(これもり)を派遣した。両軍は富士川で対陣したが、夜襲を極度に恐れていた平氏の軍勢は、水鳥の羽音に驚いて戦わずして敗走した。頼朝は平氏を追って上洛しようとしたが、三浦義澄(よしずみ)らの忠告を聞き入れて上洛をやめ、鎌倉に帰って東国経営に努めた。頼朝に対して自立の動きを示していた常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏を討滅し、ついで傘下の武士たちを統率する機関として侍所(さむらいどころ)を設置して、和田義盛(よしもり)を長官(別当(べっとう))に任命した。この年の暮れ、大蔵(おおくら)の新居が完成し、311人の御家人(ごけにん)武士は頼朝を「鎌倉の主」に推戴(すいたい)した。1181年(養和1)閏(うるう)2月、平清盛が病死した。頼朝は後白河法皇に密奏して法皇への忠誠を誓うとともに、源平の共存を申し入れた。しかし、この案は平氏によって拒絶された。この年から82年(寿永1)にかけて大凶作と飢饉(ききん)が続き、源平両方ともに兵を動かすことは不可能であった。83年7月、源義仲(よしなか)が平氏を追って入京した。しかし義仲の政治力の欠如と義仲軍の狼藉(ろうぜき)は京都貴族の反発をよび、義仲はしだいに後白河法皇と対立するに至った。頼朝はこの機を逸することなく再度奏上し、法皇と貴族の歓心を買うことに成功した。頼朝の勅勘は解かれ、もとの従五位下右兵衛佐に復した。この年10月には、東国諸国の支配権を公的に承認されている(寿永(じゅえい)2年10月宣旨)。法皇と頼朝との密約を怒った義仲は、11月法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)を囲み、火を放って法皇を捕らえ、五条東洞院(ひがしのとういん)の自邸に幽閉した。このころ、東国の年貢を法皇に運上するという口実のもとに上洛しつつあった源義経(よしつね)は伊勢(いせ)に滞在していたが、法皇から即刻の入京を要請された。84年(寿永3)正月、頼朝は義経を先陣とし、範頼(のりより)を総大将に任命して6万の大軍を京都に進め、義仲攻撃を開始した。義仲を近江(おうみ)に討滅した鎌倉軍は、勢力を回復して摂津(せっつ)福原に戻っていた平氏を一ノ谷で破り、翌85年(文治1)2月には屋島で勝利し、ついに3月には壇ノ浦へと追い詰め、これを滅亡させた。この間頼朝は鎌倉にあって、84年10月には公文所(くもんじょ)(別当大江広元(おおえのひろもと))と問注所(もんちゅうじょ)(執事三善康信)を設置し、幕府の体制を着々と強化していった。平氏滅亡後、頼朝は従二位に叙せられたが、義経と後白河法皇との接近を恐れて義経謀反事件を捏造(ねつぞう)し、法皇の責任を追及するとともに、義経追討の院宣(いんぜん)を出させるに至った。頼朝は北条時政らを上洛させ、全国武将たちの反乱防止の具体策として守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を法皇に承認させるとともに、さらに親義経派の院近臣の解官・配流を要求し、頼朝派の九条兼実(くじょうかねざね)を内覧に推挙して、法皇独裁を抑止しようとした。守護・地頭の設置は、幕府の支配権を西国にまで及ぼす契機となった。89年(文治5)頼朝は、義経をかくまっていた奥州藤原氏を討ち、葛西清重(かさいきよしげ)を陸奥(むつ)の奉行(ぶぎょう)に命じ、陸奥、出羽(でわ)を幕府の直轄領とした。こうして源平争乱の開始以来10年にして内乱は終息し、幕府の支配権は全国に及ぶこととなった。
1190年(建久1)10月頼朝は上洛し、11月には後白河法皇、後鳥羽(ごとば)天皇に謁見、権大納言(ごんだいなごん)、右近衛(うこんえ)大将に任命されたが、両職を辞退し鎌倉に帰った。92年3月後白河法皇が没すると、九条兼実の計らいによって同年7月に頼朝はついに征夷(せいい)大将軍に補任された。これ以後幕府は、恩沢の沙汰(さた)として御家人たちに恩賞地を与え、地頭職補任などの際に使用する文書の様式を頼朝袖判(そではん)の下文(くだしぶみ)から、政所(まんどころ)下文に更新していった。93年3月から5月にかけて、頼朝は下野那須野(しもつけなすの)、信濃(しなの)三原野、駿河(するが)の富士裾野(すその)などで大規模な巻狩(まきがり)を行っている。統治者としての資格を神に問うための儀式であった。これから数年の間、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義(かげよし)が鎌倉を追われるなどの事件が続いた。幕府内で深刻な権力闘争が展開し、北条氏が勢力を伸張させていったのである。95年(建久6)3月、頼朝は東大寺再建供養に臨むため上洛した。妻子を伴っての上洛は、女の大姫(おおひめ)の入内(じゅだい)工作を促進するという目的をももっていた。しかし97年に大姫が死去したことにより、入内の計画は実現することなく終わってしまった。98年の暮れ、頼朝は、稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻(政子の妹)の追福のために新造した相模川の橋供養に参加。しかしその帰途に落馬し、翌99年(正治1)正月13日、53歳で死去。死因は、さまざまに憶測されているが不明である。幕府の公式な日録であるといわれる『吾妻鏡』は、なぜか1196年から99年2月までの記述を欠落させている。鎌倉幕府の創設者の死を正確に伝える記録はない。とはいえ、頼朝の死はいち早く京都に伝えられ、朝野に大きな衝撃を与えた。藤原定家(ていか)は、「朝家の大事、何事かこれに過ぎんや、怖畏逼迫(ふいひっぱく)の世か」(『明月記』建久10年1月18日)と記している。
[佐藤和彦]
平安末期~鎌倉初期の武将。武家政治の創始者。鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男で,母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の女。1158年(保元3)皇后宮権少進に任官,翌年には上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。59年(平治1)の末,藤原信頼,源義朝らのクーデタが一時成功した際に従五位下右兵衛佐に叙任。しかし信頼,義朝らは平清盛に敗れ(平治の乱),東国に敗走する父義朝に従ったが,途中,美濃で捕らえられて京都に送られた。斬罪に処せられるところを,清盛の義母池禅尼の口添えによって60年(永暦1)解官のうえ伊豆に配流され,伊東祐親,北条時政らの監護下に置かれた。配流生活は20年余に及び,その間,読経三昧の生活を送ったと伝えられるが,実際には側近の家人安達盛長や佐々木定綱らに奉仕され,また天野遠景,土肥実平ら伊豆,相模の在地武士たちとも連絡をもち,さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど,政治情勢の変化に注意していたらしい。またこの間に北条時政の女政子と結婚している。
80年(治承4)5月,以仁(もちひと)王,源頼政の挙兵があり,以仁王の令旨をうけた頼朝は8月に伊豆国の目代山木兼隆を急襲してこれを倒し,反平氏の旗幟を鮮明にした。伊豆から相模に向かおうとしたが石橋山合戦で大庭景親らの平氏軍に敗れ,いったん海を渡って安房に逃れた。彼に従った三浦一族の勢力下にあった安房の在地武士をはじめ,上総,下総の有力武士たる上総介広常,千葉介常胤らを糾合することに成功し,しだいに勢力を増して武蔵に入り,江戸重長,河越重頼,畠山重忠らの参加を得て,10月には相模の鎌倉に入り,そこを本拠とした。次いで平維盛以下の頼朝追討軍と富士川に対陣,戦わずしてこれを敗走させ,一転して鎌倉に帰ると,直ちに源氏一族で自立の動きを見せていた常陸の佐竹氏を討滅し,この時期までにほぼ南関東一帯を制圧し,その傘下に集まった武士たちを家人として統制するために侍所を設けて和田義盛を侍所別当に任じた。81年(養和1)閏2月に平清盛が病死したのち,頼朝は後白河法皇に密奏して,法皇への忠誠を誓うとともに源平の和平共存のことを申し入れたが,平氏側に拒否された。この年から翌年にわたり大凶作のため,軍勢を大きく動かすことが不可能であったが,その間頼朝は家人の統制に意を用い,東国一帯の武力的支配をすすめ,その奪的政権の基礎をかためることに努めた。とくに御家人統制をみだす存在については厳しい態度をとり,83年(寿永2)の暮れには独立性の強い態度を持していた上総介広常を誅滅している。一方,この年の7月には源義仲が入京して平氏を西走させたが,義仲がやがて後白河法皇と対立すると,頼朝はこの機をつかんで再び奏上して,法皇以下公家政権の人々の歓心を買うことに成功し,ついに勅勘をとかれて本位に復するとともに,彼が事実上の支配を実現していた東国諸国に対して,公的にその沙汰権を認める宣旨をえた。この〈寿永2年の宣旨〉は,頼朝による独自の東国政権が樹立されたことを意味する。
次いで勅命をうけて範頼,義経の2弟を西上させ,84年(元暦1)正月,義仲を近江に討滅し,引き続いて一ノ谷に平氏軍を破った。そして翌85年(文治1)2月から3月にかけて,平氏を屋島から壇ノ浦へと急追し,ついに族滅させた。この間,法皇に時局拾収策を申し入れ,諸国の武士を家人化して,全国的軍事警察権を掌握すべきことを要請する一方,鎌倉には公文所,問注所を設けて家政機関を整えた。そして平家討滅ののち従二位に昇叙。次いで義経謀叛事件がおこると,その機をつかんで,同年11月北条時政以下の軍勢を上京させ,法皇に強要して守護・地頭設置の勅許を得た。また親義経派の公卿の解官を要求するとともに頼朝支持派の九条兼実を内覧に推挙し,議奏公卿を指名することに成功した。この時期に頼朝の政権は東国政権から全国政権へと前進するきっかけを得たが,やがて89年(文治5)には義経をかくまった陸奥の藤原泰衡を攻め滅ぼし,全国的軍事支配の体制を完成させた。挙兵以来10年にして内乱は終息されたのである。90年(建久1)11月,頼朝ははじめて上洛して法皇に対面し,権大納言・右近衛大将に任ぜられたが,その翌月これを辞任して鎌倉に帰った。そして92年7月,法皇が没して4ヵ月のちに征夷大将軍に補任された。ここに,武家政権の首長が征夷大将軍に任ぜられる慣例がひらかれた。95年東大寺再建供養のため再度上洛したが,その翌年には京都で九条兼実が失脚し政情は頼朝に不利に傾いた。そこで女の大姫を後鳥羽天皇に入内させ公武融和をはかろうとしたが大姫の死で実現せず,その後まもなく,98年の暮れ,相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し,それが直接の原因となって翌年正月に死去した。
頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた大人物なので,中世・近世の武家社会では偶像視され,模範とされたことはいうまでもないが,史上に名高いうえに,源義経や静御前,木曾義仲,義仲の子の清水義高らとの絡みもあって,しばしば物語,演芸,浮世草子などに登場してきた。古いところでは,室町時代末期の1533年(天文2)1月に,京都で北畠(きたばたけ)の声聞師(しようもじ)が頼朝の1190年11月の〈都入(みやこいり)〉のもようを題材とした舞(《頼朝都入》《みやこいり》《京入》などの題名がある)を演じていたことが知られている(《言継卿記(ときつぐきようき)》)。そのほかでは,慶長(1596-1615)ごろの成立かとみられている御伽草子(おとぎぞうし)《頼朝之最期》(《頼朝最期の記》《頼朝最期物語》ともいう)があり,相模川の橋供養の帰途に落馬したのが頼朝の死因だとする通説とはちがって,畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。
ところで,さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視される。なぜならば,北畠の声聞師というのは北畠散所(さんじよ)を根拠地として活動した当代の賤民的雑芸者の集団であるが,それとの歴史的連関はさておくとして,江戸時代の身分制で賤民身分の中核にすえられた〈えた〉が,〈えた〉としての権益を主張するための根本的な〈証文〉として受け伝え,保持していた文書(名称は種々あるが,こんにちでは《河原巻物(かわらまきもの)》と総称されている)に,源頼朝から引き立てられて御用をつとめたのが始まりであると由来を説きおこすのが通例だからである。たとえば,江戸浅草の〈穢多頭(えたがしら)〉弾左衛門(だんざえもん)家伝来の《頼朝卿御朱印の写(うつし)》では,1180年9月に〈鎌倉長吏(ちようり)弾左衛門藤原頼兼(ふじわらのよりかね)〉が頼朝の朱印状により,長吏,座頭(ざとう),舞々(まいまい),猿楽(さるがく),陰陽師(おんみようじ)など各種の職業の支配権を得たという。
この種の文書が偽文書であることは,すでに明らかにされているが,なぜ〈源頼朝〉が〈えた〉の由緒意識の中心にあったのかは,解明されつくしたとはいいがたい。もちろん,頼朝が武家社会では一貫して模範とされてきていたこと,ならびに江戸幕府と〈えた〉との密接な関係が強く配慮されたからに違いないが,それだけではなく,おそらくは,さらに奥深い意味が潜んでいて,草創期の武士階級が〈浮屠(ふと)の輩〉〈屠膾(とかい)の輩〉などと,〈殺生を業(なりわい)とする者〉として公家階級から蔑視されていた歴史的事情も大いに働き,武士階級の最高無比のシンボルである頼朝が,生業の根源に深く関連しつつ〈えた〉の由緒意識の構成に役立てられたのではあるまいか。
新版 日本架空伝承人名事典
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.