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織田信長

ジャパンナレッジで閲覧できる『織田信長』の日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

織田信長
おだのぶなが
[1534―1582]

戦国・安土桃山 (あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。

[脇田 修]

家系

織田氏は近江 (おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波 (しば)氏に仕え、越前 (えちぜん)(福井県)織田荘 (おだのしょう)を根拠とし織田劔神社 (つるぎじんじゃ)を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張 (おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る。のち上・下尾張に織田氏も分かれるが、信長の家は下四郡守護代家の家老であった。信長の父信秀 (のぶひで)が勢力を伸ばし、勝幡 (しょばた)・那古野 (なごや)を中心に尾張南部などを支配する。信長は信秀の三男。幼名は吉法師 (きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃 (みの)斎藤道三 (さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死とともに家督を嗣 (つ)いだ。初め藤原氏を称したが、室町幕府が源氏であるため、源平交替思想から、のち平氏を称す。上総守 (かずさのかみ)、上総介 (かずさのすけ)と署名するが、入洛 (にゅうらく)を前に弾正忠 (だんじょうのちゅう)と中央官職に変える。若いころの行状は奔放で異様な風体を好み「うつけ」と評された。老臣平手政秀 (ひらてまさひで)が諫死 (かんし)する事件もあり、信長は、政秀寺 (せいしゅうじ)を建立して菩提 (ぼだい)を弔っている。舅 (しゅうと)道三との対面に正式の服装をして人々を驚かせる。家紋は窠 (か)(木瓜 (もっこう))、将軍足利義昭 (あしかがよしあき)より桐 (きり)の紋を許される。旗差物 (はたさしもの)は永楽通宝 (えいらくつうほう)。馬印 (うまじるし)は南蛮笠 (なんばんがさ)。朱印は「天下布武 (てんかふぶ)」などを用いる。

[脇田 修]

戦闘

信長の生涯は戦闘に明け暮れたが、まず、1555年(弘治1)清洲城 (きよすじょう)織田信友を討ってここを居城とし、1557年弟信行らの反乱を抑え、1559年(永禄2)岩倉城主織田信賢 (のぶかた)を追放して尾張を統一した。翌1560年桶狭間 (おけはざま)の戦いで今川義元 (いまがわよしもと)を倒して武名をあげ、ついで徳川家康と同盟した。のち、小牧山を居城として美濃(岐阜県)攻めに力を入れ、1567年稲葉山井ノ口城攻略、斎藤龍興 (さいとうたつおき)を追放、これを岐阜と改め居城とする。尾張、美濃をあわせた信長は、1568年9月足利義昭を奉じて上洛の途につき、これを阻もうとする近江 (おうみ)六角義賢 (ろっかくよしかた)を追い、入洛、畿内 (きない)を鎮定。義昭は将軍となり、信長は天下の実権を握るが、戦国群雄、本願寺との戦いが激化する。翌年、信長は北伊勢 (きたいせ)北畠 (きたばたけ)氏を屈伏させ、二男信雄 (のぶかつ)を養子に入れ、1570年(元亀1)北近江浅井、越前 (えちぜん)朝倉と姉川 (あねがわ)に戦い、摂津で三好三人衆 (みよしさんにんしゅう)を迎え撃ち、石山本願寺との合戦も起こる。1571年比叡山 (ひえいざん)延暦寺 (えんりゃくじ)を焼討ち。このころ、先に不和となっていた将軍義昭との対立が激しくなり、1573年義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。ついで朝倉・浅井両氏をも滅ぼした。1575年(天正3)甲斐 (かい)武田勝頼 (たけだかつより)と長篠合戦 (ながしのかっせん)があり鉄炮隊 (てっぽうたい)の威力で撃破。畿内では松永久秀、荒木村重の離反を押さえ、もっとも頑強であった石山本願寺との対決は、伊勢長島、越前、雑賀 (さいか)と一揆 (いっき)の拠点をつぶしたのち、1580年本願寺と和睦 (わぼく)、石山から退城させた。これにより畿内は平定され、信長は、摂河泉和(兵庫県、大阪府、奈良県一帯)で城破りを行う。その間にも明智光秀 (あけちみつひで)の丹波 (たんば)・丹後 (たんご)(兵庫県、京都府一帯)平定、柴田勝家 (しばたかついえ)による加賀平定、羽柴秀吉 (はしばひでよし)(豊臣秀吉 (とよとみひでよし))の中国毛利 (もうり)攻めが進み、ついに1582年には宿敵武田氏を滅ぼす。信長の晩年には、東は甲斐(山梨県)、信濃 (しなの)(長野県)、北は越中 (えっちゅう)(富山県)、能登 (のと)(石川県)、西は伯耆 (ほうき)(鳥取県)、備中 (びっちゅう)(岡山県)と、ほぼ本州の中央部を征服し、中国毛利氏との決戦を前に天正 (てんしょう)10年6月2日未明、家臣明智光秀の謀反により京都本能寺(四条西洞院 (にしのとういん))で倒れた(長男信忠 (のぶただ)も、このとき二条御所にあって自刃)。紫野 (むらさきの)大徳寺(北区)総見院に葬る。法号総見院泰巌安公。信長父子の骨灰を集めて葬ったという墓が阿弥陀寺 (あみだじ)(上京 (かみぎょう)区)にもあり、本能寺(中京 (なかぎょう)区、変後移転)には信長本廟 (ほんびょう)がある。

[脇田 修]

武家権力

信長の直属分国は尾張、美濃、近江(滋賀県)で、家督を信忠に譲ったとき、尾張、美濃も渡している。中央権力としては、入洛直後は室町幕府が再建され、畿内では幕府関係者が守護となったように、信長の正規の権限はあまりなく、実力支配体制をとった。義昭と不和になり、数年の暗闘ののち、幕府を滅亡させた。その後、信長は将軍権力を継承し、名実ともに天下を握り、京都所司代 (しょしだい)に村井貞勝 (むらいさだかつ)を任命、守護などの地域支配権を掌握し、摂津に荒木、山城 (やましろ)・大和 (やまと)に原田直政 (はらだなおまさ)らを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益 (たきがわかずます)らの武将が各地に封じられ、それが織田家の支配圏をゆだねられるとともに、軍団を率いた。家臣団組織は、おとな・宿老に先の有力武将がなり、奉行 (ぶぎょう)が安土などの都市と、軍事・行政単位に置かれた。軍事力は親衛隊として馬廻 (うままわり)の士、弓・槍 (やり)・鉄炮の組が存在した。とくに鉄炮隊は優れていた。軍事動員は相対 (あいたい)契約で決めた人数を率いて家臣が参陣した。また、当面の司令官たる武将の直属軍事力に、与力 (よりき)として他の武将の軍事力を組み合わせて軍団を構成した。

[脇田 修]

朝廷・寺社との関係

信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位 (じゅさんみ)権大納言 (ごんだいなごん)兼右近衛大将 (うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇 (おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王 (さねひとしんのう)を猶子 (ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃 (うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家 (くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行 (ちぎょう)している土地や座の権益は安堵 (あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。

[脇田 修]

経済政策

土地政策では指出 (さしだし)・検地 (けんち)を行い土地把握に努めた。伊勢、尾張、美濃は貫高制、畿内近国は「石 (こく)」高 (だか)制であり、統一されていなかった。しかし、一国単位で土地の高表示を一元化し、その年貢収量を把握して、知行の基礎を固め、年貢負担責任者としての百姓を確定したことは注目しうる。これを秀吉の太閤検地 (たいこうけんち)に比べると、「石」高も稗 (ひえ)などを含んでいて米に統一されていないこと、高は年貢高を表示し、生産高を前提にしていないこと、検地帳に給人知行 (きゅうにんちぎょう)が記されるものがあり、兵農分離が不徹底であること、名主百姓 (みょうしゅびゃくしょう)の中間搾取は否定されず、「内徳小物成 (ないとくこものなり)」を認められていること、などの違いがあった。都市商業政策では、分国における関所を撤廃して流通を円滑にし、金銀貨をも含む広い視野から撰銭令 (えりぜにれい)を出して通貨整備を行おうとした。また城下町安土では楽市 (らくいち)・楽座 (らくざ)、公事免許 (くじめんきょ)などの優遇策を実施して繁栄に努めた。都市については上京 (かみぎょう)、尼崎 (あまがさき)を焼き、堺 (さかい)などの武装を解除したが、都市自治権は全面的には否定せず、寺内町 (じないまち)の特権は認めたりしている。全般的にいえば関所撤廃、城下町政策など戦国大名のなかでも、もっとも進んだ政策を実施した。また領国尾濃では伊藤宗十郎 (いとうそうじゅうろう)を商人司として商人統制を行い、城下町以外では座組織を認め、流通仲間など積極的に利用した。ここでも京七口 (きょうななくち)の皇室領率分関 (りつぶんぜき)を残し、座を認め、寺内町の建設すら認めたのは、公家・寺社との関係を尊重したためであった。都市の経済力に注目し、今井宗久 (いまいそうきゅう)、津田宗及 (つだそうきゅう)ら堺の豪商と結び付いたことも知られる。

[脇田 修]

文化政策

信長は禅宗であるが、無神論者といわれるようなところがあり、なによりも政治権力を宗教勢力の上に置いた。浄土宗、日蓮宗 (にちれんしゅう)の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことはそれを示している。比叡山延暦寺や槇尾寺 (まきのおでら)焼討ち、高野聖 (こうやひじり)斬殺 (ざんさつ)、一向一揆 (いっこういっき)の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しなかった。キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺 (なんばんじ)の建設を認めている。また相撲を好み、芸能では幸若舞 (こうわかまい)をたしなみ、桶狭間合戦に赴く朝、かねて好む『敦盛 (あつもり)』の一節「人間五十年、下天 (げてん)の内をくらぶれば夢幻 (ゆめまぼろし)の如 (ごと)くなり……」と舞ったのは有名。小歌も口ずさみ、「死のふは一定 (いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の歌詞を愛誦 (あいしょう)したという。茶の湯では千利休 (せんのりきゅう)、津田宗及、今井宗久らを茶道 (さどう)として召し抱え、名物をも集めたが、茶の湯を政治に利用し、功績のある家臣に茶の湯を許す栄誉を与え、茶道具を与えたりした。

[脇田 修]

歴史的位置

中世から近世への変革期に現れ、戦国動乱を平定する直前で信長は倒れた。その意味で、彼が近世統一権力の先頭走者であったことは確かである。しかし、織田政権の評価については意見が分かれている。従来は、織豊政権 (しょくほうせいけん)と一括されるように、織田政権を近世権力と考え、豊臣政権と連続してとらえる説が有力であった。最近の研究では、織田政権を戦国大名段階の中央権力と規定し、室町幕府よりもはるかに新しいが、豊臣政権のような近世権力とは異なると考えられている。

[脇田 修]



国史大辞典
織田信長
おだのぶなが
一五三四 - 八二
戦国・安土桃山時代の武将。幼名を吉法師といい、天文三年(一五三四)尾張那古野城に生まれる。父は尾張下四郡を支配する清洲城の織田家の家老織田弾正忠信秀。同十五年元服して織田三郎信長と名乗り、同二十年信秀が死ぬと、十八歳で家をつぎ、みずから上総介と称した。若いころ好んで異様な風体をし、粗暴な振舞が多かったので「大うつけ者」の評判が高く、傅の平手政秀は死をもって諫めた。信長も深く悔悟し、政秀の死をいたんで、政秀寺を建て、菩提を弔った。信長は国内の反対勢力を一掃するため、まず松葉・深田両城の織田氏を降し、ついで弘治元年(一五五五)四月清洲城の織田信友を滅ぼして、清洲城に本拠を移した。さらに信長に反逆を企てた弟信行を誘殺し、永禄二年(一五五九)の春には岩倉城の織田信賢を降して、ほぼ尾張一国をその支配下に収めた。その翌年駿・遠・参三ヵ国の大軍を擁して西上する今川義元を、桶狭間に奇襲してこれを倒し、一躍武名を揚げた。ついで五年今川氏の支配から脱した三河の松平元康(のちの徳川家康)と盟約を結び、元康に東方の防衛を委ねて、信長は西方進出を図り、美濃攻略を開始した。このため翌年小牧山に居城を移し、同十年八月斎藤竜興を井ノ口城に攻めて降した。信長は本拠を小牧山からここに移して、岐阜と改め、有名な「天下布武」の朱印もこのころから使い始めた。その印文は僧沢彦に選ばせたもので、信長の武力統一に対する抱負を現わしたのである。岐阜はその後安土に城を築くまで約十年間、全国統一を推進する策源地になり、その城下町加納は楽市に指定せられた。岐阜に進出した信長のもとに、正親町天皇から尾張・美濃にある御料地の回復を委嘱し、信長のことを「古今無双の名将」とほめたたえた綸旨が届けられ、これと相前後して前将軍足利義輝の弟義昭から室町幕府の再興について依頼をうけた。上洛の決意を固めた信長は、十一年九月七日岐阜をたち、近江の六角義賢を観音寺城に攻めて九月二十六日義昭を擁して入京、さっそく幕府を再興して義昭を将軍職につけた。しかしほどなく信長が政治上の実権を握り、義昭の権限を制約する態度に出たので、両者の関係は急速に悪化し、義昭は浅井・朝倉・武田の諸氏や本願寺などを誘って、反信長戦線の結成を策した。この策謀は元亀元年(一五七〇)信長が越前の朝倉征伐を開始したのをきっかけに具体化し、信長は苦境に陥った。しかし信長は徳川家康の応援を得て姉川に浅井・朝倉の連合軍を打ち破り、ついで摂津に転戦して三好党ならびに一向宗徒と戦った。その間に浅井・朝倉両氏は勢力をもり返して近江に進出し、延暦寺の僧徒もこれに加担した。このため信長は翌年延暦寺を包囲して一山を焼き払い、天正元年(一五七三)には将軍義昭を河内の若江城に追放して、室町幕府を倒した。ついで越前一乗谷に攻め込んで朝倉義景を自刃させ、さらに小谷城を陥れて浅井長政を滅ぼした。信長を最も苦しめたのは一向一揆であって、顕如の指令で近江・伊勢・越前・加賀の各地で一向宗徒が蜂起した。近江の一揆は浅井・朝倉と一体となって戦闘に参加したが、浅井・朝倉が滅亡すると急速に衰えた。伊勢の長島一揆は信長の弟信興を小木江城に攻め殺し、勢いすこぶる盛んであったが、信長は前後三回にわたって討伐し、天正二年完全に制圧した。越前の一向宗徒は朝倉氏の滅亡後も信長に反抗し、信長の守兵を越前から追放して一国をその支配下においた。このため信長は三年八月越前に進撃して、一向宗徒を徹底的に討滅し、さらに加賀に入って能美・江沼両郡の一揆を討ち、越前を腹心の柴田勝家にあたえて北庄に据え、北国の押えとした。これよりさき浅井・朝倉の動きに呼応して、甲斐の武田信玄は元亀三年三万の大軍を率いて遠江に攻め入り、家康・信長の連合軍を三方原に敗走させ、三河に進出した。しかし信玄は翌年四月病没し、その子勝頼が天正三年再び三河に進出し、長篠城を包囲したが、信長は家康を援けて設楽原に陣を布き、鉄砲隊を活用して武田勢に致命的な打撃を与えた。翌四年信長は将来の飛躍に備えて、近江の安土に居城を築いて移った。七層造りの天守閣をもつ本格的な近世城郭であって、その豪華さは人々の眼を驚かせた。城下町の整備も積極的に進め、同五年に城下町の掟十三ヵ条を公布して、楽市とするとともに種々の特権を与えて商人の誘致をはかった。安土城に移った信長は、官位もしきりに進み、権大納言兼右近衛大将から内大臣に進み、さらに同年には右大臣、その翌年には正二位に叙せられた。信長にとって当面の敵は、石山本願寺と、これと連繋して信長の挾撃を策する越後の上杉謙信、中国の毛利輝元であった。信長は石山本願寺の攻囲を続ける一方、羽柴秀吉を中国経略の総指揮官に抜擢して毛利氏にあたらせた。この間に大和の松永久秀の反乱があり、それが五年十月に片付くと、六年二月に三木城の別所長治、ついで同十月に有岡城の荒木村重が反旗を翻し、信長は苦戦を強いられた。幸い大挙西上の構えを見せた謙信が、六年三月出陣を控えて急逝し、北からの脅威が去り、七年九月には有岡城が陥り、さらに翌年正月に三木城も落城した。石山城も毛利水軍による食糧の補給を、織田の水軍に阻まれて次第に窮地に陥り、顕如はついに八年閏三月石山城を信長に明け渡して紀伊鷺森に立ち退いた。かくて畿内もようやく平静に帰したので、十年二月甲斐に出兵して武田勝頼を滅ぼし、信濃・甲斐・駿河・上野の諸国を支配下に収めた。中国筋の経略にあたった秀吉は、山陰道方面では但馬から因幡に進出して鳥取城を陥れ、山陽道方面では播磨・備前・美作を攻略して備中に入り、同年五月高松城を包囲して毛利勢と対峙し、信長に救援を求めた。信長は毛利氏と決戦を試みるため、五月二十九日安土城をたって上洛し、本能寺に泊ったが、六月二日の未明、明智光秀の襲撃を受けて自刃した。時に年四十九歳、大徳寺に葬る。法諡は総見院泰巌安公。死後太政大臣従一位を追贈された。信長は仏教に対しては、比叡山の焼打ちに見られるようにかなりはげしい弾圧を加えたが、耶蘇教に対しては好意的な態度を示した。永禄十二年宣教師ルイス=フロイスの要請を容れて布教許可の朱印状を与え、また天正三年から始まった京都の教会堂の建立には、土地と資財を寄付して援助した。いわゆる南蛮寺で、京都の名所の一つとなった。さらに同八年には安土の城下町に土地を与えて教会堂を建設させ、また翌年には神学校の設立を認めて、その建設費を寄付した。信長が耶蘇教に好意を示したのは仏教排撃のため、政策的にその信仰を援助したという以外に、宣教師たちを通じて知らされた未知の世界と西洋文化に対して大きな興味と関心を抱いたためといえよう。したがって耶蘇教の教義については宣教師の報告によると、信長はデウスも霊魂不滅も信じなかったという。また信長は武力征服と並行して、集権的な封建体制を築くため、新しい政策をつぎつぎと実施した。まずその基盤となる土地と農民を把握するために、上洛以後近江をはじめ各地に検地を行い、古い荘園制に基づく土地関係を解体して、新しく信長の朱印状をもって家臣や公家・社寺に対して所領を給与した。これによって荘園に依拠して権力を振るっていた公家・社寺はその権威を失った。他方支配圏を拡大維持するためには、狭い割拠的な地域経済を打破して商品流通圏の拡大をはかる必要があった。このため道路の整備、関所の撤廃、楽市の設置、座の廃止、通貨基準の設定などを行い、商品経済の発達を促進するとともに堺など都市の豪商との結び付きを深めた。こうした信長政権の性格、歴史的位置付けについては見解が分かれ、次のようないくつかの説が出されている。その一つは封建制再編成論といわれるもので、変質・解体途上にある中世的封建制を再編成して、近世的封建制への転換を推進した政権であるとする説である。これに対し中世は荘園制に依拠する体制で封建制とは質を異にするものであり、封建制は荘園制の内部から成長をとげた在地領主制を基盤として徐々に発達し、信長によって確立の基礎がおかれたのであって、その意味で信長政権は純粋封建制を成立させた権力であるとする。また商業資本との結び付きを重視してフランスの封建王政確立期に相当する政権だとする説や、そのほか初期絶対主義の政権だとする説がある。しかもこれらの説は多くの場合、信長政権を秀吉政権と一括して捉え、ひとしく近世封建制を指向する政権として考えているが、最近信長政権と秀吉政権とは異質のものであり、信長政権は本質的には一般の戦国大名と同じ基盤に立つものであって、中世の最終的政権であるとする見解が出されている。
[参考文献]
太田牛一『信長公記』(『角川文庫』)、同『原本信長記』、『当代記』(『史籍雑纂』二)、奥野高広『織田信長文書の研究』、同『信長と秀吉』(『日本歴史新書』)、田中義成『織田時代史』、桑田忠親『織田信長』(『角川新書』一九二)、今井林太郎『織田信長』、鈴木良一『織田信長』(『岩波新書』青六四九)、松田毅一『南蛮史料の発見』(『中公新書』五一)
(今井 林太郎)


世界大百科事典
織田信長
おだのぶなが
1534-82(天文3-天正10)

安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが,本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。しかし一族との対立,今川氏との対決という課題を残して1551年(天文20)急逝したので信長は孤立し,家臣団は動揺した。だが親族衆と連携しつつ敵対する一族を各個に撃破した信長は,55年(弘治1)清須城を奪い,57年老臣に擁立された弟信行を殺し,59年(永禄2)岩倉城の織田信賢を追って尾張を統一し,60年5月西上する今川義元を桶狭間の戦でたおし,62年岡崎の徳川家康と同盟して態勢を安定させた。そして65年墨俣(すのまた)に砦を築き美濃への攻撃を強め,67年ついに斎藤竜興を追って美濃を征服し,井之口を岐阜と改称して拠点とし〈天下布武〉の印判使用を開始した。そして68年足利義昭を擁して上洛,三好三人衆を追って幕府を再興,実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。一方足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し,松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。しかし信長は77年紀伊雑賀(さいが)を圧迫し,翌年鉄甲船によって毛利水軍を破り,また上杉謙信も78年病没,荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は80年ついに屈服し,加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。そこで信長は宿老の佐久間信盛や林秀貞を追放して専制的体制を誇示し,翌年京都で盛大な馬揃を挙行,行幸を仰ぎ,整備された軍容を天下に示した。そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。

織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。しかもこの軍団は長期遠征に耐え,城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し,中央支配を早期に実現できたのである。またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが,一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出(さしだし)を徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し,播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が,柴田氏領内では刀駈(かたながり)が,大和では城破り(しろわり)が実施され,そして楽市・楽座,関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが,これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し,1571年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を,81年指出を拒否した槙尾寺を焼き,罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り,82年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺(おうさつ)(みな殺し)戦術をもって臨み,町衆を信仰受容層とする日〓宗には79年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。しかしキリスト教宣教師は優遇し,69年ルイス・フロイスの在京を許し,79年オルガンティーノに安土教会堂の,81年巡察使バリニャーノに学校の建設を許した。そして宣教師を通じてキリシタン大名を動かし,また仏僧を牽制した。なお宣教師は信長の資質を的確にとらえて報告している。信長は茶の湯の愛好者として知られるが,茶会を通じて堺や博多の豪商と接し,家臣には茶器を与え,茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど,茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。
[岩沢 愿彦]

信長の人間像

織田信長の人間像は,同時代の武将たちとともに,いわゆる〈太閤記の世界〉のなかでは,必ず顔をだすが,徹底して善良な人間像を獲得し,それゆえに活躍の場の多い豊臣秀吉(真柴久吉),あるいは屈折した悪役を割りふられ,独自の個性を作りあげた明智光秀(武智光秀)などに比べると,信長の場合は小(尾)田春永という名の単純な赤面(あかつつら)の暴君以上のものではなく,おもしろみに欠ける印象を否めない。また多くが脇役にとどまり,信長を主人公に扱う作品はみられない。江戸時代にははなはだ人気のない人物であった。しかもその悪役としての性格も,むしろゆたかな光秀像の形成にともなって,光秀を侮辱する役として浮上したふしが濃厚である。現代の日本人が抱くニヒルで悽惨な信長のイメージは,どちらかといえば近代文学のものというべきであろう。
[守屋 毅]

[索引語]
足利義昭 石山本願寺 顕如 一向一揆 明智光秀 織田政権 楽市・楽座 豊臣秀吉 快川紹喜 真柴久吉 武智光秀


新版 日本架空伝承人名事典

織田信長
おだのぶなが
1534‐82(天文3‐天正10)
 安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが、本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立てつりつの思想によるという。曾祖父は信良、祖父は信貞といったらしいが、父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡しょばた城に拠り、津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し、美濃・三河を攻略、信長を那古屋城に置き、斎藤利政(道三)の女をめとらせた。しかし一族との対立、今川氏との対決という課題を残して一五五一年(天文二〇)急逝したので信長は孤立し、家臣団は動揺した。だが親族衆と連携しつつ敵対する一族を各個に撃破した信長は、五五年(弘治一)清須城を奪い、五七年老臣に擁立された弟信行を殺し、五九年(永禄二)岩倉城の織田信賢を追って尾張を統一し、六〇年五月西上する今川義元を桶狭間の戦でたおし、六二年岡崎の徳川家康と同盟して態勢を安定させた。そして六五年墨俣すのまたに砦を築き美濃への攻撃を強め、六七年ついに斎藤義竜を追って美濃を征服し、井之口を岐阜と改称して拠点とし「天下布武」の印判使用を開始した。そして六八年足利義昭を擁して上洛、三好三人衆を追って幕府を再興、実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方、殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し、七〇年(元亀一)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り、ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し、天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め、七三年(天正一)ついに幕府を倒し、宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし、翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧、七五年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し、また丹波・丹後の征服を開始、八月越前の一向一揆を鎮定し、柴田勝家ら直属部将を分封、国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り、七六年近江に安土城を築き、七七年羽柴秀吉に西国征討を命じた。一方足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し、松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。しかし信長は七七年紀伊雑賀さいかを圧迫し、翌年鉄甲船によって毛利水軍を破り、また上杉謙信も七八年病没、荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は八〇年ついに屈服し、加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。そこで信長は宿老の佐久間信盛や林秀貞を追放して専制的体制を誇示し、翌年京都で盛大な馬揃を挙行、行幸を仰ぎ、整備された軍容を天下に示した。そして翌八二年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入、武田勝頼を田野に敗死させ、信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征討を命じ、六月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて二日朝自殺、信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。
 織田政権の軍事的特質は加地子かじし領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し、鉄砲・長槍で武装、専業武士団として機動性を与えたところにあった。しかもこの軍団は長期遠征に耐え、城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し、中央支配を早期に実現できたのである。またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが、一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出さしだしを徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し、播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が、柴田氏領内では刀駈かたながりが、大和では城破りしろわりが実施され、そして楽市・楽座、関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが、これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し、内裏の修造、廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施、皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し、朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し、一五七一年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を、八一年指出を拒否した槙尾寺を焼き、罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り、八二年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺おうさつ(みな殺し)戦術をもって臨み、町衆を信仰受容層とする日蓮宗には七九年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。しかしキリスト教宣教師は優遇し、六九年ルイス・フロイスの在京を許し、七九年オルガンティーノに安土教会堂の、八一年巡察使バリニャーノに学校の建設を許した。そして宣教師を通じてキリシタン大名を動かし、また仏僧を牽制した。なお宣教師は信長の資質を的確にとらえて報告している。信長は茶の湯の愛好者として知られるが、茶会を通じて堺や博多の豪商と接し、家臣には茶器を与え、茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど、茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。
[岩沢 愿彦]
信長の人間像
 織田信長の人間像は、同時代の武将たちとともに、いわゆる「太閤記の世界」のなかでは、必ず顔をだすが、徹底して善良な人間像を獲得し、それゆえに活躍の場の多い豊臣秀吉(真柴久吉)、あるいは屈折した悪役を割りふられ、独自の個性を作りあげた明智光秀(武智光秀)などに比べると、信長の場合は小(尾)田春永という名の単純な赤面あかっつらの暴君以上のものではなく、おもしろみに欠ける印象を否めない。また多くが脇役にとどまり、信長を主人公に扱う作品はみられない。江戸時代にははなはだ人気のない人物であった。しかもその悪役としての性格も、むしろゆたかな光秀像の形成にともなって、光秀を侮辱する役として浮上したふしが濃厚である。現代の日本人が抱くニヒルで悽惨な信長のイメージは、どちらかといえば近代文学のものというべきであろう。
[守屋 毅]
永禄三年五月、今川義元大軍を率ゐ、織田信長を討つ。
 (中略)
酒宴して猿楽に羅生門の曲舞くせまひを舞はせられし時、敵既に攻来る、と告げ来る。信長少も騒がず、人間五十年、下天内を競れば夢幻の如し、といふ処を、押返し謡ひて忽螺を吹き立てさせ、物の具して主従僅に六騎、歩卒二百人許駈出でて熱田の宮に詣で、願文を神殿に納めらるゝ中に、軍兵追続き来りけり。
常山紀談「桶狭間合戦今川義元討死の事」
早や更け渡る。夏の夜の。そよ吹く風も物凄く。寝られぬ儘に御大将。手づから障子押開き。何心なく茂みの方。見やり給へばさわさわと驚き騒ぐねぐらの鳥。ハテ訝かしや。まだ明けやらぬ夏の夜に。庭木を離れ騒ぐ群鳥、合点行かじときつと目を付け。怪み給ふ時しもあれ。遠音に響く鐘太鼓、春長つゝ立ち耳そばだて。アレ〓〓次第に近付く人馬の物音。宿直の者はあらざるか。急ぎ物見を仕れと。仰せの下より阿野の局。長刀掻い込み走り出で。君の大事に候ぞや。蘭丸殿は何所にある。早く物見を致されよ。妾も倶にと表の方。呼はり〓〓駈けり行く。聞くに蘭丸一間より。飛んで出づれば春長声かけヤアヤア蘭丸。反逆ありと覚えたり。急ぎ物見を仕れと。上意にはつと蘭丸は。振返り見る廊下の高欄。これ幸ひの物見ぞといふより早く駈上り。四方をきつと打見やり。物の黒白あいろはわからねど。この本能寺を志し押寄するは。察する所武智光秀。スリヤ光秀が反逆とな。今こそ後悔汝が諫め。聞入れざるも傾く運命。只此上は防ぎの用意。ハア委細承知仕る。がたとへ。一致に防ぐとも院内僅か三百余人。思へば〓〓主君と倶に。蘭丸我が君様。チエヽ口惜しやと主従が。怒りの歯がみ逆立つ髪。無念涙の折からに。
絵本太功記
あまく見よかしと馬上で餅を喰
出典:『里童居士追福会』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):95
刊行/開き:1854(安政元年)(開き)
若いころの信長は「ばさら者」の風体で「町を御通りの時、人眼をも御憚り無く、栗柿は申すに及ばず、瓜をかぶりくひになされ」(『信長公記』)、町中では餅の立食いなどをする所行があった。句は「甘く」「餅」と縁語で結び、わざと馬鹿なまねをしたと解釈。
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1.織田信長画像
日本大百科全書
戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。脇田 修家系織田氏は近江(おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室 ... ...
2.織田信長[百科マルチメディア]
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「織田信長画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
3.織田信長
世界大百科事典
付与して褒賞するなど,茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。岩沢 愿彦 信長の人間像 織田信長の人間像は,同時代の武将たちとともに,いわゆる〈太閤記の世 ... ...
4.おだ‐のぶなが【織田信長】画像
デジタル大辞泉
[1534〜1582]戦国・安土桃山時代の武将。信秀の子。桶狭間(おけはざま)に今川義元を討って尾張一国を統一。のち、京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を ... ...
5.おだ‐のぶなが【織田信長】
日本国語大辞典
戦国大名。幼名吉法師または三郎。信秀の子。美濃の斎藤道三(どうさん)の娘と結婚。永祿三年(一五六〇)今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力 ... ...
6.おだのぶなが【織田信長】画像
国史大辞典
奥野高広『織田信長文書の研究』、同『信長と秀吉』(『日本歴史新書』)、田中義成『織田時代史』、桑田忠親『織田信長』(『角川新書』一九二)、今井林太郎『織田信長』 ... ...
7.織田信長
日本史年表
1555年〈弘治元(10・23) 乙卯⑩〉 4・20 織田信長 ,尾張清洲城の織田信友を滅ぼし,同城に移る(信長公記)。 1559年〈永禄2 己未〉 2・2 織 ... ...
8.おだ-のぶなが【織田信長】
日本人名大辞典
1534−1582 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)3年生まれ。織田信秀の子。永禄(えいろく)2年尾張(おわり)(愛知県)を統一。3年桶狭間(おけはざま) ... ...
9.織田信長
デジタル大辞泉プラス
山岡荘八の長編歴史小説。1955年刊行。 2013年05月 ... ...
10.おだのぶなが【織田信長】
日本架空伝承人名事典
付与して褒賞するなど、茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。[岩沢 愿彦]信長の人間像 織田信長の人間像は、同時代の武将たちとともに、いわゆる「太閤記の ... ...
11.織田信長[文献目録]
日本人物文献目録
揆』重松明久『織田信長』三浦恒夫『織田信長』碌山生『織田信長海内統一の理由』-『織田信長画像考』谷信一『織田信長が密勅を受けし年時』妻木『織田信長関係史蹟』小酒 ... ...
12.OdaNobunaga【織田信長】
Encyclopedia of Japan
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14.本願寺與二織田信長一和睦(見出し語:織田信長)
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15.浅井長政娶二織田信長妹一(見出し語:織田信長)
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16.祀二織田信長於建勳神社一(見出し語:織田信長)
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17.織田信長修二理道路橋梁一(見出し語:織田信長)
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18.織田信長停二止諸國關所一(見出し語:織田信長)
古事類苑
地部 洋巻 第3巻 607ページ ... ...
19.織田信長召二耶蘇©徒一(見出し語:織田信長)
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20.織田信長吝嗇(見出し語:織田信長)
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21.織田信長奉二願書於熱田神宮一(見出し語:織田信長)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 331ページ ... ...
22.織田信長婿入(見出し語:織田信長)
古事類苑
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23.織田信長建二南蠻寺一(見出し語:織田信長)
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24.織田信長建二總見寺一(見出し語:織田信長)
古事類苑
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25.織田信長爲二馬揃一(見出し語:織田信長)
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26.織田信長燒二延曆寺一(見出し語:織田信長)
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宗教部 洋巻 第4巻 559ページ ... ...
27.織田信長獻二大神宮造營料一(見出し語:織田信長)
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28.織田信長製二大判金一(見出し語:織田信長)
古事類苑
泉貨部 洋巻 第1巻 197ページ ... ...
29.織田信長諫二足利義昭一(見出し語:織田信長)
古事類苑
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30.織田信長造二營内裏一(見出し語:織田信長)
古事類苑
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31.織田信長造二營内裏一(見出し語:織田信長)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 40ページ ... ...
32.織田信長養女嫁二武田勝賴一(見出し語:織田信長)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1279ページ ... ...
33.織田信長印[図版]画像
国史大辞典
天下布武 天下布武 天下布武 天下布武 宝 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
34.織田信長花押[百科マルチメディア]
日本大百科全書
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35.織田信長花押[図版]画像
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36.織田信長関係要図[百科マルチメディア]
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37.おだのぶながきょかんあと【織田信長居館跡】岐阜県:岐阜市
日本歴史地名大系
居館は四階建であった。〔遺構〕前述の発掘調査の結果、中段部からは上層・下層の二時期の遺構が検出され、織田信長時代と考えられる上層遺構では幅四・五メートルで両側に ... ...
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日本大百科全書
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41.織田信長修二理道路橋梁一(見出し語:橋【篇】)
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42.織田信長追二墓平手政秀一(見出し語:平手政秀)
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43.布武天下(ふぶてんか)[織田信長印文]
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44.明智光秀弑二織田信長一(見出し語:明智光秀)
古事類苑
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46.平手政秀自殺而諫二織田信長一(見出し語:平手政秀)
古事類苑
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47.あいずみちょう【藍住町】徳島県:板野郡
日本歴史地名大系
存保は土佐長宗我部氏の侵入により天正八年逃亡したが、翌九年再度勝瑞城を回復した。天正一〇年六月本能寺の変で織田信長が没すると、その保護を失った三好氏は同年八月二 ... ...
48.あいだにむら【相谷村】滋賀県:神崎郡/永源寺町
日本歴史地名大系
屋」で三河商人の木綿荷が保内商人に没収された(永禄三年一一月九日「保内商人申状案」同文書)。織田信長は永禄二年(一五五九)春の上洛の帰途、相谷から八風峠を越えて ... ...
49.愛知(県)画像
日本大百科全書
天下は麻の如(ごと)く乱れ、庶民は塗炭の苦しみを味わった。いわゆる戦国時代である。天下を統一したのは織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康の3人であるが、偶然 ... ...
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世界大百科事典
の拡大と,農業技術の発展に伴う農業生産力の飛躍的増大によるところが大きい。戦国時代に出現した織田信長,豊臣秀吉,徳川家康が天下統一を成し遂げるに至った要因として ... ...
「織田信長」の情報だけではなく、「織田信長」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
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坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
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長宗我部盛親(国史大辞典)
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織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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