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夏目漱石

ジャパンナレッジで閲覧できる『夏目漱石』の日本大百科全書・日本近代文学大事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

夏目漱石
なつめそうせき
[1867―1916]

小説家。本名金之助。慶応 (けいおう)3年1月5日(新暦2月9日)に江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区牛込喜久井町)に生まれた。

[三好行雄]

生い立ち

父は同町一帯を支配する名主小兵衛直克 (こひょうえなおかつ)、母千枝との5男3女の末子であった。父母晩年の子として疎まれ、生後まもなく里子に出され、続いて塩原昌之助の養子になった。9歳のとき養父母が離婚したため夏目家に帰ったが、父母はかならずしも温かく迎えなかった。肉親の愛に恵まれなかった幼時の原体験は漱石を他人の愛情に敏感な内向型の人間に育て、また、肉親のなかにさえ他者をみる非情な人間観を培った。後年の漱石文学が愛とエゴイズムの種々相を描くことになる遠因の一つである。初めは漢学好きの少年として二松学舎 (にしょうがくしゃ)などに学んだが、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)に進むころから英文学研究を生涯の仕事として選び、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(東大文学部)英文学科に入学した。予備門時代に正岡子規 (まさおかしき)を知り、漢詩文を介して親交を結び、俳句の手ほどきを受けた。1893年大学を卒業、一時大学院に籍を置いたが、東京高等師範学校講師、第五高等学校教授を経て、1900年(明治33)には文部省から英語研究のためイギリス留学を命じられるなど、英文学者としての道は順調に伸びていった。その間、1895年から翌年にかけて愛媛県の松山中学校の教師を勤めたが、その体験は『坊つちやん』(1906)に生かされている。

[三好行雄]

小説家の誕生

イギリス留学は足掛け3年に及んだ。帰国後、1903年(明治36)に第一高等学校教授に就任、兼ねて文科大学の講師として英文学を講じた。大学での講義をまとめた『文学論』(1907)と『文学評論』(1909)は、日本人の手になる最初の英文学研究として評価が高い。しかし、漱石自身は早くから東洋の伝統的な文学精神と英文学のパトス(情念)との矛盾に悩み、日本人として異国の文学を研究することの困難と不安を感じ続けていた。教師生活にも耐えがたい嫌悪を覚えるようになった。加えて、1896年に結婚した妻鏡子との不和、旧養父母との金銭上のトラブルなど家庭内の心労も重なり、学生時代からの神経衰弱が高じて、強度の発作に悩むことも多かった。当時の危機的な日々はのちに『道草』(1915)で描かれるが、そうした暗鬱 (あんうつ)な心情のカタルシスとして書かれたのが、処女作の『吾輩 (わがはい)は猫である』(1905~1906)である。自他を含めて、現実の地平に集う衆愚の生活相が鋭く風刺され、辛辣 (しんらつ)に笑い飛ばされている。近代文学に類のないユニークな作風で、闊達 (かったつ)自在な語り口と相まって多くの読者を集め、小説家としての地位を不動のものにした。併行して『倫敦塔 (ロンドンとう)』や『幻影 (まぼろし)の盾』(ともに1905)などのロマンチックな短編も書き継がれ、『坊つちやん』では多感、直情のさわやかな青年像の創出に成功した。

[三好行雄]

漱石文学の原点

初期の文学観は『草枕 (くさまくら)』(1906)に具体化されている。「非人情」の美を求める画家の感想に託して、煩わしい日常生活を逃れ、趣味と唯美の世界に遊ぶ「彽徊 (ていかい)趣味」をよしとしたのである。しかし、漱石はやがて小説家としての自覚を深めるとともに、出世間の芸術観を自ら否定し、現実と正面から対決する文学を目ざすに至った。同時に、創作に生涯を賭 (か)ける決意を固め、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社した。入社第一作の『虞美人草 (ぐびじんそう)』(1907)は誇り高い自我の女を創造して利己と道義の対立を描いているが、この作あたりから漱石の作風は明瞭 (めいりょう)に変化し、日本の近代社会に潜む矛盾や葛藤 (かっとう)を正面から描き出そうとする方向に向かった。『三四郎』(1908)では純朴な青年の愛の形とともに、「迷羊 (ストレイシープ)」に似た青春の危うさが描かれ、『夢十夜』(1908)も自分のみた夢に擬して、同時代文明の批判や人間性の謎 (なぞ)を語っている。また、『三四郎』のヒロインを通じて問われた個の自立と我執の問題は、さらに『それから』(1909)と『門』(1910)の三部作に発展し、愛をめぐる人間心理の明暗を執拗 (しつよう)に追求するテーマの端緒を開くことになった。『それから』は姦通 (かんつう)という極限状況を設定して性愛の倫理的根拠を探り、『門』は背徳によって結ばれた夫婦の浄福と不安を描いて、癒 (い)やしがたい近代人の孤独を彷彿 (ほうふつ)する。漱石はやがて『現代日本の開化』(1911)について講演し、西欧列強の圧力によって開国した性急な近代化の外発性を厳しく批判することになるが、そうした同時代文明への懐疑と知識人の命運の洞察とに、漱石文学の原点があった。

[三好行雄]

人間認識の深化

1910年、漱石は胃潰瘍 (いかいよう)の療養に赴いた修善寺 (しゅぜんじ)温泉で、大量の吐血のため人事不省に陥り、いわゆる「三十分の死」を経験した。その間の心情は『思ひ出す事など』(1910~1911)に回想されているが、「死すべき者」としての人間認識がさらに深まるとともに、我執への批判もいっそう徹底して、『彼岸過迄 (ひがんすぎまで)』(1912)以下『行人 (こうじん)』(1912~1913)、『こゝろ』(1914)を経て『道草』(1915)、『明暗』(1916)に至る一連の知識人小説が書かれることになる。『彼岸過迄』は軽い筆致の作品だが、実生活で幼い娘を亡くした作者の感慨が基調に沈み、死者のあわれと対照して浮薄な生の諸相が強調される。『行人』は傲慢 (ごうまん)な自我に憑 (つ)かれた知識人の孤独地獄を描いて、我執にとらわれた愛の不毛を告知する。他方、『彼岸過迄』と『行人』の間に明治帝の崩御と乃木希典 (のぎまれすけ)の殉死があり、漱石はとくに乃木の殉死に大きな感動を受けた。『こゝろ』はその感動を契機として書かれた作品で、徹底した自己否定を貫き、他者と自己を同時に傷つけるエゴイズムの限界を見極めた主人公は、大正という新しい時代を迎えて「明治の精神」に殉死する。続く『道草』ではイギリス留学から帰国後の数年間に題材を求め、実生活の記憶を再構成しながら相対世界の暗鬱な精神的風景画が描かれている。いずれも、自己の思想の「時勢遅れ」(こゝろ)を自覚しながら、なお現在へかかわるための倫理的根拠を確認しようとする意図が読み取れる。「則天去私」の心境について語り始めたのも、同じころである。漱石はこうして、我執を超える絶対の倫理を憧憬 (しょうけい)しながら、人間存在の深奥に潜む暗い部分を直視する『明暗』を書き始めた。日常のさまざまな人間関係のはらむ利害と愛憎、打算と策略のおぞましい人間喜劇を執拗に追い続けた長編であるが、起稿後まもなく宿痾 (しゅくあ)の胃潰瘍が悪化し、ついに起 (た)てなかった。大正5年12月9日、大内出血を繰り返して没し、病臥 (びょうが)の間に書き継がれた『明暗』は未完のままに中絶した。享年50歳であった。

[三好行雄]

漱石文学の影響

漱石の文学は虚構と想像力による文学空間の提示という、本格的な客観小説の方法を最後まで失わず、また、強健な思想性と倫理性を貫くことで、同時代の自然主義とは明確な一線を画した。東洋と西洋の亀裂 (きれつ)、愛とエゴイズム、知識人の孤独と不安など多彩な主題を描いたが、それらは現代の生と状況にもかかわる重要な問題として多くの読者を集めている。長編小説のほか、『文鳥』『永日 (えいじつ)小品』などの短編や俳句・漢詩の秀作もある。漱石はまた多くの門下生に慕われ、師弟交歓の「木曜会」を週一度、自宅で開いた。小宮豊隆 (とよたか)、森田草平、鈴木三重吉、阿部次郎、内田百〓 (ひゃっけん)、野上弥生子 (やえこ)、芥川龍之介 (あくたがわりゅうのすけ)らの俊秀が育ち、大正期の市民文学に大きな影響を与えている。東北大学に旧蔵書が架蔵され、熊本市とロンドンに記念館がある。

[三好行雄]



日本近代文学大事典

人名
夏目 漱石
なつめ そうせき
慶応3・1・5、新暦2・9~大正5・12・9
1867~1916
本文:既存

小説家。江戸牛込馬場下横町(現・新宿区牛込喜久井町一)に生る。父は小兵衛直克(五〇歳)、母は後妻で千枝(四一歳)、五男三女の末っ子で、金之助と命名される。夏目家は江戸町奉行支配下の町方名主で、この地方の実力者。しかし歓迎されぬ子として、生後まもなく四谷の古道具屋(一説に八百屋)に里子に出され、また二歳のときに四谷大宗寺裏の門前名主塩原昌之助の養子に出された。養父母に溺愛されたが、老後の扶養をめあてであることを、早くも知った。一〇歳のとき、養父母の不和から塩原姓のまま生家にもどり、五年後、実母の死に遭った。この間、小学校を三度転じ、東京府第一中学に学んだが、二年にして、二松学舎に転じて、漢学を修めた。漢学から文学への志望を抱き、唐宋の詩文から文章の学、左国史漢から有用の学、すなわち文人的要素と国士的要素から文学観念を懐いていた。文明開化の時代に漢学を迂遠と考えて英学に転じ、成立学舎に英語を学び、一八歳で、大学予備門(のちの第一高等中学)に入った。中村是公、芳賀矢一、橋本左五郎は予科で同級であった。腹膜炎を患い、原級にとどまりなどしたが、発奮して、卒業まで首席を通した。二一歳の年、長兄、つづいて次兄を結核で失い、翌年、実父は夏目姓に復籍させた。

 明治二一年九月、本科一部に進み、英文科の専攻を決意した。同級に正岡子規がおり、子規の漢詩文集『七艸集』を漢文で評し、漱石と号した。この号は蒙求を出典とし、偏屈者の謂であった。夏、友人と房州に遊び、子規にならい漢詩文集『木屑録』を草し、子規の批評を乞うた。爾来、両者は親交を結んだ。二三年九月、東京帝大文科大学英文科に入り、文部省貸費生、ついで翌年に特待生となった。お雇い教師J=M=ディクソンのために『方丈記』を英訳し、みごとな出来ばえに賞讃を博した。しかし英語で文学上の述作を、との志はくずれ、英文学に欺かれたような不安がめばえた。

 眼科医で出会った銀杏返しの女との初恋は虚しく、敬愛する末兄和三郎の後妻登世は悪阻がもとで歿し、正体も知れぬ心に悩まされ、もちまえの慈憐主義にも拘らず、厭世主義に陥った。この心の苦闘が、このころの『老子の哲学』『英国詩人の天地山川に対する観念』などを裏づけている。明治二六年七月に大学を卒業し、大学院に残り、英文学を深く究めるとともに、東京専門学校、東京高師の英語教師となった。哲学科の小屋保治(のちの大塚)を知り、大塚楠緒子(久寿雄)との間に三角関係が生じたという説がある。いずれにせよ、教師としての適格性の疑い、血痰を吐き、結核の疑いや、恋愛の苦悩などから神経を患い、鎌倉円覚寺に参禅をしたのち、二八年四月、愛媛県尋常中学(松山中学)の英語教師となって、松山に赴任し、自己に沈潜し、不可解な人生を根源から究めようとした。日清戦争に従軍して喀血した子規を温かく迎え、俳句や漢詩を娯しんだ。

 翌明治二九年、三〇歳で貴族院書記官長の娘中根鏡子と結婚し、五高教授に転じ、熊本に一家を構えた。この結婚は幸福なものでなく、教師生活に安住することもできず、文学的な生活を送りたいという願いを強めたが、適当の機会を得ることができなかった。この間、重要な感想『人生』(「龍南会雑誌」明29・10)、そのほか『トリストラム・シヤンデー』(「江湖文学」明30・3)などの英文学研究の一端をしめす文章を発表した。

 明治三三年五月、三四歳で、文部省留学生として、英語研究のために、満二ヵ年英国留学を命ぜられ、一〇月末、ロンドンに着いた。一年あまりシェイクスピア学者W=J=クレイグの個人教授をうけたが、英国学者の実態を知り、かれらについて抱いた買いかぶりを脱却した。自分の納得できぬ外国学者の言説を疑い、自家独自の見識をもって、独力で自己の学問思想を組織する信念をたてた。そこで二年有四月、下宿籠城主義をとって、古今の英文学書を蒐集耽読し、心理学的社会学的方法をもって、英文学の本質を究める大事業をもくろんだ。『文学論』への方法論的自覚であった。同時に「自己本位」を倫理的な問題として、奥深いところで自己の方法化の問題をすすめ、Xなる人生に取組む自覚であった。この孤独な激甚な努力は強度に神経を痛め、漱石発狂の噂となり、文部省にまで伝わった。子規死去の報をきいた年、帰朝の途についた。

 明治三六年一月、東京に帰ると三月、駒込千駄木町五七に移転。一高、および小泉八雲の後任として帝国大学文科大学の講師を兼任した。東大ではロンドンから持って帰った宿題『文学論』、のちには『十八世紀英文学』(『文学評論』)を論ずるほか、『マクベス』『リヤ王』『ハムレット』などの綿密なシェイクスピア評釈に打込んだ。当初こそ小泉八雲の留任運動の飛沫をあびて不快な思いをしたが、熊本以来の寺田寅彦をはじめ、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、野上豊一郎らの門下生を周辺にあつめた。自己の学問的苦業や家族的煩瑣に神経を痛めつけられる中で、門下生との饒舌は救いであり、さらに高浜虚子にすすめられて、喜んで写生文の筆をとった。滑稽文学『吾輩は猫である』の成立である。これは同時に作家漱石の誕生をうながした。『吾輩は猫である』ははじめ短編として着手され、評判のあまり続編を書き、一〇回にわたって「ホトトギス」に連載された。多年の鬱憤をぶちまけて、資本制社会の偽瞞を諷刺するとともに、「太平の逸民」たる知識人たちの「良心と自由の世界」にメスを加えて、これを批判することをも辞さなかった。反面において『倫敦塔』(「帝国文学」明38・1)『カーライル博物館』(「学鐙」明38・1)『幻影の盾』(「ホトトギス」明38・4)、『琴のそら音』(「七人」明38・5)『一夜』(「中央公論」明38・9)『薤露行』(「中央公論」明38・11)『趣味の遺伝』(「帝国文学」明39・1)の七編の普通に浪漫的といわれる短編を発表、のち、『漾虚集』(明39・5 大倉書店)にまとめた。七編中四編までがロンドン留学を記念する四部作であり、内三編が中世英国に取材し、浪漫的であるが、その背後に自己の存在の根源にある謎の部分に暗い眼をむけた作品として新たに照射されている。逆にいえば、自我の奥底にひそむ不条理な生を『漾虚集』にさぐりながら、その憂さを笑わるべき人間に晴らしたのが『吾輩は猫である』であった。

『吾輩は猫である』と同質の諷刺文学を『坊つちやん』(「ホトトギス」明39・4)に書いたのちに、『草枕』(「新小説」明39・9)『二百十日』(「中央公論」明39・10)『野分』(「ホトトギス」明40・1)を書いた。『野分』を除く三編は『鶉籠』(明39・1 春陽堂)にまとめられた。『坊つちやん』に平凡な日本人の善悪両面を描いたあとで、『草枕』では不浄な現世の外に出て、清浄な別乾坤に遊ぶ「俳句的小説」を書いた。主人公の画工を藉りて、出世間的な「非人情の天地」を成立させる東洋的な芸術論が一編の趣旨であるが、この余裕派小説を可能にしたものは、日露戦争を背景に、遠く祖先の罪を負う女主人公の謎的存在に由来することをほのめかしている。いずれにせよ、俳句的小説を書きながら、これを一面としてしりぞけ、『坊つちやん』以後の正義感、道義感に生きる『二百十日』や『野分』に、むしろ文学の本流を考えていた。明治三九年一一月、読売新聞社から招聘の話があったが、条件が折合わなかった。三月、本郷区西片町四番地に移転した。

 翌明治四〇年二月、大阪朝日新聞社から同様の話があり、ついで東京朝日の池辺三山の来訪となって、意気に感じ、綿密な契約のうえ、三月、入社した。これよりさき、京都帝大から招聘があり、また東京帝大から英文学教授の内示があったが、これを辞した。当時、大学教授の職を断り、世間から水商売同様に賤しまれる新聞記者に身を売り、意気軒昂としていた。漱石の市民的見識である。

 五月三日、『入社の辞』を掲げ、美術学校の講演『文芸の哲学的基礎』(「朝日新聞」明40・5・4~6・4)を載せ、『文学論』(明40・5 大倉書店)を刊行し、最初の新聞小説『虞美人草』(「朝日新聞」明40・6・23~10・29)を連載した。いよいよ職業作家として従来の余技的態度を一擲し、「文芸上の述作を生命とする」文学的生涯に入った。『文芸の哲学的基礎』や『文学論』が語るように、文学に一見識をもった思想的作家の誕生である。

 最初の新聞小説『虞美人草』を執筆するにあたり、文章上も、結構上も、固くなって凝りすぎ、古風な美文意識と物語意識(勧懲意識)をもって終始するにいたった。しかし漱石が心血を注いだというのが評判になり、三越が虞美人草浴衣を、王宝堂が虞美人草指輪を売出し、新聞売り子が呼売りする騒ぎであった。漱石入社は商策としても成功であった。

『虞美人草』連載中に牛込区早稲田南町七番地に移転した。

 この極彩色の『虞美人草』の反措定として、一青年の体験を素材に、「揮真文学」の実験として、『坑夫』(「朝日新聞」明41・1・1~4・6)が書かれた。一九歳の良家の青年が恋愛事件から家出して、足尾銅山に坑夫生活をする。入山の事情や坑夫生活を後年の回想という書き方で、性格の輪廓をはずし、心の状態を、「意識の流れ」に近い方法で追求した二十世紀小説の先取として注目すべき成果をみせている。実際、人間の意識には外部に現れぬ「正体の知れない」「潜伏者」のあることを確認し、そのまとまりのつかない事実を事実のままに意識的に記した最初の作品であった。ついで書かれる小品『文鳥』(「朝日新聞」明41・6・ 13~21)や『夢十夜』(「朝日新聞」明41・7・25~8・5)は、この「潜伏者」の自覚が「夢」の形で感覚的に形象化されたものにほかならず、漱石の心のあり方を知るうえで、きわめて重要な作品となり、諸説がある。とにかく、自己の内部の生の深淵に、「潜伏者」の自覚に、深く降り立ち、現実的に定着し、爾後の作品を解く鍵を含んでいる。

 ついで青春小説『三四郎』(「朝日新聞」明41・9・1~12・29)、『永日小品』(「朝日新聞」明42・1・1~2・14)を書き、『文学評論』(明42・3 春陽堂)を刊行し、『それから』(「朝日新聞」明42・6・27~10・14)を連載、中村是公と満韓に旅行した。『三四郎』は、青春小説であるとともに、「無意識の偽善」を取りあげた点で、「潜伏者」の問題の展開である。『永日小品』はロンドン生活の回想や身辺のできごとの感想やコントをものしながら、かならずしものどかな作品ではなく、内部の声にきき入っているところがある。これが直接に『それから』の主題となると、偽善の崩壊と生死の淵とが現れてくる。そして満韓旅行を『満韓ところどころ』(「朝日新聞」明42・10・21~12・30)に書いた。ただし「朝日文芸欄」を開設し(明42・11・25~44・10・23)、これを主宰したので、全行程の半ばに達しないところで打切った。

「朝日文芸欄」は世間からは反自然主義の牙城と目されたけれど、「公平と不偏不党」を標榜し、自然主義を取入れていた。『それから』につづいて、『門』を掲げ、そのじみな写実性において、自然派から迎えられた。もちろん、『門』は『それから』の後日譚の趣があり、平凡な夫婦生活にも、過去の罪業からきた生の深淵に脅かされる不安をみせていた。

 漱石は神経衰弱が軽快する一方、生来の胃病に悩まされ、満韓旅行で悪化させた。『門』を擱筆すると、長与胃腸病院で、胃潰瘍の診断を受けて入院した。退院すると、伊豆の修善寺温泉に転地療養したが、逆結果を生み、八月二四日、大吐血、危篤に陥った。いわゆる「修善寺の大患」であり、人間観、死生観に大きな影響を与えた。二ヵ月後東京に帰り、長与病院に再入院後、七ヵ月ぶりに帰宅した。入院中に書いた体験記『思ひ出す事など』(「朝日新聞」明43・10・29~44・2・20)に当時の心境が描かれている。「仰臥人如啞。黙然見大空。大空雲不動。終日杳相同」生命力の厚薄との関係で自己の存在をとらえ、暫時の安息をなつかしんだ。長与病院に再入院中、博士会の推薦で文学博士の学位を授与されたが、固辞し、文芸委員会にも参加しなかった。病がやや軽快すると、長野で講演、その夏、大阪朝日から関西各地で講演した。『道楽と職業』『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』などはその題名で、のちに『社会と自分』(大2・2 実業之日本社)に収録された。近代社会における職業の分化と専門化が人間を不具にし、日本の近代化が内発的ではなく、外発的であり、内容が変われば必然的に形式も変わるべきであるなどの文明批評に平生の信念を吐露した。しかし真夏の講演に胃潰瘍が再発し、入院治療した。帰京後も痔瘻のために入院手術した。

 この間、漱石入社に骨を折った主筆池辺三山の退社、「朝日文芸欄」の廃止などの事件があり、漱石も一度は三山に殉じて辞表を出したが、慰留された。一一月二九日、五女ひな子の急死に遭い、痛恨久しいものがあった。『門』に次いで一年半ぶりに書いた長編『彼岸過迄』には、「雨の降る日」の一章を設け、幼女を失った悲しみを永久に遺した。『彼岸過迄』は短編を重ねて長編小説を構成する技法を採用した最初の小説である。相思相愛の男女が結婚しようとして結婚できぬ根源を内部的に自我に問いつめ、結局、自然を「考へずに観る」超越的心境を獲得することで自我意識を脱却した。しかし漱石は実存的関心からこれで問題が解決したとは考えられず、逆に自意識の深淵に深くおりたつ。そこで『行人』において主人公を自我経から狂気に追いつめ、また『こゝろ』においてもう一つの結論、自殺に追いつめた。漱石は『彼岸過迄』の執筆中に池辺三山の急死(明45・2・28)に遭い、これを追悼したが、『行人』の執筆中には三度胃潰瘍の発病を見、中絶し、その病苦が神経衰弱の悪化とあわせて近代知識人の不安と寂寞と孤独となって、作品に凝集した。『こゝろ』においては先生の自殺を明治天皇の崩御から明治の精神との関連で考え、そこに特別の意義をおいた。しかも漱石は、『こゝろ』の擱筆後、四度、胃潰瘍の発作に病臥した。起床すると、学習院で『私の個人主義』を講演、さらに随筆『硝子戸の中』(「朝日新聞」大4・1・13~2・23)を発表、良寛の書を愛する心境を吐露し、京洛への旅に神経を休めた。

 京都への旅で胃潰瘍に病臥したが、帰京すると、『道草』を執筆した。『硝子戸の中』でみずからの生い立ちを語ったことが機縁となり、いままでの実験的な小説の方法とは異なった自伝の方法で、英国留学から帰国した教師時代、『吾輩は猫である』を書かせた家族生活の実相を描いた。このころ芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らの若き門下生が出入りして、木曜会を若返らせるとともに、糖尿病に罹り、これがために昂進した神経衰弱を慰めるところがあった。大正五年五〇歳を迎え、新年随想『点頭録』(大5・1・1~21)に、二年目に入った第一次世界大戦について軍国思想を批判し、しばらく養生に過ごしたのちに、最後の未完に終わった小説『明暗』にとりかかった。相変わらず醜悪な人間の生臭い百鬼夜行を小説につづりながら、漱石は南画風な水彩画を書き、良寛の書を読み、漢詩をつづり、道をもとめて、「則天去私」の境地に思いを馳せていた。

 一一月二二日、五度目の胃潰瘍の発作に大内出血し、一二月九日夕刻逝去した。鎌倉円覚寺の釈宗演により文献院古道漱石居士の戒名が贈られ、雑司ケ谷墓地におさまった。

『漱石全集』全一四巻(大6~8 岩波書店)『漱石全集』全一九巻(昭10~12 岩波書店)『漱石全集』全一六巻(昭40~42 岩波書店)『漱石文学全集』全一〇巻、別巻一(昭45~49 集英社)などがある。

(瀬沼茂樹 1984記)

代表作

代表作:既存
吾輩は猫である
わがはいはねこである
長編小説。「ホトトギス」明治三八・一~三九・八。上明治三八・一〇、中明治三九・一一、下明治四〇・五、大倉書店、服部書店刊。中学の英語教師珍野苦沙弥とその家族、この家に出入りする美学者迷亭、理学者水島寒月、哲学者越智東風などの「太平の逸民」すなわち自由な知識人の生活態度や思考方法を猫の眼を通して深刻悲痛に諷刺した。そこには理性の眼の届かない無気味な体験、実存的自覚が語られ、哲学者八木独仙による禅家風の救抜が暗示されている。他方、苦沙弥や寒月にからんで、実業家金田やその糸をひく俗人世界が描かれ、知識人の世界に対立した。知識人に対照して世俗人の世界を描き、日露戦争前後を通じて日本の近代化の性格、あるいは近代的進歩への疑惑を諷刺した。スウィフトの『ガリヴァ旅行記』その他に示唆された漱石の破天荒の諷刺文学というべきで、にわかづくりの追随者を許さぬほどに独創的で斬新であった。
それから
長編小説。「朝日新聞」明治四二・六・二七~一〇・一四。明治四三・一、春陽堂刊。長井代助は、明治という時代と社会との中に、自己の趣味、美的感受性によって生きるために、エピクロス主義を用意する優れた知識人である。職業に就かず、妻を娶らず、父の財産に寄食する「高等遊民」である(講演『道楽と職業』参照)。代助にもひそかに愛した三千代があったが、その主義から友人の平岡に譲った。しかるに平岡の失敗と遊蕩とから三千代が不幸になっていると知ると、一度偽善として否定した「渝らざる愛」を自覚し、「自然の児」になろうと決意し、「僕の存在には貴女が必要だ」と三千代に告白し、その信奉する哲学を棄て、家から勘当され、経済的支柱を失い、職業を捜して炎天下に飛び出していく。ここに提出されている生活慾と道義慾との問題は同時代に大きな影響をおよぼし、武者小路実篤、阿部次郎、小宮豊隆らによって評論が書かれた。
もん
長編小説。「朝日新聞」明治四三・三・一~六・一二。明治四四・一、春陽堂刊。野中宗助お米夫妻は、代助三千代の後身であり、下級官吏として、崖下の借家にひっそりと暮らしている。お米はもと友人の妻であったが、社会に背いて結ばれ、片隅の幸福にひたっていた。しかしその罰か、お米には子が生れず、かつての夫の友人が上京してくると聞いて、胸が騒いだ。宗助は心の平安を求め、自力得道の禅院の門を叩いた。しかし結局安心は得られず、救われぬ人だと思いながら、山門を下った。留守の間に、友人は来て、蒙古に去り、宗助はわずかながら昇給した。春の訪れの中に二人は小康を得、お米は暢気に「難有いわ」といえば、宗助は男性として「又ぢき冬になるよ」と暗く答えないわけにはいかなかった。小市民的幸福のかげにひそむ精神の地獄にメスを入れた。
彼岸過迄
ひがんすぎまで
長編小説。「朝日新聞」明治四五・一・一~四・二九。大正元・九、春陽堂刊。大学出の田川敬太郎は、就職の必要から、友人須永市蔵の叔父の実業家田口要作を知り、さまざまな奇妙な経験を重ね、須永、田口、もう一人の叔父の資産家松本恒三ら、その親族関係を知る。田川の冒険と探偵とを通じて、友人須永市蔵と許婚者田口千代子との関係に近づき、その実相を明らかにすることで、本編の主題に入っていく。須永は真実千代子を愛しながら、自我に忠実に生きようとするかぎり、諸種の事情に妨げられ、精神的孤独と寂寞に陥り、手足を出すこともできぬ。「恐れる男」と「恐れない女」との微妙な関係、須永の孤独な内面の悲劇を理解できるものはいない。実は須永には出生の秘密があり、煩悶のすえ、苦悩を癒やしに関西に旅立つ。そして自意識過剰な彼も、自然を「考へずに観る」ことのできる調和的な心境に達したと思う。しかし人間の心の深淵に深く探りを入れることで、作者はいよいよ暗い眼をして迫っていかなければならぬ。
行人
こうじん
長編小説。「朝日新聞」大正元・一二・六~二・二・四中絶後、大正二・九・一八~一一・一五。大正三・一、大倉書店刊。長野一郎は「詩人らしい純粋な気質」をもった学者で、妻のお直と平凡な結婚をして、日夜をともに過ごしている。彼は妻を愛そうとするが、その本体がつかめぬために、信じることができず、二人の間に距離ができて悩んでいる。この夫婦の関係は前作の須永と千代子との関係と同じで、一郎は妻の本体を確かめるために、弟の二郎との旅行をすすめたりする。結局、一郎は人間の我執だけではなく、人間存在まで問いつめ、不安と不信とを深める。「僕は絶対だ」と自己絶対化の道を歩むがゆえに、世間も妻も許せず、孤独と寂寞とに陥るだけである。この苦悩は、死か狂か宗教か、三つのうちのどれかに結着を見いだすほかはない。しかし一郎は宗教に入れず、死に赴けず、あるいは正気を失っているのではないかと疑う。一郎はそんな自分を考えては怖れ、無心の境地が手に届かぬまでに遠いことを知る。ここに心身の病とたたかう漱石がいる。
こゝろ
こころ
長編小説。「朝日新聞」大正三・四・二〇~八・一一(初出は『心』)。大正三・九、岩波書店刊。先生は新潟の素封家の一人息子で、二〇歳で両親を一度に失い、叔父が遺産を管理していたが、信頼していた叔父に遺産を詐取されてしまった。先生はすべての人間にたいする信頼を失ったが、自分だけはだいじょうぶだという自信をもっていた。しかし下宿の娘にたいする愛で、親友のKと争い、これを裏切り、死にいたらしめた。自分も我執や嫉妬に支配されて、叔父とすこしも違わないことを知った。先生は娘と結婚し、遺産でつつましい生活をつづけながら、罪の意識にさいなまれていた。先生は妻を愛するから、事情を打あけて、妻とともに苦しむことを避けていた。明治天皇の崩御、乃木大将の殉死に触発され、先生は「自由と独立と己れ」という明治の精神の犠牲者として自殺し、いっさいの始末をつけた。漱石は先生を殺してみずからは生きのび、新たな展開をはかるのである。
道草
みちくさ
長編小説。「朝日新聞」大正四・六・三~九・一四。大正四・一〇、岩波書店刊。健三は海外留学から帰って大学の教師になり、「異様な熱塊」をそそいで、講義と著述に心せわしく暮らしている。「自分は自分のために生きて行かねばならない」という信念をもっているが、高級官僚の娘である妻のお住は、実家の生活と比較して、良人を金儲けの下手な偏屈者くらいにしか評価していない。その健三の前に、十五六年前に縁の切れたはずの養父島田が現れ、この「過去の亡霊」に悩まされる。島田ばかりではなく、姉や兄、さては事業に失敗した妻の父などが現れ、一族の出世頭である健三にまつわり、金銭その他の重荷が加わる。そのうえ、お住との夫婦関係もしっくりといかない。健三は金を工面して、島田との関係を清算し、妻の父を助けたりして一段落する。妻は養父との関係がかたづき安心だと喜ぶが、「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない」と、健三は吐き出すようにいった。漱石が『吾輩は猫である』を書いている当時の唯一の自伝小説で、小説上、時間が圧縮されている。
明暗
めいあん
長編小説。「朝日新聞」大正五・五・二六~一二・一四、中絶。大正六・一、岩波書店刊。結婚半年足らずの夫婦の十日余のできごとが精密に描かれている。津田由雄は父の弟藤井に育てられ、父の級友吉川の会社に勤め、吉川夫妻の媒酌でお延と結婚した。津田夫妻はそれぞれの我執や虚栄のために、たえず心理的に争い、融和しない。津田は痔の手術のために入院し、吉川夫人の勧めで、後養生に清子の療養している温泉場におもむく。清子は、津田がかつて吉川夫人に紹介され、結婚するつもりでいた女で、突然津田から離れ、別の男と結婚した。津田は、没我無技巧の清子に会って、なにゆえに自分から去ったのかをただすつもりであった。津田夫婦を挾んで、妹のお秀、叔父の岡本、ルンペンの小林などが、金銭や愛情の問題からからみ、百鬼夜行のありさまをみせる。清子が津田の我執の救いになるか、小林の思想的立場がいかなる発展をもたらすか、漱石の死によって永遠に疑問として残される。
(瀬沼茂樹 1984記)

全集

  • 『漱石全集』全14巻(1917~19 岩波書店)
  • 『漱石全集』全19巻(1935~37 岩波書店)
  • 『漱石全集』全16巻(1965~67 岩波書店)
  • 『漱石文学全集』全10巻・別巻1(1970~74 集英社)
  • 『定本 漱石全集』全28巻 別巻1(2016~20 岩波書店)
  • 分類:小説家
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    1.夏目漱石画像
    日本大百科全書
    小説家。本名金之助。慶応(けいおう)3年1月5日(新暦2月9日)に江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区牛込喜久井町)に生まれた。三好行雄生い立ち父は同町一帯を支配す ... ...
    2.夏目漱石[百科マルチメディア]
    日本大百科全書
    ©小学館ライブラリー ... ...
    3.夏目漱石
    世界大百科事典
    えるべきで,固定的な理念とみるのは,晩年の漱石の実像にそぐわない。桶谷 秀昭 道草 木曜会(夏目漱石) 虞美人草(小説) 門 則天去私 ... ...
    4.なつめ‐そうせき【夏目漱石】画像
    デジタル大辞泉
    [1867〜1916]小説家・英文学者。江戸の生まれ。本名、金之助。英国留学後、教職を辞して朝日新聞の専属作家となった。自然主義に対立し、心理的手法で近代人の孤 ... ...
    5.なつめ‐そうせき【夏目漱石】
    日本国語大辞典
    小説家。英文学者。東京出身。本名、金之助。帝国大学英文科卒。大学時代正岡子規と親交があり俳句をつくる。松山中学教諭、五高教授を経て、明治三三年(一九〇〇)イギリ ... ...
    6.なつめそうせき【夏目漱石】
    国史大辞典
    聞集成夏目漱石像』、同編著『雑誌集成夏目漱石像』、津田青楓・夏目純一監修『夏目漱石遺墨集』、吉田精一・荒正人・北山正迪監修『図説漱石大観』、小宮豊隆『夏目漱石』 ... ...
    7.なつめ-そうせき【夏目漱石】画像
    日本人名大辞典
    1867−1916 明治-大正時代の小説家,英文学者。慶応3年1月5日生まれ。松山中学,第五高等学校で英語教師をつとめ,明治33年文部省留学生としてイギリスに留 ... ...
    8.夏目漱石[文献目録]
    日本人物文献目録
    憶ひて』坂元雪鳥『夏目漱石』-『夏目漱石』井部愛子『夏目漱石』井上百合子『夏目漱石』片岡懋『夏目漱石』川副国基『夏目漱石 』河東田教一『夏目漱石』小泉信三『夏目 ... ...
    9.NatsumeSōseki【夏目漱石】画像
    Encyclopedia of Japan
    1867−1916 Novelist and scholar of English literature. Real name Natsume Kinnosuk ... ...
    10.夏目漱石(年譜)
    日本大百科全書
    1867(慶応3)1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(現、東京都新宿区牛込喜久井町)に誕生。本名は金之助。里子に出され、翌年塩原家の養子となる1876( ... ...
    11.AutobiographyofaFlea[タイトル]
    e-プログレッシブ英和
    を蚤の目をとおして描き,英国ヴィクトリア朝の偽善的なモラルを風刺している;本書を参考にして,夏目漱石は『吾輩は猫である』を創作したという説もある. ... ...
    12.PrideandPrejudice[タイトル]
    e-プログレッシブ英和
    舞台に,ベネット家の娘エリザベスを中心に繰り広げられる恋愛・結婚騒動を描く;明るい諧謔と鋭い風刺に富む作品で,夏目漱石が「則天去私」の作品例としてあげたことで知 ... ...
    13.TheEgoist[タイトル]
    e-プログレッシブ英和
    主人公に,当時の上流階級に生きる人々の虚栄,うぬぼれ,利己心といった人間の愚かしさに光をあてたコメディー;夏目漱石の文体に多大な影響を与えたとされる. ... ...
    14.ああ
    日本国語大辞典
    ああも仕やうか、斯うもしやうかと漸(やっ)との事で一策を案じ出し」*坊っちゃん〔1906〕〈夏目漱石〉一一「ああやって喧嘩をさせて置いて」(2)(「ああだ、ああ ... ...
    15.ああ‐あ
    日本国語大辞典
    有り、仮寐する者有り、欠伸又欠伸唖々々(〈注〉アアア)」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一「あーあと大(だい)なる欠伸(あくび)をした」(2)ため ... ...
    16.ああ‐ああ
    日本国語大辞典
    」*二百十日〔1906〕〈夏目漱石〉三「けふは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」(2)相手の話し掛けに対して気軽に同意して答えるときのことば。*門〔1910〕〈夏目 ... ...
    17.あい【愛】
    日本国語大辞典
    也」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一「どうしても我等猫族が親子の愛(あい)を完(まった)くして美しい家族的生活をするには」* ... ...
    18.あいあい‐がさ[あひあひ:]【相合傘】画像
    日本国語大辞典
    是は落書にて女郎芸子の色男と二人りの名を仇書にして傍輩の芸子女郎色事をそやすなり」*虞美人草〔1907〕〈夏目漱石〉一四「撫でて通る電信柱に白い模様が見えた。す ... ...
    19.あい‐う・つ[あひ:]【相打】
    日本国語大辞典
    云ぞ」*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉二・四「父子相戦ひ兄弟相伐ち」*道草〔1915〕〈夏目漱石〉四二「彼の弱点が御常の弱点とまともに相搏(アヒウ)つ事も ... ...
    20.あい‐おう・ずる[あひ:]【相応】
    日本国語大辞典
    一二・一〇「人は常々往来する朋友と感情相通じ、声気相(あヒ)応じ」*坊っちゃん〔1906〕〈夏目漱石〉四「此野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな」 ... ...
    21.あい‐きょう[:キャウ]【愛敬・愛嬌(ケウ)】
    日本国語大辞典
    しゃいましの、愛敬(アイキャウ)を背(そびら)にうけて」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一〇「此位公然と矛盾をして平気で居られれば愛嬌になる」(4 ... ...
    22.あいきょう‐らし・い[アイキャウ:]【愛敬─】
    日本国語大辞典
    のむすめがうつくしいの』『かぎやの小ぢょくめらもあいきゃうらしい』」*彼岸過迄〔1912〕〈夏目漱石〉松本の話・七「田口は愛嬌(アイケウ)らしく笑って」アイキョ ... ...
    23.あい‐けん【愛犬】
    日本国語大辞典
    「主君の愛犬なるをもて、等閑(なほざり)ならずとりはやしつ」*カーライル博物館〔1905〕〈夏目漱石〉「五尺余の地下にはカーライルの愛犬(アイケン)ニロが葬むら ... ...
    24.あい‐こく・する[あひ:]【相剋】
    日本国語大辞典
    つのものが互いに勝とうとして争う。相剋(そうこく)する。*思ひ出す事など〔1910〜11〕〈夏目漱石〉一九「静かなのは相剋(アヒコク)する血と骨の、僅に平均を得 ... ...
    25.あい‐ご・する[あひ:]【相伍・相互】
    日本国語大辞典
    ・三「国に帰るに及んでは、百姓と相伍して自ら武勇に誇り」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉五「庸人(ようじん)と相互する以上は下って庸猫(ようべう) ... ...
    26.あい‐じん【愛人】
    日本国語大辞典
    幾度も軽るく足を踏み、愛人の眠りを攪(さま)さんとせし」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉九「親友も汝を売るべし。父母も汝に私あるべし。愛人も汝を棄 ... ...
    27.あい‐・する【愛】
    日本国語大辞典
    人を愛するといふからには、必ず先づ互に天性気質を知りあはねばならぬ」*虞美人草〔1907〕〈夏目漱石〉一二「愛せらるるの資格を標榜して憚からぬものは、如何なる犠 ... ...
    28.あい‐ず[あひヅ]【合図・相図】
    日本国語大辞典
    ・二〇回「千里烽(せんりほう)もて暗号(アヒヅ)とせん」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉四「話しては行けぬ行けぬと顋(あご)と眼で主人に合図する」 ... ...
    29.あいそ‐らし・い【愛想─】
    日本国語大辞典
    あいそらしい詞もかけず、ついに一度の添臥(そひぶし)もなく候へ共」*行人〔1912〜13〕〈夏目漱石〉帰ってから・二「母はさも愛想(アイソ)らしく又弁疏(いひわ ... ...
    30.あいそ‐わらい[:わらひ]【愛想笑】
    日本国語大辞典
    〔名〕相手の機嫌をとるためにする笑い。おせじわらい。あいそうわらい。*それから〔1909〕〈夏目漱石〉二「婆さんは相手にされないので、独りで愛相笑(アイソワラ) ... ...
    31.あい‐ぞう[:ザウ]【愛蔵】
    日本国語大辞典
    〔名〕物を大切にして、しっかりしまっておくこと。*草枕〔1906〕〈夏目漱石〉八「『へえ、どんな硯かい』『山陽の愛蔵したと云ふ…』」*故旧忘れ得べき〔1935〜 ... ...
    32.あいだ‐がら[あひだ:]【間柄】
    日本国語大辞典
    )といって某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間繋(アヒダガラ)」*硝子戸の中〔1915〕〈夏目漱石〉一七「顔を合(あ)はせさへすれば挨拶をし合ふ位の間柄(アヒ ... ...
    33.あい‐つう・ずる[あひ:]【相通】
    日本国語大辞典
    常々往来する朋友と、感情相通じ、声気相応じ、自ら相視倣(みならふ)ものなれば」*永日小品〔1909〕〈夏目漱石〉金「同じ金で代表さして、彼是(ひし)相通(アヒツ ... ...
    34.あいづっ‐ぽ[あひづっ:]【会津─】
    日本国語大辞典
    〔名〕会津の人を卑しめて呼ぶ語。また、親しみをこめて呼ぶ語。*坊っちゃん〔1906〕〈夏目漱石〉九「『僕は会津だ』『会津っぽか、強情な訳だ』」 ... ...
    35.あい‐てら・す[あひ:]【相照】
    日本国語大辞典
    〉一「結句双方相照(アイテラ)して趣をなす変化の妙あり」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉八「其一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照(あひて) ... ...
    36.アイディアリズム
    日本国語大辞典
    〔名〕({英}idealism )《アイデアリズム・アイデヤリズム》(1)観念論。*点頭録〔1916〕〈夏目漱石〉トライチケ「元来独乙のアイヂアリズムは観念の科 ... ...
    37.アイデンティファイ
    日本国語大辞典
    のであると認めること。確かにその人またはものであると認めること。*創作家の態度〔1908〕〈夏目漱石〉「一度かう云ふ風に推し立てられると、スコットは浪漫主義で浪 ... ...
    38.あい‐とう[:タウ]【哀悼】
    日本国語大辞典
    思ふ事のかくも深きや』と宣ひて、哀悼(アイトウ)気色(けしき)にあらはれしか」*こゝろ〔1914〕〈夏目漱石〉下・七「父母の墓の前に跪づきました。半ば哀悼(アイ ... ...
    39.アイドル
    日本国語大辞典
    視たっても気移りはしない。我輩には『アイドル』(本尊)が一人有るから」*それから〔1909〕〈夏目漱石〉一三「広瀬中佐は〈略〉当時の人から偶像(アイドル)視され ... ...
    40.あい‐なか[あひ:]【相中・相仲】
    日本国語大辞典
    〔名〕(1)中間。途中。*草枕〔1906〕〈夏目漱石〉三「人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであらう。いつ迄人と馬の相中に寝てゐたかわれは知ら ... ...
    41.あい‐なら・ぶ[あひ:]【相並】
    日本国語大辞典
    如くにして、相(あヒ)並んで行かざるべからざるものあり」*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一一「座敷の入口には、寒月君と東風君が相(アヒ)ならんで」 ... ...
    42.あい‐にく【生憎】
    日本国語大辞典
    (アイニク)に二本摺り損なって三本目で漸(やっ)と火が点(つ)いた」*彼岸過迄〔1912〕〈夏目漱石〉須永の話・二〇「生憎(アイニク)な天気なので人の好い母はみ ... ...
    43.あい‐の‐くさび[あひ:]【間楔】
    日本国語大辞典
    の楔だから、ちょっと何ぞ短く遣って、邪魔にならねえ内引っ込まうぜ」*坊っちゃん〔1906〕〈夏目漱石〉一一「夫(それ)ぢゃおれを間のくさびに一席伺はせる気なんだ ... ...
    44.アイバンホー
    日本大百科全書
    アシュビーの豪壮な馬上大試合で、ひそかに帰国したアイバンホーがジョン方の諸騎士を打ち破る場面はとくに有名。夏目漱石(そうせき)の『文学論』中「間隔論」の項に言及 ... ...
    45.あい‐まって[あひ:]【相俟】
    日本国語大辞典
    ひき起こす場合などに使われる)互いに作用し合って。互いの力によって。*彼岸過迄〔1912〕〈夏目漱石〉報告・一〇「其畑が彼の顔の傍で何時の間にか消えて行く具合が ... ...
    46.あい‐よう【愛用】
    日本国語大辞典
    〔名〕物を好んでいつも使用すること。楽しんで使用すること。*彼岸過迄〔1912〕〈夏目漱石〉風呂の後・一二「僕の愛用したものだから、紀念のため是非貴方に進上した ... ...
    47.あい‐よう・する[あひ:]【相擁】
    日本国語大辞典
    或時は月光流水の如き下に相擁(アヒヨウ)して泣いたことなどを思ひ出した」*虞美人草〔1907〕〈夏目漱石〉二「妖姫クレオパトラの安図尼(アントニイ)と相擁(アヒ ... ...
    48.アイロニー
    日本国語大辞典
    田魯庵〉「スヰフトの反語(アイロニイ)を用ゆる伎倆の真に古来稀なるは」*こゝろ〔1914〕〈夏目漱石〉上・五「先生は〈略〉私程に滑稽もアイロニーも認めてないらし ... ...
    49.アイロン
    日本国語大辞典
    火熨斗又は鉄 Iron (英)洋服裁縫等に用ゐる鏝即火熨斗のことを云ひ」*明暗〔1916〕〈夏目漱石〉八七「アイロンの注意でもして遣るべき所を」(2)調髪用のこ ... ...
    50.あい‐わ・す[あひ:]【相和】
    日本国語大辞典
    朋友相信じ」(2)互いに交じりあう。また、互いに調和する。*吾輩は猫である〔1905〜06〕〈夏目漱石〉一〇「打ち洩(も)らされた米粒は黄色な汁と相和して」*入 ... ...
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