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源頼朝

ジャパンナレッジで閲覧できる『源頼朝』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
源頼朝
みなもとのよりとも
[1147―1199]

鎌倉幕府初代将軍。源義朝(よしとも)の三男。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の女(むすめ)。義朝は1143年(康治2)から45年(久安1)ごろにかけて、相模(さがみ)国鎌倉の館(やかた)を本拠として東国経営を進めていたが、のち上洛(じょうらく)して季範の女と結ばれた。熱田大宮司家は、鳥羽(とば)法皇と結んで勢力の維持に努めていたから、義朝も妻の縁を媒介として鳥羽法皇の側近武将として活躍し、保元(ほうげん)の乱(1156)の戦功によって、右馬権頭(うまごんのかみ)に任ぜられた。58年(保元3)頼朝は12歳で皇后宮権少進(こうごうぐうのごんのしょうじん)に任官。翌59年(平治1)2月に鳥羽法皇の皇女統子が上西門院(じょうさいもんいん)となるや、上西門院蔵人(くろうど)となり、6月には後白河(ごしらかわ)上皇の皇子二条(にじょう)天皇に仕え、蔵人に補せられた。藤原信頼(のぶより)、源義朝は、同年12月、平清盛(きよもり)の熊野詣(もう)での留守をねらってクーデターを起こし、政権の奪取に成功した。このとき、義朝は播磨守(はりまのかみ)、頼朝は従(じゅ)五位下右兵衛佐(うひょうえのすけ)に叙任した。しかし信頼らは帰京した清盛との合戦に敗れ、義朝は東国へ敗走した(平治(へいじ)の乱)。頼朝は父義朝とともに東国へ逃れようとしたが、父は尾張内海(おわりうつみ)で長田忠致(おさだただむね)に謀殺され、頼朝も美濃(みの)において平頼盛(よりもり)の郎党平宗清(むねきよ)に捕らえられ、京都に護送された。まさに斬罪(ざんざい)に処せられんとするところを清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって死を免れ、解官(げかん)のうえ伊豆に配流された。
伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)、北条時政(ときまさ)の監視下に置かれた頼朝は、以後20年間にわたって読経三昧(どきょうざんまい)の日々を過ごしたとされている。しかし、この間も天野遠景(あまのとおかげ)、土肥実平(どいさねひら)、岡崎美実(おかざきよしざね)ら伊豆、相模の武士たちと連絡をもち、京都の三善康信(みよしやすのぶ)から情報を受け取るなどして、後白河上皇と平氏との間に展開する政治情況の変化を適確に把握していた。時政の女北条政子(まさこ)との結婚もこの間のことである。
1180年(治承4)5月、後白河上皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政(よりまさ)が平氏打倒をスローガンに挙兵した。以仁王の令旨(りょうじ)を受けた頼朝は、時政らの援助を得て、8月、伊豆の目代(もくだい)山木兼隆(やまきかねたか)を討って反平氏の旗幟(きし)を鮮明にした。頼朝が伊豆に挙兵すると、東国の武士たちは「源家中絶の跡を興さしめ給うの条、感涙眼(まなこ)を遮ぎり、言語の及ぶところにあらず」(吾妻鏡(あづまかがみ))と喜び、各国の目代を次々に攻撃した。頼朝は伊豆から相模へと東進したが、石橋山の戦いで平氏方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れ、再起を期して海路安房(あわ)に逃れた。頼朝が安房を目ざしたのは、父義朝と密接な関係にあった三浦半島の豪族三浦一族が、安房に強力な勢力を扶植していたからである。頼朝は安房の武士たちの援助を得て短時日のうちに勢力を挽回(ばんかい)し、ついで上総(かずさ)の在庁官人上総介広常(かずさのすけひろつね)、下総(しもうさ)の千葉介常胤(つねたね)らを味方に引き入れることに成功した。広常は2万余騎を率いて頼朝の陣営に参加している。態勢を整えた頼朝は、上総、下総を経て武蔵(むさし)に入り、江戸重長(しげなが)、河越重頼(かわごえしげより)、畠山重忠(はたけやましげただ)らを味方に加え、10月には曩祖(のうそ)の地鎌倉に入ることができた。石橋山での惨敗ののち、安房に逃れた頼朝が短時日のうちに再起しえたのは、目代を攻撃することによって平氏の支配連絡網を切断し、挙兵参加者に所領の安堵(あんど)を保証し、あわせて敵方の没収地を新しく給与するという彼の政策が、平氏の独裁的支配に不満をもち、その変革を願っていた東国武士の要求と完全に一致したからである。
平氏は頼朝を討つために平維盛(これもり)を派遣した。両軍は富士川で対陣したが、夜襲を極度に恐れていた平氏の軍勢は、水鳥の羽音に驚いて戦わずして敗走した。頼朝は平氏を追って上洛しようとしたが、三浦義澄(よしずみ)らの忠告を聞き入れて上洛をやめ、鎌倉に帰って東国経営に努めた。頼朝に対して自立の動きを示していた常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏を討滅し、ついで傘下の武士たちを統率する機関として侍所(さむらいどころ)を設置して、和田義盛(よしもり)を長官(別当(べっとう))に任命した。この年の暮れ、大蔵(おおくら)の新居が完成し、311人の御家人(ごけにん)武士は頼朝を「鎌倉の主」に推戴(すいたい)した。1181年(養和1)閏(うるう)2月、平清盛が病死した。頼朝は後白河法皇に密奏して法皇への忠誠を誓うとともに、源平の共存を申し入れた。しかし、この案は平氏によって拒絶された。この年から82年(寿永1)にかけて大凶作と飢饉(ききん)が続き、源平両方ともに兵を動かすことは不可能であった。83年7月、源義仲(よしなか)が平氏を追って入京した。しかし義仲の政治力の欠如と義仲軍の狼藉(ろうぜき)は京都貴族の反発をよび、義仲はしだいに後白河法皇と対立するに至った。頼朝はこの機を逸することなく再度奏上し、法皇と貴族の歓心を買うことに成功した。頼朝の勅勘は解かれ、もとの従五位下右兵衛佐に復した。この年10月には、東国諸国の支配権を公的に承認されている(寿永(じゅえい)2年10月宣旨)。法皇と頼朝との密約を怒った義仲は、11月法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)を囲み、火を放って法皇を捕らえ、五条東洞院(ひがしのとういん)の自邸に幽閉した。このころ、東国の年貢を法皇に運上するという口実のもとに上洛しつつあった源義経(よしつね)は伊勢(いせ)に滞在していたが、法皇から即刻の入京を要請された。84年(寿永3)正月、頼朝は義経を先陣とし、範頼(のりより)を総大将に任命して6万の大軍を京都に進め、義仲攻撃を開始した。義仲を近江(おうみ)に討滅した鎌倉軍は、勢力を回復して摂津(せっつ)福原に戻っていた平氏を一ノ谷で破り、翌85年(文治1)2月には屋島で勝利し、ついに3月には壇ノ浦へと追い詰め、これを滅亡させた。この間頼朝は鎌倉にあって、84年10月には公文所(くもんじょ)(別当大江広元(おおえのひろもと))と問注所(もんちゅうじょ)(執事三善康信)を設置し、幕府の体制を着々と強化していった。平氏滅亡後、頼朝は従二位に叙せられたが、義経と後白河法皇との接近を恐れて義経謀反事件を捏造(ねつぞう)し、法皇の責任を追及するとともに、義経追討の院宣(いんぜん)を出させるに至った。頼朝は北条時政らを上洛させ、全国武将たちの反乱防止の具体策として守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を法皇に承認させるとともに、さらに親義経派の院近臣の解官・配流を要求し、頼朝派の九条兼実(くじょうかねざね)を内覧に推挙して、法皇独裁を抑止しようとした。守護・地頭の設置は、幕府の支配権を西国にまで及ぼす契機となった。89年(文治5)頼朝は、義経をかくまっていた奥州藤原氏を討ち、葛西清重(かさいきよしげ)を陸奥(むつ)の奉行(ぶぎょう)に命じ、陸奥、出羽(でわ)を幕府の直轄領とした。こうして源平争乱の開始以来10年にして内乱は終息し、幕府の支配権は全国に及ぶこととなった。
1190年(建久1)10月頼朝は上洛し、11月には後白河法皇、後鳥羽(ごとば)天皇に謁見、権大納言(ごんだいなごん)、右近衛(うこんえ)大将に任命されたが、両職を辞退し鎌倉に帰った。92年3月後白河法皇が没すると、九条兼実の計らいによって同年7月に頼朝はついに征夷(せいい)大将軍に補任された。これ以後幕府は、恩沢の沙汰(さた)として御家人たちに恩賞地を与え、地頭職補任などの際に使用する文書の様式を頼朝袖判(そではん)の下文(くだしぶみ)から、政所(まんどころ)下文に更新していった。93年3月から5月にかけて、頼朝は下野那須野(しもつけなすの)、信濃(しなの)三原野、駿河(するが)の富士裾野(すその)などで大規模な巻狩(まきがり)を行っている。統治者としての資格を神に問うための儀式であった。これから数年の間、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義(かげよし)が鎌倉を追われるなどの事件が続いた。幕府内で深刻な権力闘争が展開し、北条氏が勢力を伸張させていったのである。95年(建久6)3月、頼朝は東大寺再建供養に臨むため上洛した。妻子を伴っての上洛は、女の大姫(おおひめ)の入内(じゅだい)工作を促進するという目的をももっていた。しかし97年に大姫が死去したことにより、入内の計画は実現することなく終わってしまった。98年の暮れ、頼朝は、稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻(政子の妹)の追福のために新造した相模川の橋供養に参加。しかしその帰途に落馬し、翌99年(正治1)正月13日、53歳で死去。死因は、さまざまに憶測されているが不明である。幕府の公式な日録であるといわれる『吾妻鏡』は、なぜか1196年から99年2月までの記述を欠落させている。鎌倉幕府の創設者の死を正確に伝える記録はない。とはいえ、頼朝の死はいち早く京都に伝えられ、朝野に大きな衝撃を与えた。藤原定家(ていか)は、「朝家の大事、何事かこれに過ぎんや、怖畏逼迫(ふいひっぱく)の世か」(『明月記』建久10年1月18日)と記している。
[佐藤和彦]



国史大辞典
源頼朝
みなもとのよりとも
一一四七 - 九九
鎌倉幕府の創始者。初代将軍。一一九二―九九在職。久安三年(一一四七)源義朝の三男として生まれる。母は熱田大宮司藤原季範の女。熱田大宮司家は鳥羽法皇・待賢門院(鳥羽の中宮璋子)・後白河天皇・上西門院(鳥羽皇女統子)らに近仕するものが多く、義朝もその縁で鳥羽法皇の寵を得て、仁平三年(一一五三)には下野守となった。保元元年(一一五六)に起った保元の乱で、後白河天皇側について戦功をたてた義朝は、右馬権頭、ついで左馬頭に任ぜられた。頼朝は十二歳のとき(保元三年)、統子が皇后の尊号を得た機会に皇后宮権少進に任官、翌平治元年(一一五九)二月、統子が上西門院の女院号を与えられたとき、上西門院蔵人となり、さらに六月には二条天皇の蔵人となった。彼がこのような官職を歴任したのも母方の関係によるものと考えられる。平治元年十二月に起った平治の乱に際し、頼朝は源家の嫡男の資格を以て初陣、藤原信頼・源義朝らが一時政権を握ったときに従五位下、右兵衛権佐となった。しかし平清盛のために敗れた義朝・頼朝らは、翌永暦元年(一一六〇)東国に逃れんとしたが、その途中頼朝は父義朝の一行とはぐれ、美濃で平頼盛の郎等平宗清に捕われて京都に送られた。平氏側の厳酷な戦後処理策の中で当然斬罪となるところを、一命を助けられ(清盛の義母池禅尼の助命嘆願によるとの説が有力)、伊豆国に配流された。伊豆ではその地の豪族伊東祐親・北条時政らの監視のもとで約二十年の春秋を送り、その間に時政の女の政子と結婚した。やがて治承四年(一一八〇)、以仁王の平氏打倒の挙兵に際して発せられた令旨が頼朝のもとに達した。また一説によれば文覚が後白河上皇の意志を密かに伝えて頼朝に挙兵を促したともいう。かくてこの年の八月頼朝は、時政以下伊豆や相模の武士たちを糾合して兵を挙げ、まず平氏一門で伊豆の目代であった山木兼隆を討滅し、緒戦を飾った。ついで父祖の地鎌倉を目指して東進したが、相模の石橋山で平氏方の大庭景親らの軍に阻まれ、また背後を伊東祐親に襲われたため、敗れて箱根山中に逃れ、軍勢が分散したなかで土肥実平らわずかの兵とともにひそかに海路安房国に渡った。この地で北条時政・三浦義澄らと合し、再起をはかるため上総介広常・千葉常胤らの協力を求め、上総・下総から武蔵に入り、はじめ平氏側に立った武蔵の畠山・河越・江戸以下多くの在地武士を配下に収めることに成功、ついに鎌倉に入りここを拠点とした。頼朝の挙兵を知った平清盛はこれを討伐するため、平維盛を総大将とする大軍を東下させたが、頼朝はこれを邀え討つため軍勢を駿河国富士川に進め、川を挾んで平氏軍と対陣した。しかし一夜水鳥の羽音に驚き周章した平氏軍は、ほとんど戦わずに敗走した。この時頼朝は平氏を追って上洛の軍を進めんとしたが、千葉常胤らの諫言によりこれをやめ、東国の平定につとめ、まず頼朝に敵対した常陸の佐竹氏を討ち、上野の新田氏に服属を促し、また下野の小山氏以下有力武士の参向を得て、治承四年末には鎌倉を本拠とする一地方政権を確立した。そしてこのころ御家人統率機関としての侍所を設置し、和田義盛をその別当に任じた。その後頼朝の勢力は駿河から遠江へとのびたが、翌養和元年(一一八一)三月、尾張の墨俣川の戦において平氏の東征軍に敗れ、戦線は膠着状態となる。一方で治承四年信濃に挙兵した源義仲が、信濃から越後へと進出し、北陸道を制圧、寿永二年(一一八三)七月、平氏を追って上洛を果たした。しかしこの義仲は、都で後白河法皇との対立を招き、頼朝は法皇と結んで義仲の失脚をはかった。平氏の都落ちによって実質的に政権を握った法皇に対し、頼朝はしきりに画策したため、両者は急速に接近し、頼朝は東国沙汰権・東国軍事支配権を与えられるという内容の、いわゆる寿永二年十月宣旨を受けることに成功した。この宣旨の発給は、頼朝が実力で征服していた東国に対する支配権を朝廷から公認されたことを意味するとともに、その反面朝廷もまた内乱状態であった東国の支配を頼朝の力を媒介として回復したことを意味する。この法皇と頼朝との密かな提携は、義仲の怒りを招き、十一月に義仲は法皇を幽閉したが、頼朝は弟の範頼・義経の軍を上洛させ、元暦元年(一一八四)正月、義仲を敗死させた。そのころ西走した平氏は勢力を回復して、摂津の福原に前進陣地を構えていたが、法皇の命をうけた範頼・義経らは二月にこの平氏軍を攻め、海上に追い落とした(一谷の戦)。この戦いののち、範頼は鎌倉に帰り義経は京都にとどまり治安維持に任じたが、鎌倉では兵粮米や軍船の調達、西国武士の招致などのため、約半年の間休戦状態を続けた。またこの間に幕府体制の強化につとめた頼朝は、元暦元年十月には公文所・問注所を設置した。やがて頼朝は範頼に命じて平氏追討のための軍を発遣、範頼軍は山陽道を西進して、文治元年(一一八五)に入ると豊後国に渡り、長門彦島を本拠とする平氏一門の背後を〓することに成功した。一方義経は、頼朝の意志を無視して検非違使左衛門尉に任官し、頼朝の怒りを招いたものの、再び平氏攻略のための出陣を命ぜられて屋島の平氏を急襲し(屋島の戦)、さらに海上を西走する平氏を追って三月には長門国壇ノ浦で平氏を滅亡させた(壇ノ浦の戦)。この戦勝により頼朝は従二位に叙せられ、公卿に列したが、そのころから弟義経との対立がようやく尖鋭化していった。その不和の裏には頼朝の勢力伸長を牽制するため義経を利用せんとする後白河法皇の策謀があったとみられる。頼朝は刺客を京都に送り、義経を襲撃させたが失敗、ここに義経が叛意をかため源行家と協力して後白河法皇に強要し、頼朝追討宣旨を出させた。しかし義経のもとに集まった兵力は少なく、義経は都を立ち去る。一方この追討宣旨のことを知った頼朝は、北条時政以下の東国の大軍を京都に進め、その武威を示した。そこで法皇はこの宣旨を撤回し、逆に義経追討の院宣を出したが、頼朝は法皇の責任を追求し法皇に対し強い政治的要求を行い、これを承認させた。その要求の一つは、親義経派の院の近臣数名を解官配流させ、また親頼朝派の十名の議奏公卿を推挙して彼らの合議による政治の運営を進め、さらに九条兼実を内覧として政治を主導させる体制をつくることであり、これは法皇の独裁を抑止することを目的とした。また要求の第二は、義経追討とこの時期の叛乱防止の具体策として全国的に守護・地頭を設置する勅許を得ることであった。さきに寿永の宣旨によって東国の支配は確立していたが、このたびは西国武士をも統率する体制が生まれたのである。やがて義経が奥州藤原氏を頼ったとき、頼朝はしきりに藤原氏に圧力をかけ、ついに文治五年藤原泰衡は義経を討った。しかし頼朝は藤原氏がこれまで義経を庇護してきたのを責め、みずから大軍を率いて奥州征討の途につき、藤原氏を滅ぼした。この結果陸奥・出羽両国も幕府の直轄地域となり、頼朝の支配はだいたい全国的なものとなり、「天下兵馬の権」が彼の手に帰した。また治承四年以来の源平争乱に基づく全国的内乱は十年ぶりに終熄して平和が恢復し、同時に義経問題を契機として激化した法皇と頼朝との対立が解決し、朝幕関係が変化した。それまで再三法皇から上洛を求められていた頼朝であったが、奥州制圧に成功したのち建久元年(一一九〇)ようやく上洛し、法皇と対面、権大納言右近衛大将に任命された。しかし頼朝は間もなくこの両官を辞して鎌倉に帰った。そのころから法皇と頼朝の対立は緩和し、頼朝が法皇に接近する姿勢を示し、それに伴い兼実の利用価値が低下したためか、頼朝と兼実との関係が疎遠となり始める。またそのころから頼朝は長女大姫を入内させようと考え始め、法皇の側近の源通親や丹後局(高階栄子)らに近づいていった。建久三年後白河法皇が没すると、それまで法皇と対立していた兼実が政治の実権を握り、そのはからいで頼朝はかねてから望みながら法皇に拒否されてきたところの征夷大将軍に任命された。しかしこれはもともと奥州征討のために必要であった官職であり、藤原氏滅亡のいまは実質的には無意味な官職である。そこで頼朝は建久五年に征夷大将軍辞任を申し出たが、朝廷はこれを受理しなかった。建久六年頼朝は東大寺再建供養に出席することを名目に、妻の政子や大姫らを伴って再度上洛した。このとき入内計画が病気などのため延引していた大姫を丹後局にひきあわせ、入内工作を促進した。当時兼実の全盛下で法皇の旧側近は失意の立場におかれていたが、入内問題とからんで頼朝が彼らに接近したため、彼らの立場が有利となるきざしが見えた。頼朝が鎌倉に帰って間もなく、京都では後鳥羽天皇の中宮任子(兼実の女)が皇女昇子を生み、ついで通親の養女在子が皇子為仁を生んだため、通親の政治的地位が強化し、彼の画策により建久七年任子は宮中を追われ、兼実は関白を罷免された。頼朝はこのような京都の情勢を黙視しながら大姫入内のことが有利に展開することを期待していたが、その大姫は建久八年に没し、また兼実の失脚により京都の政治についての頼朝の影響力が弱化する結果となった。建久九年後鳥羽天皇が譲位し、為仁(土御門天皇)が四歳で即位したため、外祖父の通親の権勢が強まる。この即位に際し、頼朝はこれに強く反対したが、その主張は無視されてしまった。しかし大姫の死後頼朝は次女の三万の入内に執念をもやし、大いに画策したため、ついに三万は女御の称号を与えられ正式の入内を待つばかりとなった。頼朝は三万を伴って上洛し、公武の関係をも刷新せんとの意図を持ったが、その実現を見ないうちに、建久九年末病に罹り、翌正治元年(一一九九)正月十一日に出家し、同十三日五十三歳で死去した。『吾妻鏡』その他比較的信頼できる史料によれば、頼朝は、稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追福のため相模川に架橋したとき、その落成供養に出席した帰路、何らかの理由で落馬したのが死因とされる。その遺骸は幕府後方の丘陵の持仏堂(神奈川県鎌倉市西御門二丁目、国史跡)に納められた。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ六 正治元年正月十一日条、『頼朝会雑誌』、黒川高明『源頼朝文書の研究』、山路愛山『源頼朝』(『東洋文庫』四七七)、大町桂月『源頼朝』(『桂月全集』四)、幸田露伴『頼朝・為朝』、遠藤元男『源頼朝』、永原慶二『源頼朝』(『岩波新書』青三〇八)、安田元久『源頼朝新訂版』、浅野晃『源頼朝』(『世界偉人伝全集』四七)、河内祥輔『頼朝の時代』(『平凡社選書』一三五)、安田元久編『源頼朝―その生涯と時代―』、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』、辻善之助「源頼朝について」(『日本文化史』別録一所収)、石母田正「頼朝の日本国総守護職補任について」(『石母田正著作集』八所収)、大森金五郎「源頼朝」(『歴史公論』二ノ七)、同「源頼朝と義経との関係批判」(『中央史壇』一ノ五)、同「源頼朝の奥州征伐」(『史学雑誌』一一ノ五・七)、同「源頼朝の功業」(『歴史教育』六ノ一〇)、同「源頼朝の信仰心」(『神道学雑誌』九ノ八・九)、牧健二「源頼朝に対する評論」(『史林』二一ノ一)、江部陽子「源頼朝の宗教政策」(『お茶の水史学』九)
(安田 元久)


世界大百科事典
源頼朝
みなもとのよりとも
1147-99(久安3-正治1)

平安末期~鎌倉初期の武将。武家政治の創始者。鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男で,母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の女。1158年(保元3)皇后宮権少進に任官,翌年には上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。59年(平治1)の末,藤原信頼,源義朝らのクーデタが一時成功した際に従五位下右兵衛佐に叙任。しかし信頼,義朝らは平清盛に敗れ(平治の乱),東国に敗走する父義朝に従ったが,途中,美濃で捕らえられて京都に送られた。斬罪に処せられるところを,清盛の義母池禅尼の口添えによって60年(永暦1)解官のうえ伊豆に配流され,伊東祐親,北条時政らの監護下に置かれた。配流生活は20年余に及び,その間,読経三昧の生活を送ったと伝えられるが,実際には側近の家人安達盛長や佐々木定綱らに奉仕され,また天野遠景,土肥実平ら伊豆,相模の在地武士たちとも連絡をもち,さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど,政治情勢の変化に注意していたらしい。またこの間に北条時政の女政子と結婚している。

80年(治承4)5月,以仁(もちひと)王,源頼政の挙兵があり,以仁王の令旨をうけた頼朝は8月に伊豆国の目代山木兼隆を急襲してこれを倒し,反平氏の旗幟を鮮明にした。伊豆から相模に向かおうとしたが石橋山合戦で大庭景親らの平氏軍に敗れ,いったん海を渡って安房に逃れた。彼に従った三浦一族の勢力下にあった安房の在地武士をはじめ,上総,下総の有力武士たる上総介広常,千葉介常胤らを糾合することに成功し,しだいに勢力を増して武蔵に入り,江戸重長,河越重頼,畠山重忠らの参加を得て,10月には相模の鎌倉に入り,そこを本拠とした。次いで平維盛以下の頼朝追討軍と富士川に対陣,戦わずしてこれを敗走させ,一転して鎌倉に帰ると,直ちに源氏一族で自立の動きを見せていた常陸の佐竹氏を討滅し,この時期までにほぼ南関東一帯を制圧し,その傘下に集まった武士たちを家人として統制するために侍所を設けて和田義盛を侍所別当に任じた。81年(養和1)閏2月に平清盛が病死したのち,頼朝は後白河法皇に密奏して,法皇への忠誠を誓うとともに源平の和平共存のことを申し入れたが,平氏側に拒否された。この年から翌年にわたり大凶作のため,軍勢を大きく動かすことが不可能であったが,その間頼朝は家人の統制に意を用い,東国一帯の武力的支配をすすめ,その〓奪的政権の基礎をかためることに努めた。とくに御家人統制をみだす存在については厳しい態度をとり,83年(寿永2)の暮れには独立性の強い態度を持していた上総介広常を誅滅している。一方,この年の7月には源義仲が入京して平氏を西走させたが,義仲がやがて後白河法皇と対立すると,頼朝はこの機をつかんで再び奏上して,法皇以下公家政権の人々の歓心を買うことに成功し,ついに勅勘をとかれて本位に復するとともに,彼が事実上の支配を実現していた東国諸国に対して,公的にその沙汰権を認める宣旨をえた。この〈寿永2年の宣旨〉は,頼朝による独自の東国政権が樹立されたことを意味する。

次いで勅命をうけて範頼,義経の2弟を西上させ,84年(元暦1)正月,義仲を近江に討滅し,引き続いて一ノ谷に平氏軍を破った。そして翌85年(文治1)2月から3月にかけて,平氏を屋島から壇ノ浦へと急追し,ついに族滅させた。この間,法皇に時局拾収策を申し入れ,諸国の武士を家人化して,全国的軍事警察権を掌握すべきことを要請する一方,鎌倉には公文所,問注所を設けて家政機関を整えた。そして平家討滅ののち従二位に昇叙。次いで義経謀叛事件がおこると,その機をつかんで,同年11月北条時政以下の軍勢を上京させ,法皇に強要して守護・地頭設置の勅許を得た。また親義経派の公卿の解官を要求するとともに頼朝支持派の九条兼実を内覧に推挙し,議奏公卿を指名することに成功した。この時期に頼朝の政権は東国政権から全国政権へと前進するきっかけを得たが,やがて89年(文治5)には義経をかくまった陸奥の藤原泰衡を攻め滅ぼし,全国的軍事支配の体制を完成させた。挙兵以来10年にして内乱は終息されたのである。90年(建久1)11月,頼朝ははじめて上洛して法皇に対面し,権大納言・右近衛大将に任ぜられたが,その翌月これを辞任して鎌倉に帰った。そして92年7月,法皇が没して4ヵ月のちに征夷大将軍に補任された。ここに,武家政権の首長が征夷大将軍に任ぜられる慣例がひらかれた。95年東大寺再建供養のため再度上洛したが,その翌年には京都で九条兼実が失脚し政情は頼朝に不利に傾いた。そこで女の大姫を後鳥羽天皇に入内させ公武融和をはかろうとしたが大姫の死で実現せず,その後まもなく,98年の暮れ,相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し,それが直接の原因となって翌年正月に死去した。
[安田 元久]

伝承

頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた大人物なので,中世・近世の武家社会では偶像視され,模範とされたことはいうまでもないが,史上に名高いうえに,源義経や静御前,木曾義仲,義仲の子の清水義高らとの絡みもあって,しばしば物語,演芸,浮世草子などに登場してきた。古いところでは,室町時代末期の1533年(天文2)1月に,京都で北畠(きたばたけ)の声聞師(しようもじ)が頼朝の1190年11月の〈都入(みやこいり)〉のもようを題材とした舞(《頼朝都入》《みやこいり》《京入》などの題名がある)を演じていたことが知られている(《言継卿記(ときつぐきようき)》)。そのほかでは,慶長(1596-1615)ごろの成立かとみられている御伽草子(おとぎぞうし)《頼朝之最期》(《頼朝最期の記》《頼朝最期物語》ともいう)があり,相模川の橋供養の帰途に落馬したのが頼朝の死因だとする通説とはちがって,畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。

ところで,さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視される。なぜならば,北畠の声聞師というのは北畠散所(さんじよ)を根拠地として活動した当代の賤民的雑芸者の集団であるが,それとの歴史的連関はさておくとして,江戸時代の身分制で賤民身分の中核にすえられた〈えた〉が,〈えた〉としての権益を主張するための根本的な〈証文〉として受け伝え,保持していた文書(名称は種々あるが,こんにちでは《河原巻物(かわらまきもの)》と総称されている)に,源頼朝から引き立てられて御用をつとめたのが始まりであると由来を説きおこすのが通例だからである。たとえば,江戸浅草の〈穢多頭(えたがしら)〉弾左衛門(だんざえもん)家伝来の《頼朝卿御朱印の写(うつし)》では,1180年9月に〈鎌倉長吏(ちようり)弾左衛門藤原頼兼(ふじわらのよりかね)〉が頼朝の朱印状により,長吏,座頭(ざとう),舞々(まいまい),猿楽(さるがく),陰陽師(おんみようじ)など各種の職業の支配権を得たという。

この種の文書が偽文書であることは,すでに明らかにされているが,なぜ〈源頼朝〉が〈えた〉の由緒意識の中心にあったのかは,解明されつくしたとはいいがたい。もちろん,頼朝が武家社会では一貫して模範とされてきていたこと,ならびに江戸幕府と〈えた〉との密接な関係が強く配慮されたからに違いないが,それだけではなく,おそらくは,さらに奥深い意味が潜んでいて,草創期の武士階級が〈浮屠(ふと)の輩〉〈屠膾(とかい)の輩〉などと,〈殺生を業(なりわい)とする者〉として公家階級から蔑視されていた歴史的事情も大いに働き,武士階級の最高無比のシンボルである頼朝が,生業の根源に深く関連しつつ〈えた〉の由緒意識の構成に役立てられたのではあるまいか。
[横井 清]

[索引語]
声聞師 北畠散所 河原巻物 弾左衛門


新版 日本架空伝承人名事典

源頼朝
みなもとのよりとも
1147‐99(久安3‐正治1)
 平安末期~鎌倉初期の武将。武家政治の創始者。鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男で、母は熱田大宮司藤原季範すえのりの女。一一五八年(保元三)皇后宮権少進に任官、翌年には上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。五九年(平治一)の末、藤原信頼、源義朝らのクーデタが一時成功した際に従五位下右兵衛佐に叙任。しかし信頼、義朝らは平清盛に敗れ(平治の乱)、東国に敗走する父義朝に従ったが、途中、美濃で捕らえられて京都に送られた。斬罪に処せられるところを、清盛の義母池禅尼の口添えによって六〇年(永暦一)解官のうえ伊豆に配流され、伊東祐親、北条時政らの監護下に置かれた。配流生活は二〇年余に及び、その間、読経三昧の生活を送ったと伝えられるが、実際には側近の家人安達盛長や佐々木定綱らに奉仕され、また天野遠景、土肥実平ら伊豆、相模の在地武士たちとも連絡をもち、さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど、政治情勢の変化に注意していたらしい。またこの間に北条時政の女政子と結婚している。
 八〇年(治承四)五月、以仁もちひと王、源頼政の挙兵があり、以仁王の令旨をうけた頼朝は八月に伊豆国の目代山木兼隆を急襲してこれを倒し、反平氏の旗幟を鮮明にした。伊豆から相模に向かおうとしたが石橋山合戦で大庭景親らの平氏軍に敗れ、いったん海を渡って安房に逃れた。彼に従った三浦一族の勢力下にあった安房の在地武士をはじめ、上総、下総の有力武士たる上総介広常、千葉介常胤らを糾合することに成功し、しだいに勢力を増して武蔵に入り、江戸重長、河越重頼、畠山重忠らの参加を得て、一〇月には相模の鎌倉に入り、そこを本拠とした。次いで平維盛以下の頼朝追討軍と富士川に対陣、戦わずしてこれを敗走させ、一転して鎌倉に帰ると、直ちに源氏一族で自立の動きを見せていた常陸の佐竹氏を討滅し、この時期までにほぼ南関東一帯を制圧し、その傘下に集まった武士たちを家人として統制するために侍所を設けて和田義盛を侍所別当に任じた。
 八一年(養和一)閏二月に平清盛が病死したのち、頼朝は後白河法皇に密奏して、法皇への忠誠を誓うとともに源平の和平共存のことを申し入れたが、平氏側に拒否された。この年から翌年にわたり大凶作のため、軍勢を大きく動かすことが不可能であったが、その間頼朝は家人の統制に意を用い、東国一帯の武力的支配をすすめ、その簒奪的政権の基礎をかためることに努めた。とくに御家人統制をみだす存在については厳しい態度をとり、八三年(寿永二)の暮れには独立性の強い態度を持していた上総介広常を誅滅している。一方、この年の七月には源義仲が入京して平氏を西走させたが、義仲がやがて後白河法皇と対立すると、頼朝はこの機をつかんで再び奏上して、法皇以下公家政権の人々の歓心を買うことに成功し、ついに勅勘をとかれて本位に復するとともに、彼が事実上の支配を実現していた東国諸国に対して、公的にその沙汰権を認める宣旨をえた。この「寿永二年の宣旨」は、頼朝による独自の東国政権が樹立されたことを意味する。
 次いで勅命をうけて範頼、義経の二弟を西上させ、八四年(元暦一)正月、義仲を近江に討滅し、引き続いて一ノ谷に平氏軍を破った。そして翌八五年(文治一)二月から三月にかけて、平氏を屋島から壇ノ浦へと急追し、ついに族滅させた。この間、法皇に時局収拾策を申し入れ、諸国の武士を家人化して、全国的軍事警察権を掌握すべきことを要請する一方、鎌倉には公文所、問注所を設けて家政機関を整えた。そして平家討滅ののち従二位に昇叙。次いで義経謀反事件がおこると、その機をつかんで、同年一一月北条時政以下の軍勢を上京させ、法皇に強要して守護・地頭設置の勅許を得た。また親義経派の公卿の解官を要求するとともに頼朝支持派の九条兼実を内覧に推挙し、議奏公卿を指名することに成功した。この時期に頼朝の政権は東国政権から全国政権へと前進するきっかけを得たが、やがて八九年(文治五)には義経をかくまった陸奥の藤原泰衡を攻め滅ぼし、全国的軍事支配の体制を完成させた。挙兵以来一〇年にして内乱は終息されたのである。九〇年(建久一)一一月、頼朝ははじめて上洛して法皇に対面し、権大納言・右近衛大将に任ぜられたが、その翌月これを辞任して鎌倉に帰った。そして九二年七月、法皇が没して四ヵ月のちに征夷大将軍に補任された。ここに、武家政権の首長が征夷大将軍に任ぜられる慣例がひらかれた。九五年東大寺再建供養のため再度上洛したが、その翌年には京都で九条兼実が失脚し政情は頼朝に不利に傾いた。そこで女の大姫を後鳥羽天皇に入内させ公武融和をはかろうとしたが大姫の死で実現せず、その後まもなく、九八年の暮れ、相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し、それが直接の原因となって翌年正月に死去した。
[安田 元久]
伝承
 頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた大人物なので、中世・近世の武家社会では偶像視され、模範とされたことはいうまでもないが、史上に名高いうえに、源義経や静御前、木曾義仲、義仲の子の清水義高らとの絡みもあって、しばしば物語、演芸、浮世草子などに登場してきた。古いところでは、室町時代末期の一五三三年(天文二)一月に、京都で北畠きたばたけ声聞師しょうもじが頼朝の一一九〇年一一月の「都入みやこいり」のもようを題材とした舞(『頼朝都入』『みやこいり』『京入』などの題名がある)を演じていたことが知られている(『言継卿記ときつぐきょうき』)。そのほかでは、慶長(一五九六‐一六一五)ごろの成立かとみられている御伽草子おとぎぞうし『頼朝之最期』(『頼朝最期の記』『頼朝最期物語』ともいう)があり、相模川の橋供養の帰途に落馬したのが頼朝の死因だとする通説とはちがって、畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。
 ところで、さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視される。なぜならば、北畠の声聞師というのは北畠散所さんじょを根拠地として活動した当代の賤民的雑芸者の集団であるが、それとの歴史的連関はさておくとして、江戸時代の身分制で賤民身分の中核にすえられた「えた」が、「えた」としての権益を主張するための根本的な「証文」として受け伝え、保持していた文書(名称は種々あるが、こんにちでは『河原巻物かわらまきもの』と総称されている)に、源頼朝から引き立てられ御用をつとめたのが始まりであると由来を説きおこすのが通例だからである。たとえば、江戸浅草の「穢多頭えたがしら弾左衛門だんざえもん家伝来の『頼朝卿御朱印のうつし』では、一一八〇年九月に「鎌倉長吏ちょうり弾左衛門藤原頼兼ふじわらのよりかね」が頼朝の朱印状により、長吏、座頭ざとう舞々まいまい猿楽さるがく陰陽師おんみょうじなど各種の職業の支配権を得たという。
 この種の文書が偽文書であることは、すでに明らかにされているが、なぜ「源頼朝」が「えた」の由緒意識の中心にあったのかは、解明されつくしたとはいいがたい。もちろん、頼朝が武家社会では一貫して模範とされてきていたこと、ならびに江戸幕府と「えた」との密接な関係が強く配慮されたからに違いないが、それだけではなく、おそらくは、さらに奥深い意味が潜んでいて、草創期の武士階級が「浮屠ふとの輩」「屠膾とかいの輩」などと、「殺生をなりわいとする者」として公家階級から蔑視されていた歴史的事情も大いに働き、武士階級の最高無比のシンボルである頼朝が、生業の根源に深く関連しつつ「えた」の由緒意識の構成に役立てられたのではあるまいか。
[横井 清]
文覚御覧じて、「不思議や、御身はたれ人ぞ」。「さん候。いつぞや、平治の春のころの流され者にて候」。「さる事有り。義朝に三男、頼朝にてましますか」。「さん候」。「御身の父義朝のなれる姿見たく候か」と問ひ給へば、「見たく候とも、見たからずとも、なかなか申すばかりなし」。「いでいで、さらば、見せ申さん」と笈取って引き寄せ、からげ縄ふるふると引っ解いて、上段より錦七重に包みたる髑髏を取り出だし、「是こそ、御身の父義朝のなれたる姿。見給へ」とて、賜びにけれ。程古りたる事なれば、さらにさぞとも思し召さず、さあらぬ体にもてなし、傍なる机に置き給ふ。文覚御覧じて、「道理なり頼朝。程古りたる事なれば、疑ひ定めて有るべし。さて義朝、長田に討たれ給ひ、御頸上り獄門にかかり、昼は日に照らされ、夜は雨露にうたれ、後には地に落ち、人馬の蹄にかかりつべかりしを、文覚あまりいたはしさに、夜にまぎれ盗み取り、百日壇にて行ひ、今まで持ちて候」と、机なる頭に向って、「義朝、義朝」と仰せければ、しゃれたる頭の御眼より、御涙そそぎ、それかあらぬか御声かすかに聞えければ、其の時頼朝、御たもとに受けまゐらせ、高々とさし上げ、生きたる人に向って物をのたまふごとくに、「いかに候、父御前。(中略)この島に流され、二十余年の春秋を送り迎へて過ぎ行けど、少しも父の御事をば忘れ申す隙もなく、恋しく思ひ申せしに、命の内に御姿を見参らせぬる嬉しさよ。『あれは佐か、文殊か』と、今一度仰せ候へ」とて、御顔におし当てて、流涕焦がれ給ひければ、文覚も覚文も、さて御供の盛長も、みな涙をぞ流しける。
 文覚御覧じて、「それは五逆罪の人なれば、涙をかけぬ御事なり。それ、こなたへ」と仰せあって、またもとのごとくに取り納め、「いかに頼朝、聞し召せ。文覚が有らん程は、御心やすく思し召せ。平家調伏すべし」とて、十二か条の巻物を、書きこそしるし給ひけれ。(中略)頼朝なのめに思し召し、三度いただき、守りに掛け、「万事は頼み奉る。さらばお暇申す」とて、また御舟に召され、奈古屋の御所へぞ帰られける。是ぞ此の源氏繁盛のはじめとぞ聞えけれ。
幸若舞文覚
惣領を産で常盤はがつかりし
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):54‐27
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
おつむりをやつと入ると鳩がとび
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):32‐2
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
『平家物語』に「顔大にして背低し」と記述されたところから、頼朝の頭は大きいとの巷説が生まれた。右第一句は川柳作者が頼朝の生母を常盤と錯誤した句作で、大頭ゆえの難産。第二句は、石橋山合戦に敗れ、土肥の鳶の岩屋といわれる谷間で、大きな臥木ふしきにかくれひそんでいたが、追手が臥木を怪しんで弓で射たところ、数羽の鳩が飛び立ち、頼朝は追及をまぬかれたという説話による。
東鑑に影もない千羽鶴
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):90‐27
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
放生会ほうじようえ奉行職には千葉之介
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):42‐3
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
小松川短冊の儘何ン羽も来
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):119‐35
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
頼朝が鶴ヶ岡八幡の社頭で、放生会として鶴千羽の脚に黄金の短冊を付けて放ったとの言伝えがあり、むろん『吾妻鏡』などの史書には記述がない。第一句はそのキョクリ。第二句、「千葉之介」は千羽にかけたしゃれ。第三句の「小松川」は江戸期の将軍が鷹狩の鶴を飼った場所。「鶴は千年の齢」だから、頼朝の放った鶴も来るだろうとのうがち。南方熊楠によれば、金札付きの鶴が生存するとの口碑は「文政初なお存し」(全集第六巻「金札付きの鶴」)たとあるが、右の句は一八三二年(天保三)の刊で、幕末まで半信半疑で伝えられていた。
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源頼朝の関連キーワードで検索すると・・・
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1. 源頼朝
日本大百科全書
鎌倉幕府初代将軍。源義朝(よしとも)の三男。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の女(むすめ)。義朝は1143年(康治2)から45年(久安1)ごろにかけ ...
2. 源頼朝[百科マルチメディア]
日本大百科全書
源頼朝画像」(伝) 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) 〓東京大学史料編纂所 ...
3. 源頼朝
世界大百科事典
る武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。 ところで,さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視される。なぜ ...
4. みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】
デジタル大辞泉
[1147〜1199]鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱後、伊豆に流されたが、以仁王(もちひとおう)の平氏討伐の令旨を受けて挙兵。鎌倉を本拠に関東に勢力を伸 ...
5. みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】
日本国語大辞典
鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱で敗走中に捕われて伊豆に配流。治承四年(一一八〇)挙兵して石橋山の戦に敗れたが、間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権 ...
6. みなもとのよりとも【源頼朝】
国史大辞典
『頼朝会雑誌』、黒川高明『源頼朝文書の研究』、山路愛山『源頼朝』(『東洋文庫』四七七)、大町桂月『源頼朝』(『桂月全集』四)、幸田露伴『頼朝・為朝』、遠藤元男『 ...
7. 源頼朝
日本史年表
阿波, 惟方 を下野, 源頼朝 を伊豆へ配流(清〓眼抄)。 1180年〈治承4 庚子〉 8・17 源頼朝 ,伊豆国で挙兵(吾)。 ...
8. みなもとの-よりとも【源頼朝】
日本人名大辞典
1147−1199 鎌倉幕府初代将軍。在職1192-99。久安3年生まれ。源義朝の3男。母は熱田大宮司季範(すえのり)の娘。妻は北条政子。平治(へいじ)の乱後の ...
9. 源頼朝
デジタル大辞泉プラス
吉川英治の長編歴史小説。1941年刊行。 2013年05月 ...
10. 源頼朝
デジタル大辞泉プラス
山岡荘八の歴史小説。1957年刊行。 2013年05月 ...
11. みなもとのよりとも【源頼朝】
日本架空伝承人名事典
畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。 ところで、さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視さ ...
12. 源頼朝
東洋文庫
"時代をもって人を論じ,人をもって時代を論じる愛山史論中の白眉。「東北の日本と西南の日本」から説きおこし,藤原頼長・信西,平清盛, 法然, 源為朝・頼政・頼朝・ ...
13. 源頼朝[文献目録]
日本人物文献目録
関露香『源頼朝と房州』白鳥健『源頼朝』遠藤元男『源頼朝の観賞問題』佐々木慶市『源頼朝の開府』山中武雄『日本武将評伝 1』高柳光寿『源頼朝 3巻3冊』徳富猪一郎『 ...
14. Minamoto no Yoritomo 【源頼朝】
Encyclopedia of Japan
1147−1199 Founder of the Kamakura shogunate (1192−1333), the first warrior gover ...
15. 源賴朝與北條政子(見出し語:源賴朝)
古事類苑
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16. 源賴朝報池禪尼恩 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 486ページ ...
17. 源賴朝奉願書於大神宮 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
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18. 源賴朝建勝長壽院 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 320ページ ...
19. 源賴朝爲征夷大將軍 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 652ページ ...
20. 源賴朝訓誡佐々木定重 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 150ページ ...
21. 源賴朝誡奢侈 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 61ページ ...
22. 源賴朝配流 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 200ページ ...
23. 源賴朝隱臥木内 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 664ページ ...
24. 源頼朝花押[百科マルチメディア]
日本大百科全書
〓Shogakukan ...
25. 源頼朝花押[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
26. みなもとのよりとも‐ぞう[:ザウ]【源頼朝像】
日本国語大辞典
藤原隆信筆の源頼朝の肖像と伝えられる画。一幅。絹本着色。縦一三九・四センチメートル、横一一一・八センチメートル。笏(しゃく)を手にした束帯姿座像で、やや斜めから ...
27. みなもとのよりとものはか【源頼朝墓】神奈川県:鎌倉市/雪下村地図
日本歴史地名大系
[現]鎌倉市西御門二丁目 大倉幕府跡の北側、頼朝の法華堂(墳墓堂)跡に玉垣に囲まれて建つ江戸時代の層塔。総高一八六センチ。国史跡。供養塔と称すべきであろう。正治 ...
28. 源頼朝稱所領安堵下文於熊谷直實 (見出し語:熊谷直實)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 306ページ ...
29. 源賴朝持佛堂 (見出し語:持佛堂)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 317ページ ...
30. 梶原景時助源頼朝 (見出し語:梶原景時)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 664ページ ...
31. 平〓盛悔源賴朝助命 (見出し語:平〓盛)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 288ページ ...
32. 源義經於相州腰越款状於源賴朝 (見出し語:源義經)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 188ページ ...
33. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
(一一八五)二月一六日条に「今日、武衛歴覧山沢之間、於藍沢原、付参州廻李、重被遣書」とみえ、源頼朝は当地で弟範頼に手紙を送っている。建久四年(一一九三)頼朝は三 ...
34. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
坊)・笠覆寺(笠寺)などが西部および南部方面に建立された。〔中世〕鎌倉時代の初め、大屋安資が源頼朝から尾張の治安維持を命じられ、承久の乱が起きると、山田庄の実力 ...
35. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
ろう。〔中世〕会津蘆名氏の祖佐原十郎義連は、奥州藤原氏征討の戦功により、文治五年(一一八九)源頼朝より会津の地を賜ったと伝える(会津旧事雑考)。蘆名氏の会津下向 ...
36. あいはら-つねもと【粟飯原常基】
日本人名大辞典
下総(しもうさ)の豪族千葉常房の子。はじめ岩部五郎と称し,のち粟飯原氏の祖となる。子の粟飯原有胤は源頼朝につかえた。初名は常益。通称は孫平。姓は「あいばら」とも ...
37. あおうむら【粟生村】茨城県:鹿島郡/鹿島町
日本歴史地名大系
当地に居住したといわれ、文永三年(一二六六)五月一一日の諸神官補任之記(鹿島神宮文書)には「治承年中源頼朝、鹿嶋三郎政幹於被補当社之神職(中略)当郡宮本郷居住粟 ...
38. あおかげしきょかんあと【青景氏居館跡】山口県:美祢郡/秋芳町/青景村
日本歴史地名大系
「門多信行譜録」の青景九郎太郎秀通に関する伝書には「青景別府并上桑原庄給之、此時より改青景氏」とあり、源頼朝から青景別府と西隣の赤郷の上桑原(銭屋)の地頭職に補 ...
39. あおかたうら【青方浦】長崎県:南松浦郡/上五島町
日本歴史地名大系
かたのうら」とみえるのが早い例であるが、青方文書のなかでも最も古いのは建久七年(一一九六)七月一二日の前右大将源頼朝家政所下文案であり、 宇野御厨内小値賀島の地 ...
40. あおき[あをき]【青木】
日本国語大辞典
そのどちらを祖とするか、明らかではない。武蔵国高麗郡青木郷に住し、それを名字にしたとされる。源頼朝の挙兵に従い、御家人となっており、その後、鎌倉末期から南北朝期 ...
41. あおきし【青木氏】
国史大辞典
が、入間郡青木の地を領して家名としたのであろう。『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)十一月七日条、源頼朝上京中の随兵として記された青木丹五は、御家人となった青木氏の姿 ...
42. あおきし【青木氏】 : 青木氏/(一)
国史大辞典
が、入間郡青木の地を領して家名としたのであろう。『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)十一月七日条、源頼朝上京中の随兵として記された青木丹五は、御家人となった青木氏の姿 ...
43. あおざさむら【青笹村】岩手県:遠野市
日本歴史地名大系
釜石街道が通り、同街道と晴山で分れ笛吹峠越で両石村(現釜石市)に向かう道が通る。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが ...
44. あおはか【青墓】地図
デジタル大辞泉
岐阜県大垣市にある地名。赤坂と青野の間にある。古代の宿駅で、源義朝や源頼朝が逗留した所と伝える。長塚古墳・大塚古墳などがある。おおはか。  ...
45. あおはか[あをはか]【青墓】
日本国語大辞典
岐阜県大垣市の地名。古くは東山道の宿駅で、遊女が多かったことで有名。源義朝が平治の乱後逃げ着いた。また源頼朝が平宗清に捕えられた地でもある。遊塚古墳、小糠山古墳 ...
46. あおはかしゅく【青墓宿】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青墓村
日本歴史地名大系
・吾妻鏡・尊卑分脈・帝王編年記)。このように青墓の長者と源氏との関係は深く、鎌倉幕府成立後、源頼朝は建久元年(一一九〇)に上洛する途中青墓に立寄り、青墓の長者大 ...
47. 青墓宿
世界大百科事典
の間に夜叉御前をもうけていたという。このように青墓長者と源氏との関係は深く,鎌倉幕府成立後,源頼朝は1190年(建久1)の上洛の際,青墓に立ち寄り,青墓長者大炊 ...
48. あおはかのしゅく【青墓宿】
国史大辞典
現在の岐阜県大垣市青墓で、不破関の東約一〇キロにあたる。『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)十月二十九日条に源頼朝が上洛の途中ここに立ち寄り、長者大炊の息女を召し出し ...
49. あおもりし【青森市】青森県
日本歴史地名大系
詳しいことは不明である。藤原氏滅亡に関連する源義経北行伝説が、野内の鈴森にある貴船神社その他にある。源頼朝のいわゆる奥州征伐後、当県も鎌倉幕府の統制下に入り、御 ...
50. あおやぎむら【青柳村】群馬県:館林市
日本歴史地名大系
別当弘成が「佐貫庄青柳二王堂」で伝法灌頂を行ったとある。青柳集落の中心付近の道路沿い西側に、源頼朝の御家人佐貫四郎太夫広綱の館跡と伝える堀の内とよばれる一角があ ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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