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徳川家康

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川家康』の日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
徳川家康
とくがわいえやす
[1542―1616]

江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(みかわ)(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(するが)(静岡県)の大名今川(いまがわ)氏の人質となって苦労したが、桶狭間(おけはざま)の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した。本能寺の変ののちは、いち早く甲斐(かい)(山梨県)・信濃(しなの)(長野県)を手に入れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))と戦って一歩も譲らず和睦(わぼく)。1590年(天正18)関東に移って250万石の大大名となり、秀吉の死後は関ヶ原の戦いに勝って天下の実権を握り、将軍となって江戸に幕府を開いた。三男秀忠(ひでただ)に将軍職を譲って駿府(すんぷ)(静岡市)に引退してからも大御所として実権を離さず、大坂の陣を起こして豊臣氏を滅ぼし、徳川氏政権265年間の基礎を固めた。死後は日光に祀(まつ)られて東照大権現(とうしょうだいごんげん)と崇(あが)められ江戸時代を通じて政治的権威の源泉となった。
[高木昭作]

▲今川の人質時代

家康は、天文(てんぶん)11年12月26日、松平広忠(まつだいらひろただ)を父とし水野氏於大の方(おだいのかた)を母として三河岡崎城内で生まれた。幼名は竹千代(たけちよ)。名は元信(もとのぶ)、元康(もとやす)、のち家康。松平氏宗家は、三河加茂(かも)郡の松平郷の土豪で15世紀の後半に矢作(やはぎ)川の下流域に一族庶流を進出させた。16世紀初めには広忠の父清康(きよやす)が岡崎城主となって加茂・額田(ぬかた)・碧海(あおみ)・幡豆(はず)の西三河4郡に勢力を振るったが、内訌(ないこう)から清康が暗殺されて以来衰え、広忠のころは隣国の今川氏の庇護(ひご)下に置かれていた。ところが於大の方の兄の刈谷(かりや)城主水野信元(のぶもと)が今川氏に背いて尾張(おわり)(愛知県西部)の織田信秀(のぶひで)に通じたので、広忠は於大の方を離別し、竹千代は3歳で母と別れることとなった。6歳のとき人質として今川氏の駿府に送られる途中、織田方に捕らわれ安祥(あんじょう)城(安城市)で2年間を過ごした。8歳のとき人質交換で今川氏に取り返され、19歳までを「三河の小せがれ」とよばれながら駿府で過ごすが、安倍(あべ)川の印地打(いんじうち)(石合戦)を見て勝負を予言し将来の片鱗(へんりん)をみせたのはこの間のエピソードである。14歳のとき元服し今川義元の一字を与えられて元信と名のり、16歳で今川氏一門の女(むすめ)(築山殿(つきやまどの))と婚姻。翌1558年(永禄1)初陣。このころに元康と改名。翌々年上洛(じょうらく)のため西上を開始した義元の命令で、織田方に包囲された大高(おおたか)城に兵粮(ひょうろう)を搬入。世にいう大高城兵粮入れである。直後の桶狭間の戦いでの義元の頓死(とんし)により、今川氏から独立した元康は西三河の支配を回復し、信長と同盟した。
[高木昭作]

▲信長と結び信玄を防ぐ

1563年(永禄6)、子の信康(のぶやす)と信長の女(むすめ)との婚約を成立させた元康は家康と改名、今川氏との絶縁を天下に宣言した。この年に発生した三河一向一揆(いっこういっき)は、家康主従をも分裂させる深刻なものであったが翌年には鎮圧。かえって家臣の把握を強固にした家康は東三河をも制圧し三河一国の大名となり、1566年勅許を得て徳川と改姓し従(じゅ)五位下三河守(かみ)に叙任された。そのころは信長と同盟関係にあった武田信玄が今川氏の領国駿河に侵入したのを機に、1568年家康は遠江を占領、1570年(元亀1)遠江引馬(ひくま)(浜松)城に移って本拠とした。同年の近江(おうみ)(滋賀県)姉川(あねがわ)の戦いに信長を助けて出陣したが、このころには信長・家康ともに信玄との同盟を解消し、家康は信長のために身をもって武田の西上を防ぐ役割を担い、大きな犠牲を払わされた。1572年の三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで信玄に惨敗し、1575年(天正3)の長篠(ながしの)の戦いで信玄の子勝頼(かつより)と戦って勝利し、さらに1579年信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ築山殿を処刑したことなどがその主要なものである。1582年信長の武田氏攻略作戦では駿河方面を分担させられ、同氏滅亡後に恩賞として駿河一国を与えられた。2か月後の本能寺の変のとき、わずかの供回りで堺(さかい)に滞在中であった家康は、信長の死で治安の乱れた近畿地方を横断して伊勢白子(いせしろこ)(三重県鈴鹿(すずか)市)に急行し海路岡崎城に帰った。この帰路の家康を守ったのが伊賀(三重県)の土豪たちで、後年服部半蔵(はっとりはんぞう)など伊賀者が幕府に取り立てられたのは、このときの功によるとされている。帰国した家康は、信長死後空白地帯となった甲斐・信濃に出陣し、年内にはこの2か国を手中にした。
こうして駿・遠・三・甲・信5か国を領有した家康は、信長の遺子信雄(のぶかつ)を助けて、中央で頭角を現した羽柴秀吉と対抗し、1584年小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで秀吉軍を破ったが、半年後に和議が成立。家康の次男於義丸(おぎまる)(秀康(ひでやす))が秀吉の養子となり、1586年秀吉の妹朝日(あさひ)姫が家康の正室となって浜松に行き、また秀吉生母の大政所(おおまんどころ)が人質として岡崎に下向した。なお大政所は、家康が大坂城で前年に関白となった秀吉に謁して帰国したのを機に、岡崎滞在1月足らずで大坂に帰され、朝日姫は1590年京都聚楽第(じゅらくだい)で没している。以後の家康は、秀吉政権下の一大名として行動し、1589年に7か条の定書(さだめがき)を領内の村々に公布して年貢や夫役(ぶやく)について規定し、また翌年にかけて5か国に太閤検地(たいこうけんち)を行うなど秀吉の方針に沿って民政を整備した。
[高木昭作]

▲五大老の筆頭として

1590年(天正18)秀吉の小田原征伐に先鋒(せんぽう)として参陣した家康は、北条氏滅亡後の関東で250万石を与えられ、8月1日(朔日(さくじつ))江戸城に入った。これ以来「八朔(はっさく)」は家康江戸打入(うちいり)の特別の記念日となった。翌年には九戸政実(くのへまさざね)の乱鎮定のため陸奥(むつ)岩手沢(宮城県大崎(おおさき)市)に出陣。翌1592年(文禄1)の文禄(ぶんろく)の役では、渡海はしなかったが肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に駐留、1年半にわたって江戸を留守にした。秀吉の渡鮮を諫止(かんし)するなど、朝鮮出兵そのものには慎重論者だったようである。1595年、家康・毛利輝元(もうりてるもと)・前田利家(まえだとしいえ)など5人の大大名の連名で、大名間の私婚、徒党の禁止などに関する秀吉の意向を記した文書2通が諸大名に通達された。後の五大老の原型であるが、家康はその筆頭であった。このころから伏見(ふしみ)に常駐に近い状態となり、翌1596年(慶長1)正二位内大臣。1598年8月秀吉は遺児秀頼(ひでより)と天下の政事を五大老と五奉行(ごぶぎょう)に託して死んだが、その筆頭の家康の最初の課題は、朝鮮人民の抵抗ですでに泥沼に落ち込んでいた慶長(けいちょう)の役を終わらせることにあり、それは動員された諸大名や人民の願いでもあった。秀吉の死を秘して撤退作戦を年内にほぼ完了させた家康は、武士と人民を戦争に動員することで体制の維持強化を図った五奉行の一人石田三成(いしだみつなり)に反対する諸大名の結集の中心となった。
1600年の「天下分け目」といわれた関ヶ原の戦いは秀吉の跡目争い、秀頼に対する心情、大名間の感情的軋轢(あつれき)などが絡み合って起きたものであるが、実は戦いによって問われたのは、秀吉時代の絶え間ない戦争への動員路線を続けるのかどうか、という問題であり、この意味で、勝敗は戦いの前からすでについていたのであった。この戦いに勝利した家康は翌年2月ころまでに所領の没収、減封(げんぽう)・加封(かほう)を伴う諸大名の全国的な大移動を断行した。譜代(ふだい)と外様(とざま)を巧みに組み合わせる江戸時代の大名配置の原型はこのときにできあがり、これによって、戦争を起こすことなく軍事的緊張を維持し、体制を強固にすることが可能となった。以後、諸大名の余分なエネルギーは普請役(ふしんやく)への動員によって吸収されるが、その最初は1602年の京都二条城の造営であった。しかし、このころの家康の政治上の立場は、当時のある史料が「内府(だいふ)(家康)公、世間を後見」と述べているように、亡き秀吉に依託された五大老の筆頭という限界にとどまっていた。
[高木昭作]

▲征夷大将軍として

1603年(慶長8)2月12日、家康は伏見城で任将軍の宣旨(せんじ)を受け、全国の武家を指揮統轄する源頼朝(みなもとのよりとも)以来の伝統的な権限を手中にした。3月に始められた江戸市街地造成を手始めに家光(いえみつ)のころまで続いた間断ない普請役への諸大名の動員は、この権限に基づいている。また諸大名が江戸に屋敷を構え参勤して登城し、将軍に拝謁することを強要したが、これは将軍への服属を形に表す意味をもつ重大な行為であった。さらに翌々年、秀吉に倣って国絵図と御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)の提出を諸大名に命じたことは、将軍への服従が単に私的な主従関係によるのではなく、国家的な義務であることを明確にする意味をもっていた。
[高木昭作]

▲大御所として

同じ1605年(慶長10)家康は将軍職を秀忠(ひでただ)に譲って大御所となり、2年後に駿府城に引退した。秀忠に将軍としての権威をつけさせ、家康死亡時に予想される御家騒動を未然に防止する意図によったと考えられる。家康の側近には武士だけでなく、林羅山(はやしらざん)、金地院崇伝(こんちいんすうでん)(以心崇伝)、中井正清、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、アダムズ(三浦按針(みうらあんじん))などの学者、僧侶(そうりょ)、大工頭梁(とうりょう)、商人などさまざまの分野の人物が集まっており、家康は彼らを顧問として政策を決定し、事柄によっては彼らを取次ぎとして意思伝達にあたらせていた。これらの側近の第一人者が本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)父子であったが、大御所家康は子の正純を駿府に、父の正信を江戸の秀忠側近に置き、重要な決定はこの2人を通じて秀忠に伝えられ、施行される枠組みをつくった。1614、1615年(慶長19、元和1)の大坂冬・夏の陣も家康の意思で起こされ、秀忠以下の全大名が家康の統率のもとに参陣した。大坂の陣の原因としてよく知られている方広寺(ほうこうじ)の鐘銘事件(しょうめいじけん)は単なるきっかけにすぎず、真の原因は、江戸への参勤を拒否するなど、関ヶ原の戦い後一大名の地位に落とされた豊臣秀頼が幕府への服従を拒否した点にあった。
[高木昭作]

▲東照大権現として

大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は引き続いて京都にとどまり「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」(禁中并公家中諸法度)「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定したのち駿府に帰り、元和(げんな)2年4月17日、75歳で没した。法号安国院。久能山(くのうざん)に葬り、のち日光山に改葬。死の直前に太政大臣(だいじょうだいじん)に任じられている。これらの法度は、公家、僧侶、学者などに内外の古典を収集・調査させ、家康自身も彼らから講義を受けて成文化したもので、日本古来の、とくに頼朝(よりとも)以来の武家政権の伝統のうえに、幕藩体制を位置づけることを主眼としており、天皇も皇室に伝わる宗教的・儀式的知識を身につけて国家を安泰にする役割を要請されている。後世、享保(きょうほう)の改革に際して8代将軍吉宗(よしむね)が「権現様の時代を再現する」と唱えたように、死後に天皇から「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を勅授され日光東照社(宮号宣下は1645年)に祀(まつ)られた家康が、江戸時代を通じて政治的源泉となりえたのも、この「法度」に示された天皇の性格に起因している。反面、この点に江戸幕府のアキレス腱(けん)があり、朝幕問題が幕府崩壊の原因となったのはやむをえないところであった。
[高木昭作]

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国史大辞典
徳川家康
とくがわいえやす
一五四二 - 一六一六
江戸幕府初代将軍。一六〇三―〇五在職。太政大臣。三河国岡崎の城主松平広忠の子として、天文十一年(一五四二)十二月二十六日に生まれた。幼名は竹千代。母は同国刈谷の城主水野忠政の娘で、名はお大(没後に江戸の伝通院に葬られ、法名を伝通院殿という)。当時の松平氏は、今川氏と織田氏との両勢力にはさまれた弱小の大名で、広忠は今川方に属したが、忠政の子の信元が織田方に転じたので、竹千代が三歳の時、お大は離別されて刈谷に帰り、のち尾張阿久比の城主久松俊勝に再嫁した。竹千代は六歳で今川氏に人質として送られる途中、三河田原の城主戸田康光に奪われて、織田信秀のもとに送られた。天文十八年に広忠が没すると、今川義元は岡崎城を管理下に置くとともに、安城(あんじょう)の城を攻略して、城主織田信広を捕え、この信広との人質交換によって、竹千代は岡崎に帰り、ついで駿府に移った。十九歳まで駿府に住み、弘治元年(一五五五)には元服して、次郎三郎元信と称し、同三年には今川氏の一族関口義広の娘(のちの築山殿)と結婚した。翌年までの間に元康と改名。人質ながら、松平家の当主として、このころから岡崎衆を率いて出陣したり、岡崎在城の家臣に定書を下したりした。永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間の戦の前日十八日には、敵中に孤立した大高の城に兵糧を入れることに成功し、武名を挙げた。義元が敗死したのち、岡崎城に入って自立し、翌年には織田信長と和睦した。これにより今川氏から離反したが、駿府にいた妻関口氏と子の信康は、永禄五年に鵜殿長照の二子と交換されて無事に岡崎に移った。同年に清洲で信長と会見し、翌六年には、義元からもらった「元」の字を捨てて、家康と改名した。「康」は、勇名高い祖父清康の一字である。「家」の字は、源義家に由来するともいわれるが、確実ではない。同年九月に勃発して、翌七年二月までつづいた三河の一向一揆は、松平氏の家臣を二分した大きな動乱となったが、家康は勇敢に戦って、和睦により平定した。この一揆は、一向宗寺院の不入権を家康の部下が侵害したことが発端をなした点から、荘園制に由来する旧体制を温存するか否定するかを争う意味をもっていたと考えられるが、これに勝利したことにより、旧体制を否定した戦国大名としての家康の支配が、西三河の地域に確立された。ついで同七年に吉田(豊橋)と田原との両城を攻略して、東三河を支配下に入れた。翌八年から、本多作左衛門重次・高力与左衛門清長・天野三郎兵衛康景の三人を奉行に任命して、三河の民政を司らせ、俗謡に「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と評されたというのも、領国支配の体制が整い始めたことを物語っている。家康が松平から徳川に改姓し、朝廷から従五位下三河守に叙任されたのは、永禄九年十二月である。同十一年に至り、前年に信長と和睦した武田信玄に呼応して、家康は遠江に出兵した。同年十二月に信玄も駿府を攻略し、家康に使者を送って、大井川を境に、駿河を武田氏が、遠江を徳川氏が取ることを協約した。十二年五月には今川氏真がいた掛川城が陥落して、遠江はほぼ平定された。翌元亀元年(一五七〇)に家康は引馬(ひくま)に築城して、本拠をここに移し、地名を浜松と改め、また岡崎には信康を置いた。この間に信長は上洛に成功し、家康もこれに協力して、越前の金ヶ崎に兵を進め、一旦は京都に退却したが、六月に信長とともに近江の姉川で浅井・朝倉両氏の軍と戦って、勝利を得た。翌二年から武田氏は遠江と三河に侵入し、同三年十二月には、浜松城の北方を西上する信玄の軍勢に対し、家康はあえて出撃したが、三方原で大敗し、辛うじて帰城することができた。敗北したとはいえ、約三倍の大軍に対し積極的に戦ったのは、不名誉ではなかった。翌天正元年(一五七三)に信玄は没したが、武田勝頼の軍は引きつづいて遠江に侵入し、翌二年に高天神(たかてんじん)城を占領した。三年五月の三河の長篠の戦で、武田軍は大敗したが、この後も勝頼との対立はつづき、家康も大井川を越えて出兵したりした。しかし武田方の高天神城は堅固で、天正九年にこれを陥落させて、ようやく遠江全域を支配下に入れた。十年三月には、信長の甲州攻略の一翼を担って、家康は駿河口から甲府に入り、戦後に駿河を領国に加えた。六月に本能寺の変が起ったとき、家康は穴山梅雪とともに和泉の堺にいたが、宇治田原・信楽(しがらき)を経て、伊勢から船で岡崎に帰った。やがて七月に、混乱状態にある甲斐・信濃に出兵し、八月に甲斐の新府(しんぷ)に進み、若神子(わかみこ)で後北条氏と対陣したが、十月に和議を結び、甲斐と信濃(東・南部)に対する支配権を得た。この間に中央の政界では羽柴秀吉の勢力が伸び、織田信雄がこれと対立するに至ったので、家康は信雄を援助して、同十二年に尾張に出兵し、小牧山を本陣として、秀吉の大軍と対峙し、ついに屈服しなかった(小牧・長久手の戦)。講和ののち、同十四年に秀吉は老母を人質として岡崎へ送ることにより、家康を上洛させ、家康も大坂城で秀吉に臣従の礼をとり、正三位権中納言に叙任された。同年十二月に駿府に本拠を移し、これ以後は、駿・遠・甲・信・三の五ヵ国にわたる領地の統治に努力し、交通の整備、商工業の振興、新田の開発などを進めた。同十七年から翌年にかけては、領国に検地を実施し、かつ年貢・夫役に関する七ヵ条の定書を下して、農政の統一をはかっている。この間、十五年には従二位権大納言に昇進した。同十八年に後北条氏が滅びると、秀吉は家康に対し、後北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六ヵ国への転封を命じ、家康はこれに従って、江戸を本拠と定めた。正式に江戸城に入ったのは、八月一日で、こののち八朔(はっさく)は関東入国を記念する日とされる。新しい領国は、近江などに散在する約十万石を合わせて、二百五十万石に達し、豊臣政権下で最大の大名となった。朝鮮出兵では渡海せず、やがて秀吉が病衰すると、五大老の筆頭として、大きな勢力をもち、官位も慶長元年(一五九六)には正二位内大臣に昇進して、内府(だいふ)とよばれた。同三年に秀吉が没したあと、家康は伊達政宗や福島正則らと姻戚関係を結ぶなど、禁制を破って独断専行したので、他の四大老や石田三成らとの間に対立が深まったが、かえってこの状勢を利用して勢力を伸ばし、ついに同五年の関ヶ原の戦によって、武家政権の代表者としての地位を獲得した。同八年二月十二日には、後陽成天皇から征夷大将軍に補任され、従一位右大臣に昇進して、江戸幕府を開き、正式に全国に対する統治権を掌握した。この後、江戸と伏見とを往復し、同十年四月十六日に将軍職を子の秀忠に譲ったのちも、大御所とよばれて、同十二年からは駿府に居城し、朝廷・寺社関係や外交、および貨幣と交通など、全国的な政務を統轄して、江戸の幕府と並び、二元政治の体制をなした。同十六年には京都の二条城で豊臣秀頼と会見し、ついで同十九年から翌元和元年(一六一五)にかけての大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼし、幕府の前途への不安を除くとともに、同じ元和元年には、『武家諸法度』と『禁中并公家諸法度』とを制定させて、幕府の基礎を固めた。安心した家康は、駿府に帰り、翌二年正月に田中(藤枝の東方)へ鷹狩に出た際に発病し、三月には太政大臣に任官、四月十七日に七十五歳で病死した。遺言により、同夜に久能山に遺体を移し、吉田神道による神式で葬るとともに、江戸の増上寺にも仏式の廟を作った。こののち天海の主張する天台系の山王神道に基づき、東照大権現の神号が勅許されて、翌三年四月には下野の日光山に改葬された。これにより、やがて「東照宮」または「東照神君」が、家康に対する尊称となる。家康は、健康な身体と明敏な判断力とに恵まれ、特に幼少時に不遇を経験したことにより、強い忍耐力を身につけて、人心を洞察し、情勢に的確に対処することができた。また弓馬の武術にも優れ、果敢な行動力を発揮して、譜代の家臣らを統率するとともに、豊臣政権末期には多くの大名の信望を集め、ついに秀吉の後継者となって、幕藩体制を確立し、こののち二世紀半に及ぶ平和な社会の秩序を成立させるという、大きな歴史的役割を果たしたのである。家康にはすぐれた家臣が多く、武将としては、四天王とよばれる酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政らが名高い。また、本多正信・正純の父子らには、政治上の機密に参画させた。鉱山の開発には大久保長安を、また家臣ではないが僧侶の天海・以心崇伝らを社寺や朝廷対策また外交などに活用している。学問を愛好し、藤原惺窩や林羅山ら儒学者の講義を聞いたが、詩文には関心がなく、史書を通じて、唐の太宗や源頼朝を尊敬していた。学者らに命じて古書や古記録を蒐集させ、また『孔子家語』『貞観政要』『吾妻鏡』『大蔵一覧』『群書治要』などを活字版で出版させたことは、一面では幕府開創の準備に役立ったとともに、文運興隆の端緒となった。政治上では特定の学問や宗派を偏重しなかったが、個人としては浄土宗の信者で、自筆の日課念仏を残している。家康の妻は、最初の築山殿が、長子信康とともに、甲州方への通謀を疑った信長の命令により、天正七年に殺されたあと、同十四年に秀吉との講和に際し、その異父妹の朝日姫を迎えたが、これは名のみの政略結婚で、二年後に別居し、十八年には死去した(南明院殿)。これ以後は正室を置かず、約十五人の側室に十男五女を生ませたが、その中に、次男秀康の母お万(永見氏、長勝院殿)、三男秀忠と四男忠吉の母お愛(西郷氏、宝台院殿)、五男信吉の母お都摩(秋山氏、下山殿)、六男忠輝の母お茶阿(朝覚院殿)、九男義直の母お亀(志水氏、相応院殿)、十男頼宣と十一男頼房の母お万(正木氏、養珠院殿)らがあり、また側近として政治上に重んじられた阿茶局らがいる。秀康は、豊臣秀吉ついで結城晴朝の養子となった(越前松平家の祖)ので、秀忠が将軍の地位を継承し、また義直・頼宣・頼房は、それぞれ尾張・紀伊・水戸の三家の始祖となった。→江戸幕府(えどばくふ),→近世(きんせい),→慶長・元和期(けいちょう・げんなき),→織豊政権(しょくほうせいけん),→東照宮(とうしょうぐう)
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ二四 元和二年四月十七日条、『松平記』(『三河文献集成』中世編)、大久保彦左衛門『三河物語』(『日本思想大系』二六)、松平家忠『家忠日記』、板坂卜斎『卜斎記』(『(改定)史籍集覧』二六)、『朝野旧聞〓藁』(『内閣文庫所蔵史籍叢刊』特刊一)、『徳川実紀』、安積澹泊『烈祖成績』、内藤耻叟『徳川十五代史』、山路愛山『徳川家康』(『岩波文庫』)、徳富猪一郎『近世日本国民史』徳川家康、三上参次『江戸時代史』、辻善之助『日本仏教史』八、中村孝也『徳川家康文書の研究』、同『家康伝』、同『家康の族葉』、同『家康の臣僚』、同『家康の政治経済臣僚』、徳川義宣『新修徳川家康文書の研究』、小和田哲男編『徳川氏の研究』(『戦国大名論集』一二)、北島正元『江戸幕府の権力構造』、同編『徳川家康のすべて』、煎本増夫『幕藩体制成立史の研究』、所理喜夫『徳川将軍権力の構造』、桑田忠親『徳川家康―その手紙と人間―』(『旺文社文庫』)
(尾藤 正英)


世界大百科事典
徳川家康
とくがわいえやす
1542-1616(天文11-元和2)

江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。

6歳のとき,人質として駿府の義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られた。1549年(天文18)広忠の死後,今川・織田間の捕虜交換協定によってあらためて駿府に赴いた。55年(弘治1)義元の館で元服し義元の一字を与えられて元信と名のり,今川氏の一族関口刑部少輔の娘(築山殿(つきやまどの))と結婚した。58年(永禄1)ごろ元康と改名。60年大兵を率いて上洛を図った義元の先鋒として三河に入り,織田勢力の包囲に孤立していた大高城の兵糧入れに成功して初陣をかざった。

翌々日5月20日桶狭間の戦での義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立し,61年織田信長と和睦(1563年1月尾張清須で信長と会見),63年7月名を家康と改めた。直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが,翌年の春ごろにはこれを鎮定,結果として三河一国は家康によって統一されることになった。66年徳川と改姓。68年今川氏の領国を大井川で折半しようという武田信玄との約束にもとづき義元の子氏真を掛川城に攻め,翌年,氏真の退城によって遠江一国を所領に加えた。

70年(元亀1)上洛し,信長の越前攻めに参加。帰国して築城中の引馬(引間)に移ってこれを浜松と改称し,岡崎城は嫡子信康に譲った。同年6月姉川の戦で信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破。同年10月信玄と絶って上杉謙信と同盟した。これに対して信玄は北条氏政と結んで再三にわたり家康の所領を攻撃し,72年12月三方原の戦で家康は信玄に大敗した。73年(天正1)信玄の跡を継いだ武田勝頼もしきりに三河・遠江を侵したが,75年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝した。79年,武田氏に内通しているとの疑いで信長に強制されて家康は築山殿を殺し,嫡子信康を自殺させた。82年,信長が武田氏を滅ぼして甲斐・信濃を,家康は駿河を手に入れたのち,信長の招きでわずかの供連れで上洛し,和泉の堺に行ったときに本能寺の変が起きた。道中の危険をおかして急いで帰国した家康は,態勢を整え明智光秀攻撃のため西上しようとしたところに羽柴(豊臣)秀吉から山崎の戦の報が届いた。

この報を受けて家康は一度は帰城したが,甲斐・信濃の帰属をめぐって北条氏直と対立し,8月甲斐国巨摩郡若神子(わかみこ)で対陣,やがて甲・信2国の領有を認めさせる和睦に成功,駿・遠・三・甲・信の5ヵ国を領有する大大名となった。84年,信長の子信雄(のぶかつ)を助けて小牧・長久手の戦で秀吉に大勝したが,信雄が秀吉に屈服したので家康も秀吉と和睦,第2子の於義丸(おぎまる)(のちの結城秀康)が秀吉の養子となる条件で上洛した。秀吉は妹朝日姫を家康に嫁がせ,さらに母を浜松に行かせた。2人の実質上の人質を受け取った家康は上洛して秀吉に面謁し,権大納言に任じられた。以後秀吉の死まで家康は秀吉指揮下の有力大名という地位にあった。同年末,駿府城に移る。90年,秀吉の小田原征伐に従軍,後北条氏滅亡後その旧領に移封されて江戸城に入った(相模,伊豆,武蔵,下総,上野などで約250万石)。92年(文禄1)の文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に赴いたが,97年(慶長2)の慶長の役でもみずから朝鮮に渡ることはまぬかれた。1596年内大臣。このころから98年8月の秀吉の死の直前の間に設置されたと考えられる五大老の筆頭となり,秀吉の死後はその喪を秘したまま,朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮した。翌年閏3月五大老の一人前田利家の死後,秀吉の築いた伏見城本丸に入り,〈天下殿になられ候〉(《多聞院日記》)と評されるにいたった。この地位は1600年の関ヶ原の戦の後はますます強化されたが,なお〈世間後見〉という実力上のものにすぎず,名実ともに日本の統一的支配者となるには03年の天皇による将軍宣下が必要であった。

1605年には将軍職を秀忠に譲り,将軍が徳川氏に世襲されるべきものであることを天下に示すとともに,官位の束縛を受けない大御所として公家・寺社勢力を含めた全国支配の実権を握りつづけた。12年ごろから全国の公家,寺社,大名に朱印状を発給すべく準備を始めたが,実現しないうちに14年大坂の陣の開始によって中断。翌年(元和1)夏の陣で豊臣氏を滅ぼし,続いて武家諸法度,禁中並公家諸法度を発布して徳川の天下を安泰とした。16年4月17日駿府城で没。久能山に葬り,翌年日光山に改葬,後水尾天皇から東照大権現の神号を受け,正一位を追贈された。

家康のイメージ

家康の逸話は,馬術,剣術,水泳,鉄砲など武芸の達人であったこと,学問を好み和漢の古典を収集したこと,医方に通じていたことなどをめぐって数多く残されている。それらの大部分は史実にもとづくものであるが,1640年(寛永17)ごろから〈東照神君〉〈権現様〉といわれるようになった--それまでは死の直前に任じられた太政大臣の別称によって〈相国(しようこく)様〉と呼ばれていた--家康のイメージは,彼が今川氏の人質から信長,秀吉のあとを受けて最終的に天下を安定させたことにより,良くも悪くも〈忍耐〉を中核としているといえよう。偽作(本来の作者は徳川光圀に比定されている)であることが最近明らかになった,〈人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず〉という言葉で始まる〈東照宮遺訓〉が現在でも広く知られていること自体が,このことを物語っている。反面,家康が妻の築山殿,嫡子の信康,孫娘の婿豊臣秀頼を殺したことから,彼の〈忍耐〉は〈冷酷・狡猾〉の印象を生むことになった。このイメージが早くから庶民の間にあったことは,歌舞伎《八陣守護城(はちじんしゆごのほんじよう)》(1807初演)が,秀頼に比定される人物を攻め滅ぼす人物をさして〈たぬきおやじ〉と言っていることからも知られる。1837年(天保8)には絵師歌川芳虎が,紋所から信長と明智光秀と判明する鎧武者が搗(つ)き,秀吉がのした餅を,家康が食べている絵を版行して処罰されている。こうしたイメージも〈立川文庫〉を経て現在まで持ち越されているが,さらに明治維新後は皇室を抑圧した江戸幕府の創設者というイメージが家康には加わった。しかし第2次大戦後は,とくに高度成長期に経営学がもてはやされるなかで,すぐれた組織者としての家康像に関心がもたれるようになった。
[高木 昭作]

[索引語]
岡崎城 松平竹千代 水野忠政 於大の方 伝通院(於大の方) 今川義元 織田信秀 水野信元 松平元信 築山殿 桶狭間の戦 織田信長 武田信玄 今川氏真 徳川信康 武田勝頼 豊臣秀吉 北条氏直 織田信雄(のぶかつ) 結城秀康 慶長の役 五大老 将軍宣下 大御所 東照大権現 東照神君 権現様 徳川光圀 東照宮遺訓 たぬきおやじ 歌川芳虎
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検索コンテンツ
1.徳川家康画像
日本大百科全書
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(みかわ)(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(するが)(静岡県)の大名今川(いまがわ)氏の人 ... ...
2.徳川家康[百科マルチメディア]
日本大百科全書
「徳川家康天海対座画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
3.徳川家康
世界大百科事典
1542-1616(天文11-元和2) 江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野 ... ...
4.とくがわ‐いえやす【徳川家康】画像
デジタル大辞泉
©[1542〜1616]江戸幕府初代将軍。在職1603〜1605。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関 ... ...
5.とくがわ‐いえやす【徳川家康】
日本国語大辞典
江戸幕府初代将軍。岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。院号安国院。はじめ、今川義元、ついで織田信長と結び、武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉 ... ...
6.とくがわいえやす【徳川家康】画像
国史大辞典
内藤耻叟『徳川十五代史』、山路愛山『徳川家康』(『岩波文庫』)、徳富猪一郎『近世日本国民史』徳川家康、三上参次『江戸時代史』、辻善之助『日本仏教史』八、中村孝也 ... ...
7.とくがわ-いえやす【徳川家康】
日本人名大辞典
1543*−1616 江戸幕府初代将軍。在職1603-05。天文(てんぶん)11年12月26日生まれ。松平広忠(ひろただ)の長男。母は於大の方(伝通院)。8歳で ... ...
8.徳川家康
デジタル大辞泉プラス
1983年放映のNHKの大河ドラマ。原作は、山岡荘八の同名小説。徳川家康の生涯を描く。脚本:小山内美江子。音楽:冨田勲。出演:滝田栄、役所広司、武田鉄矢ほか。 ... ...
9.徳川家康
デジタル大辞泉プラス
愛知県、丸石醸造株式会社の製造する日本酒。平成21、22酒造年度の全国新酒鑑評会で金賞を受賞。 2012年04月 ... ...
10.徳川家康
デジタル大辞泉プラス
山岡荘八の長編歴史小説。1953年刊行。滝田栄主演のNHK大河ドラマ「徳川家康」(1983)の原作。 2013年05月 ... ...
11.とくがわいえやす【徳川家康】
日本架空伝承人名事典
江戸幕府初代将軍。一五四二年一二月二六日、三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた)、法号 ... ...
12.徳川家康[文献目録]
日本人物文献目録
主人『徳川家康』堀田右京『徳川家康一向一揆の処分』星野恒『徳川家康・織田信長・豊臣秀吉』北村紫山『徳川家康から秀忠に与へたる教訓書の断片』阿部愿『徳川家康着初の ... ...
13.松平元康・松平家康・徳川家康
日本史年表
1568年〈永禄11 戊辰〉 12・‐ 徳川家康 ,遠江に侵入(恵林寺文書)。 1570年〈元亀元(4・23) 庚午〉 4・20 信長 ・ 徳川家康 ,越前の ... ...
14.葵紋1[図版]画像
国史大辞典
徳川家康 徳川秀忠 徳川家光 徳川家康 徳川家綱 徳川綱吉 徳川家宣 徳川吉宗 御紋控書 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
15.TokugawaIeyasu【徳川家康】
Encyclopedia of Japan
1543−1616 The warrior chieftain who, outwitting many of his major contemporaries ... ...
16.德川家康與二伊達政宗一欲レ通レ婚(見出し語:德川家康)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 904ページ ... ...
17.德川家康之律儀(見出し語:德川家康)
古事類苑
遊戲部 洋巻 第1巻 644ページ ... ...
18.德川家康儉約(見出し語:德川家康)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 66ページ ... ...
19.德川家康免二老姥追放一(見出し語:德川家康)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 797ページ ... ...
20.德川家康太政大臣宣下(見出し語:德川家康)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 486ページ ... ...
21.德川家康好學(見出し語:德川家康)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 773ページ ... ...
22.德川家康建二景德院一(見出し語:德川家康)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 247ページ ... ...
23.德川家康爲二征夷大將軍一(見出し語:德川家康)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ ... ...
24.德川家康神葬(見出し語:德川家康)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 49ページ ... ...
25.德川家康訓二誡秀忠妻一(見出し語:德川家康)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 174ページ ... ...
26.德川家康訓二誡近習一(見出し語:德川家康)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 156ページ ... ...
27.德川家康重レ禮(見出し語:德川家康)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1217ページ ... ...
28.德川家康關東入國(見出し語:德川家康)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 315ページ ... ...
29.改二葬德川家康一(見出し語:德川家康)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 779ページ ... ...
30.改二葬德川家康一(見出し語:德川家康)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 235ページ ... ...
31.祀二德川家康像於久能山東照宮一(見出し語:德川家康)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 376ページ ... ...
32.祀二德川家康像於日光山東照宮一(見出し語:德川家康)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 776ページ ... ...
33.祀二德川家康像於院中一(見出し語:德川家康)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 561ページ ... ...
34.徳川家康、徳川秀忠の指物と馬印[百科マルチメディア]
日本大百科全書
右から、徳川家康の幟(のぼり)、馬印(うまじるし)、徳川秀忠の幟、大馬印。『御馬印』 巻1 寛永年間(1624~1644) ©国立国会図書館 ... ...
35.徳川家康印[図版]画像
国史大辞典
伝馬朱印 源家康忠恕 源家康忠恕 伝馬之調 恕家康 無悔無損 忠恕 源家康 福徳 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
36.徳川家康花押[百科マルチメディア]
日本大百科全書
©Shogakukan ... ...
37.徳川家康花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
38.徳川家康公銅像[百科マルチメディア]
日本大百科全書
1965年(昭和40)、岡崎市が開催した「家康公350年祭」を記念して、家康生誕の地である岡崎城址(じょうし)の岡崎公園内に建られた。制作は彫塑家高村泰正。愛知 ... ...
39.とくがわいえやすじんあと【徳川家康陣跡】大阪府:交野市/星田村地図
日本歴史地名大系
[現]交野市星田 慶長二〇年(一六一五)大坂夏の陣にあたり、家康の宿営地となった平井家屋敷跡。夏の陣に臨んで徳川方は因幡矢橋城主市橋長勝の意見により星田を宿営地 ... ...
40.十津川警部謎と裏切りの東海道/徳川家康を殺した男
デジタル大辞泉プラス
西村京太郎の長編推理小説。2010年刊行。十津川警部シリーズ。 2011年10月 ... ...
41.団扇1[図版]画像
国史大辞典
檳榔の団扇と方扇 竹骨の紙団扇 透金具飾りの団扇 金箔置無文団扇 桜花文様団扇 徳川家康所用 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
42.德川家康裂二帖紙一作レ麾(見出し語:麾【篇】)
古事類苑
服飾部 洋巻 第1巻 1368ページ ... ...
43.德川家康與二伊達政宗一欲レ通レ婚(見出し語:伊達政宗)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 904ページ ... ...
44.とくがわ-いえやすの-つま【徳川家康妻】
日本人名大辞典
⇒朝日の方(あさひのかた)⇒築山殿(つきやまどの) ... ...
45.影武者・徳川家康
デジタル大辞泉プラス
日本のテレビドラマ。放映はテレビ朝日系列(1998年4月~7月)。時代劇。全10回。原作:隆慶一郎。出演:高橋英樹、片平なぎさ、細川ふみえほか。 2012年05 ... ...
46.影武者徳川家康
デジタル大辞泉プラス
隆慶一郎の長編時代小説。1989年刊。関ヶ原で斃れた徳川家康の代役となった影武者・世良田二郎三郎とその同志の暗闘を描く。 2013年05月 ... ...
47.少年徳川家康
デジタル大辞泉プラス
放映は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)系列(1975年4月~9月)。原作:山岡荘八による小説『徳川家康』。制作:東映動画(現:東映アニメーション)。 2013年 ... ...
48.改葬二德川家康一(見出し語:改葬)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 779ページ ... ...
49.立政寺住持獻二大柿於德川家康一(見出し語:柿)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 681ページ ... ...
50.本多重次諫二德川家康一(見出し語:本多重次)
古事類苑
〔名〕時代の特徴的な出来事を反映させた漫画。社会風刺を含むこともある。*風俗画報‐三〇〇号〔1904〕征露雑項「ハンカチーフと手拭地に時事漫画のポンチ絵を染出し ... ...
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