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坂本竜馬(坂本龍馬)

ジャパンナレッジで閲覧できる『坂本竜馬(坂本龍馬)』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
坂本竜馬
さかもとりょうま
一八三五 - 六七
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる。町人郷士坂本家は城下の豪商才谷屋の分家で、八平は三代目。城下の日根野弁治道場で剣を学んだが、嘉永六年(一八五三)江戸へ出て、北辰一刀流千葉定吉の門に入る。江戸滞在中ペリー来航に直面して攘夷思想の影響をうけたが、翌安政元年(一八五四)帰国後、薩摩藩反射炉を藩命で視察した絵師河田小竜から海運の必要などについて教示される。その後武市瑞山との交流を深め、文久元年(一八六一)武市が土佐勤王党を結成するや、竜馬も早速加盟し、その活動に参加した。翌年二月、「草莽志士」の糾合を求める久坂玄瑞の武市宛の書状を持ち帰ったことは有名。そのころ薩摩藩の率兵上京に呼応する西国志士の挙兵計画が伝わり、同志の脱藩が相ついだ。竜馬も呼応するかのように三月二十四日に脱藩したが、挙兵計画には参加せず、各地遊歴後、夏すぎに江戸に赴く。その後、松平春岳に接し、さらに勝海舟の門に入る。その下で幕府の近代海軍創設計画に参加し、そのなかで脱藩の罪も許された。文久三年四月二十四日幕府が神戸海軍操練所建設を決定するや、勝の右腕として東奔西走する。このように竜馬は、開化的傾向を示し始めたのであるが、このことは尊攘運動からの絶縁を意味するものではなかった。それは、同年六月二十九日付書状で、攘夷を決行した長州藩を弁護しながら「日本を今一度せんたくいたし」たいと書いていたことに伺える。したがって土佐藩が勤王党弾圧を強め始めるや、同年十二月、再度脱藩の身となった。また勝が翌元治元年(一八六四)十月江戸に召喚されることになったので、操練所に集まった竜馬以下は薩摩藩に預けられた。この結果、慶応元年(一八六五)四月鹿児島に赴くこととなったが、一方では薩摩藩に支援されて長崎の亀山に社中を開き、他方では三条実美らを太宰府に訪ね、閏五月六日には下関で木戸孝允と会談する。中岡慎太郎・土方久元らの動きに協力し、薩長同盟のために努力することとなった。この結果社中が、長崎で外国の艦船銃砲を購入することを幕府に禁ぜられていた長州藩のために、薩摩藩の名義で購入するなどの周旋を通じて薩長の関係を深め、ついで慶応二年正月二十二日(二十一日説もある)、京都薩摩藩邸で竜馬の仲介による薩長同盟を成立させた。その翌日、伏見の船宿寺田屋で幕吏に襲撃されたが、妻お竜(元治元年五月ごろ結婚、医師楢崎将作女)の活躍もあって助かる。その後お竜を鹿児島に伴い、傷を癒して長崎を中心に活動を再開した。社中で航海術の稽古をしながら運輸業などに従い、さらに商社経営を企画する。他方薩長土三藩連合を画策し、慶応三年正月中旬、長崎で土佐藩参政後藤象二郎と会談した。こうして土佐藩は、竜馬と中岡慎太郎の罪を許し、四月初旬に竜馬を海援隊長、中岡を陸援隊長に任命したのである。これは、藩主流が佐幕的立場を脱却したことの反映であった。その後竜馬は、藩の支援をうけて社中以来の海援隊の業務を拡大するとともに、割拠論と公議政体論とをむすびつけた竜馬の独自の国家構想である「船中八策」(筆記は長岡謙吉)を、六月後藤に提示した。後藤がこの構想にもとづいて大政奉還を実現させるが、竜馬は、それを支持しながらもライフル銃千挺を土佐藩に購入させるなど、割拠論的「藩」強化策を重視した。このように新しい政権構築には積極的に参画したが、新政府への参加は辞退している。だが海援隊員三百人を率いて上京してきたとの噂がたち、しかも前年の伏見の事件で幕吏を傷つけていたこともあって幕府に狙われ、十一月十五日京都の近江屋で見廻組に襲撃され闘死した。三十三歳。三日後、ともに遭難した中岡・下男山田藤吉と東山の霊山(現京都市東山区京都霊山護国神社域内)に埋葬される。『坂本竜馬関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、書翰・関係史料・詠草などを収めた宮地佐一郎編『坂本竜馬全集』全一巻がある。
[参考文献]
平尾道雄編『坂本竜馬のすべて』、池田敬正『坂本竜馬』(『中公新書』六九)
(池田 敬正)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
坂本龍馬
さかもとりょうま
[1835―1867]

幕末の志士。天保(てんぽう)6年11月15日、土佐国(高知県)高知城下本丁(ほんちょう)一丁目に郷士坂本八平の次男に生まれた。実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。本家は富商才谷屋で、曽祖父(そうそふ)兼助が郷士(ごうし)株を取得して分家した町人郷士。領知197石など家産があり裕福であった。幼少時愚鈍の評があったが、城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場での剣術修行でたくましくなった。1853年(嘉永6)3月、江戸に出て北辰(ほくしん)一刀流千葉定吉道場に剣を学び、1年余で帰国。1856年(安政3)8月、ふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許を得、1858年9月帰国。1861年(文久1)8月土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。10月剣術修行を名目に出国、翌1862年1月には長州萩(はぎ)に久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪(とぶら)い、帰国後3月24日脱藩。大坂、京都を経て江戸へ出た。
在郷当時、海外事情に詳しい絵師河田小龍(しょうりゅう)の通商航海論に共鳴していた龍馬は、江戸で異色の幕臣勝海舟(かつかいしゅう)を訪い、その見識に感激して入門、単純な攘夷(じょうい)論を捨て、航海術を修業し、勝の信頼を受け、勝を補佐して活動した。1863年には、勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、10月その塾頭となったが、1864年(元治1)10月には勝の突然の失脚によって、操練所は解散された。この間、龍馬は松平春嶽(しゅんがく)(慶永(よしなが))、横井小楠(しょうなん)、三岡八郎(由利公正(ゆりきみまさ))、大久保一翁(忠寛(ただひろ))ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛(さいごうたかもり)とも知り合った。
操練所解散後、龍馬は薩摩(さつま)藩の保護を受け、1865年(慶応1)5月ごろ、同志を率いて長崎に商社(亀山(かめやま)社中)を設けて通商航海業に乗り出し、これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎(しんたろう)と協力して翌1866年1月20日には京都で薩長同盟を成立させた。その直後の23日、伏見(ふしみ)寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍(りょう)の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚した。薩長同盟の成立は幕府の長州再征を失敗に導いた。
1866年土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張してきた参政後藤象二郎(しょうじろう)(かつての土佐勤王党の弾圧者)と龍馬は翌1867年1月に会談。山内容堂(ようどう)の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた土佐藩は、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許し、龍馬は海援隊長、中岡は陸援隊長となった。6月、後藤とともに藩船で京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめたが、これが土佐藩論を動かし、10月山内容堂は将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白、慶喜はこれをいれて朝廷に奉還を上奏、朝廷は10月15日これを許可し大政奉還は実現した。その後も龍馬は土佐、長崎、福井などを奔走、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋(おうみや)で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組(みまわりぐみ)に襲われて斃(たお)れた。年33。贈正四位。
[関田英里]



坂本龍馬[百科マルチメディア]
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坂本龍馬像[百科マルチメディア]
坂本龍馬像[百科マルチメディア]

高知県高知市 桂浜(かつらはま)©高知市観光振興課


世界大百科事典
坂本竜馬
さかもとりょうま
1835-67(天保6-慶応3)

幕末の志士。本名は直柔(なおなり),別名は才谷梅太郎。高知城下の町人郷士の家に生まれ,維新の指導者としてその前夜に暗殺されるまでの軌跡には曲折があった。第1は尊攘志士に成長する時代である。町人郷士の次男でありながら,19歳のとき(1853)江戸へ剣術修業に赴き,ペリー来航に直面して政治にも目ざめ,1861年(文久1)武市瑞山が勤王党を結成するやただちにこれに加盟し,尊攘志士として活躍を開始した。ところが翌年3月脱藩するや,勝海舟の下で,第2の近代航海術を修業する時代へと方向は変化した。このことは,彼が町人社会の雰囲気(坂本家の本家は豪商才谷屋)と無縁でなかったこと,海外知識にくわしい画家河田小竜とつながりのあったことなどによる。勝の下で神戸海軍操練所の塾頭になった竜馬は,大久保忠寛,横井小楠,由利公正らとの交渉を深め,その政治思想を成長させた。しかし勝や大久保が幕府内で失脚し,竜馬が薩摩藩に依存せざるをえなくなったころから第3の時代に入る。1865年(慶応1)から翌年にかけての薩長同盟,その翌年の薩土盟約を実現させるための政治活動,それとこの間の亀山社中(1865成立)および海援隊における海運・貿易に従事しながらの航海術の修業は,他の維新の指導者にはみられない行動様式であった。この新国家構想を進める政治家の時代は,後藤象二郎の大政奉還論に利用される〈船中八策〉に代表される。そこでは,幕藩制的秩序にこだわらない中央集権的な統一国家が構想されている。もちろんそれは,近代国家ではなく絶対主義国家ではあったが,当時の対外的危機の下ではこの統一が必要であった。町人的現実主義を身につけ,封建的藩閥意識から脱却しつつあった竜馬だからこそ,この構想が可能となったといえよう。しかしこの構想実現の途中,竜馬は,京都河原町蛸薬師の近江屋にて,幕府見廻組に暗殺される。
[池田 敬正]

[索引語]
船中八策


新版 日本架空伝承人名事典

坂本竜馬
さかもとりょうま
1835‐67(天保6‐慶応3)
 幕末の志士。土佐藩の郷士の出身。少年時代は泣き虫で、よく寝小便をもらしたという。一九歳で江戸に出、千葉周作門下となって剣を学んだが、ペリー来航により時局に目覚め、一八六一年(文久一)土佐勤王党に加盟、尊攘派の志士として活動した。だが翌年脱藩し、江戸に出て勝海舟の門に入り、幕府の神戸海軍操練所設立に尽力。操練所閉鎖後、海援隊を組織し海運に従事しつつ、六六年(慶応二)薩長同盟を仲介、倒幕勢力を結集させた。また新国家構想(船中八策)を説き、大政奉還を側面からリードしたが、その直後、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに、幕府の京都見廻組に暗殺された。下手人に関しては多くの説があるが今もって謎である。
 西郷隆盛らとともに最も人気の高い志士の一人で、多くの伝説・伝承に彩られる。あるとき土佐勤王党の剣の遣い手檜垣清治が、長刀を腰に闊歩していたところ、竜馬はそれを見て、短めの刀こそ敏捷に対応できるといって自らの佩刀を示した。檜垣はなるほどと思い短めの刀に替え、しばらくして竜馬に会うと、竜馬は懐からピストルを取り出し、もはや刀の時代は終わったという。さらに何カ月か経て、ピストルを入手した檜垣が竜馬に会うと、今度は懐から一冊の本『万国公法』を取り出し、「これからの世は剣や銃ではだめだ」といった。
 また、中江兆民は一九歳のころ、長崎で竜馬に命じられよく煙草を買いに行ったという。
[高橋 千劔破]
龍馬も遂に鞆子(即ちお良の事)の望のまゝに任する事となりて、其母にも暫しの別をつげさせて都を跡に舟出したるは、自と彼の西洋人が新婚の時には、「ホネー、ムーン」と呼びなして、花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遙するに叶ひたりとや謂はん。鞆子は幸に滊船に酔ひなやむことなくして、何も甲板の上に在りて世界第一との公評ある裏海の風景を眺めくらし、彼方は何島此方は何山など、夫の指し教ゆるまゝに其面白さ謂ん方なく、其身の八重の潮路を渡る旅人なるを打ち忘れ、と睦しく語ひて、只見る一双の釵尖帽角逢ふが如く離るが如くなるは、彼の范蠡が西施を載せて五湖に浮むの故事も、其風流の情趣を比ぶるに足らぬとまで思はるばかりなれば、余所に見る乗合の人々は、其癖として窃かに、アナ心悪き振舞なんどつぶやきあひ居たり。
汗血千里駒(坂崎紫瀾篇)
○当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、『中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーセ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。
兆民先生(幸徳秋水篇)
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1.坂本龍馬画像
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[1836〜1867]幕末の志士。土佐藩士。名は直柔(なおなり)。千葉周作道場に剣を学び、のち脱藩し、勝海舟に師事。慶応2年(1866)薩長同盟成立に尽力。前土 ... ...
5.さかもと‐りょうま【坂本龍馬】
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江戸末期の尊攘派の志士。海援隊長。土佐藩出身。一九歳で江戸に出て北辰一刀流を学ぶ。文久二年(一八六二)脱藩して勝海舟の門にはいり、彼を助けて幕府神戸海軍操練所の ... ...
6.さかもとりょうま【坂本竜馬】
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内)に埋葬される。『坂本竜馬関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、書翰・関係史料・詠草などを収めた宮地佐一郎編『坂本竜馬全集』全一巻がある。 [参考文献]平尾道雄 ... ...
7.さかもと-りょうま【坂本竜馬】画像
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1836*−1867 幕末の武士。天保(てんぽう)6年11月15日生まれ。家は土佐高知城下の郷士。文久元年土佐勤王党にくわわり,翌年脱藩して勝海舟の門にはいって ... ...
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12.坂本竜馬[文献目録]
日本人物文献目録
刺客今井信郎』武市佐市郎『坂本竜馬』-『坂本竜馬』井上道雄『坂本竜馬』千頭清臣『坂本竜馬』松村巌『坂本竜馬』森銑三『坂本竜馬 挙国統一国家めざす』市井三郎『坂本 ... ...
13.坂本竜馬・坂本龍馬
日本史年表
4・‐ 高知藩、坂本竜馬の 亀山社中 を同藩の 海援隊 とし、 坂本竜馬 を海援隊長に任命(維新史料綱要)。 1867年〈慶応3 丁卯〉 11・15( 12・1 ... ...
14.SakamotoRyōma【坂本竜馬】画像
Encyclopedia of Japan
1836−1867 Proimperial activist in the period that preceded the Meiji Restoration ... ...
15.さかもとりょうまあんさつじけん【坂本竜馬暗殺事件】
国史大辞典
坂本竜馬が慶応三年(一八六七)十一月十五日、京都の河原町蛸薬師下ル近江屋にて遭難した事件。竜馬は宿所としていた土佐藩邸の出入商人近江屋の二階奥で、来談中であっ ... ...
16.坂本龍馬記念乗車券
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長崎電気軌道が発売する電車の企画乗車券。 2012年02月 ... ...
17.坂本龍馬殺人事件
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18.坂本龍馬像[百科マルチメディア]
日本大百科全書
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19.坂本龍馬年賀状[新語流行語]
イミダス 2015
高知県立坂本龍馬記念館が坂本龍馬に関する情報などを集めたポータルサイト「龍馬街道」と共同で企画した2010年用の年賀状セット。龍馬の写真と龍馬直筆の木戸孝允に ... ...
20.維新回天・竜馬伝!硬派・坂本竜馬III
デジタル大辞泉プラス
宝塚歌劇団による舞台演目のひとつ。作:石田昌也。2006年、宝塚大劇場にて宙組が初演。坂本竜馬をモデルとした作品。 2013年02月 ... ...
21.アメリカ合衆国画像
日本大百科全書
渡った咸臨(かんりん)丸の一行ともども、アメリカ文明について見聞を広めてきた。勝海舟、横井小楠(しょうなん)、坂本龍馬(りょうま)など維新期の指導者も、アメリカ ... ...
22.あやかり‐しょうひん【肖り商品】
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有名人・キャラクター・名所や、話題となっている出来事に関連した商品。「定額給付金―」「坂本竜馬―」 ... ...
23.伊木三猿斎
日本大百科全書
猪鍋(ししなべ)を出して西洋流の茶事を行った話は有名。幕府による長州征伐の不可を藩主に説いて調停を勧め、坂本龍馬(りょうま)、中岡慎太郎ら志士をかくまう。187 ... ...
24.いぎさんえんさい【伊木三猿斎】
国史大辞典
長州藩は深くこれを徳とし、奇兵隊の有志を三猿斎に託してその指導を受けさせた。この前後、河田景与・坂本竜馬ら諸藩の脱藩士がたよってきたのを保護した。同三年十月幕府 ... ...
25.いぐち-しんすけ【井口新助】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)8年生まれ。京都の高知藩御用達醤油(しょうゆ)商「近江(おうみ)屋」の主人。坂本竜馬(りょうま)を寄宿させていたが,慶応3年竜馬は中岡慎太郎とと ... ...
26.いけだ-やすまさ【池田安正】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)4年生まれ。河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)藩士。蘭学と洋式兵学をまなぶ。坂本竜馬らと交流。鳥羽・伏見の戦いで京都警護につく。のち陸軍中佐 ... ...
27.維新[流行語大賞2012]
現代用語の基礎知識 2015
橋下徹 地域政党「大阪維新の会」が「日本維新の会 」を結成、国政政党として国政選挙へ乗り出し、坂本龍馬の「船中八策」に倣って、「維新八策」を発表した。 ... ...
28.維新の党[政党]
イミダス 2015
体。11年11月、大阪府知事から大阪市長に転じた橋下は国政への進出に意欲を見せ、12年2月、坂本龍馬の「船中八策」にならって「維新八策」をまとめた。また将来の国 ... ...
29.いせきもりとめ【井関盛艮】
国史大辞典
習となり、漸進して大目付役軍使兼帯寺社奉行となる。慶応二年(一八六六)冬、藩命で長崎に行き、坂本竜馬・五代友厚・本木昌造らを知り、また海外事情に通じた。このころ ... ...
30.磯田道史画像
JK Who's Who
歴史随筆としては『江戸の備忘録』(朝日新聞出版)がある。10年には『龍馬史』(文芸春秋)を著し、坂本龍馬の生涯を社会経済史の観点から解説。龍馬の実像に迫った。龍 ... ...
31.一絃琴
日本大百科全書
大坂の真鍋(まなべ)豊平が新作を多くつくり、その奏法も大きな発展を遂げ、いよいよ盛んになった。坂本龍馬(りょうま)など幕末の志士たちも弾いたという。明治末年から ... ...
32.いまい-のぶお【今井信郎】
日本人名大辞典
慶応3年京都見廻組与力頭。戊辰(ぼしん)戦争では東北各地で新政府軍とたたかい,明治2年五稜郭で降伏。翌年坂本竜馬暗殺にかかわったと供述した。5年特赦。のち静岡県 ... ...
33.今井信郎[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『今井信郎』-『坂本、中岡両雄刺客今井信郎』武市佐市郎『坂本竜馬暗殺者の生涯 今井信郎秘録』大坪草二郎 ... ...
34.いまむらいづみ
日本人名大辞典
昭和12年子役として築地小劇場「アンナ・カレーニナ」で初舞台。24年前進座の正式座員となり,「坂本竜馬」「出雲の阿国」「柳橋物語」に出演。57年,59年の「エリ ... ...
35.いらばやしむら【伊良林村】長崎県:長崎市
日本歴史地名大系
で、万延元年(一八六〇)頃の郷乙名は本河内郷を兼帯した。晧台寺後山に林官梅両家の墓地があり、坂本龍馬が率いる亀山社中が隠れ住んだという家屋跡が残されている。慶応 ... ...
36.岩崎弥太郎
世界大百科事典
境に落ち,新田開発や官林伐採を行う。67年(慶応3)に土佐藩の開成館長崎出張所の下役となり,坂本竜馬やT.B.グラバーらの外国商人と交渉,明治維新後の69年(明 ... ...
37.上野彦馬
日本大百科全書
長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬(さかもとりょうま)、高杉晋作(たかすぎしんさく)を ... ...
38.上野彦馬
世界大百科事典
自製,62年長崎に日本最初の営業写真館を開設し,コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し,坂本竜馬,高杉晋作,伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を ... ...
39.うえの‐ひこま【上野彦馬】画像
デジタル大辞泉
[1838〜1904]写真家。長崎の人。俊之丞の第4子。日本で最初の写真館を設立。金星の天体写真や西南戦争、坂本竜馬らも撮影。 ... ...
40.うえのひこま【上野彦馬】
国史大辞典
彼は交友内外にきわめて広く、勝海舟や榎本武揚らはかつての同窓であり、また維新の際には高杉普作・坂本竜馬・西郷隆盛・伊藤博文らと頻繁に往来して、彼らを撮影していた ... ...
41.うえの-ひこま【上野彦馬】画像
日本人名大辞典
オランダ人の医師ポンペに化学を,フランス人ロッシュに写真術をまなぶ。文久2年長崎にわが国初の写真館を開業。坂本竜馬,高杉晋作や金星観測,西南戦争などの写真をのこ ... ...
42.うらどまち【浦戸町】高知県:高知市/高知城下/下町
日本歴史地名大系
もに札座の発行名義人になっている。その後も代々町総年寄を勤め、御用商人として活躍した。幕末に坂本龍馬の海援隊に参加して、龍馬の死後その隊長になった長岡謙吉は当町 ... ...
43.うりゅう-しん【瓜生震】
日本人名大辞典
明治-大正時代の経営者。嘉永(かえい)6年6月11日生まれ。瓜生寅(はじめ)の弟。長崎で蘭学をまなび,坂本竜馬の海援隊に属する。明治4年工部省鉄道寮にはいり,岩 ... ...
44.えのはまむら【江之浜村】長崎県:南松浦郡/有川町
日本歴史地名大系
赤尾・供栖村の同業地域と異なり、石碑の彫刻を主体とする。慶応二年(一八六六)江之浜の潮合崎で坂本竜馬が組織した長崎社中の持船ワイルウエフ号が遭難のうえ沈没、竜馬 ... ...
45.おうみ-かいどう【淡海槐堂】
日本人名大辞典
近江(おうみ)(滋賀県)の儒者下坂篁斎の子。京都の醍醐(だいご)家につかえ,板倉を名のる。私塾文武館をひらき,坂本竜馬らとまじわる。天誅(てんちゅう)組の挙兵の ... ...
46.近江屋
日本史年表
1867年〈慶応3 丁卯〉 11・15( 12・10 ) 坂本竜馬・中岡慎太郎、京都河原町 近江屋 で京都見廻組に襲撃され、坂本は即死、中岡は17日死亡(維新 ... ...
47.大浦慶
日本大百科全書
清(しん)国上海(シャンハイ)に渡り製茶・交易法を学び、帰国後、日本茶の輸出を実現させた。多くの利益を得たが、坂本龍馬(りょうま)、高杉晋作(しんさく)らの幕末 ... ...
48.おおうら-けい【大浦慶】
日本人名大辞典
文があり,九州各地から1万斤(6t)をあつめて輸出。長崎在住の実業家グラバーと親交をむすび,坂本竜馬,大隈重信らを援助し,「大浦のお慶さん」としてしたしまれた。 ... ...
49.おおはし-しん【大橋慎】
日本人名大辞典
土佐高知藩家老深尾氏の家臣。土佐勤王党に属し,元治(げんじ)元年脱藩して萩(はぎ)藩をたよる。慶応2年坂本竜馬(りょうま)らを岩倉具視(ともみ)に紹介する。3年 ... ...
50.おかうちしげとし【岡内重俊】
国史大辞典
天保十三年(一八四二)四月二日土佐国土佐郡潮江村(高知市)に生まれる。高知藩士岡内清胤の長男。通称は俊太郎。坂本竜馬の海援隊に入り、その秘書役となる。明治政府の ... ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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