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七夕

ジャパンナレッジで閲覧できる『七夕』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

七夕
たなばた

7月7日あるいはその前夜の行事。本来は陰暦で行っていたが、現在は陽暦の7月7日に行う所が多い。東北地方などでは月遅れの8月7日に行っている。七夕は織女祭(しょくじょさい)、星祭(ほしまつり)などともいい、中国伝来の行事と、日本古来の伝承、さらに盆行事の一環としての行事など、さまざまな要素が入り混じって今日に伝承されている。
歴史的にみると、奈良時代には宮中の行事として、この日中国伝来の乞巧奠(きこうでん)が行われている。桃、梨(なし)、茄子(なす)、瓜(うり)、大豆(だいず)、干鯛(ひだい)、薄鮑(うすあわび)などを清涼殿の東庭に供え、牽牛(けんぎゅう)・織女の二星を祀(まつ)ったという。『延喜式(えんぎしき)』には織部司(おりべのつかさ)の行事として7月7日に織女祭が行われたというが、いずれも宮廷や貴族の習俗であった。室町時代になると七夕に歌を供える風(ふう)が入り、7という数にあやかって、7種の遊びを行ったという。さらに江戸時代には武家の年中行事としても定着し、五節供の一つに定められている。笹竹(ささたけ)に五色の紙や糸を吊(つ)るして軒端に立てる風も江戸市中にみられ、今日に近い七夕風景になってきた。しかし同じく江戸時代より、長野県松本地方では、各家々の軒端に七夕人形といって、板の人形(ひとがた)に子供の着物を着せて吊るし、その年生まれた子供の無病息災を祈願している風がある。あるいは、小さな紙の人形を紐(ひも)に連ねて吊るしている所もあり、いまも盛んに行われている。同じ七夕行事であるが、農民層には貴族・武家階級とはまた異なった習俗を伝承しているのである。
七夕の名称については、日本では古く神を迎え祀るのに、乙女が水辺の棚に設けた機屋(はたや)にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという伝承があり、これから棚機女(たなばたつめ)、乙棚機(おとたなばた)、さらに「たなばた」とよぶようになったという折口信夫(おりくちしのぶ)の説がある。七夕には一夜水辺にこもって禊(みそぎ)を行い、翌朝送り神に託して穢(けがれ)を持ち去ってもらうものであったともいい、現に各地に伝承される水浴の習俗はその名残(なごり)であるという。七夕にはかならず洗髪をするとか、食器類を洗うものだという地域は広くある。あるいは、関東地方の北部では、人も家畜(牛馬)も水浴びをし、睡魔(すいま)を川に流す「眠り流し」ということを行っている。観光で有名になっている青森県弘前(ひろさき)地方のねぶた行事も七夕の日であり、ねぶたは「佞武多」という字をあてているが、眠りを追い払う行事である。秋の収穫作業を控え、仕事の妨げとなる睡魔、悪霊を追い払う行事だったのである。
悪霊を祓(はら)うという思想は、水に流す、すなわち雨が降ることを願う習俗にもなっている。七夕には一粒でも雨が降ると豊作だ、反対に七夕に雨が降らぬと、牽牛と織女の二星が会って悪神が生まれ、疫病が流行するとか、作物のできが悪いという伝承もあって、中国伝来の星合せ伝説は日本の民俗のなかでは、禊の思想に包括されている。
中国では、この日、牽牛星(わし座のα(アルファ)星アルタイル)と織女星(こと座のα星ベガ)の二星が、天の川を挟んで年に一度相会う日となっている。牽牛は農時を知る基準となり、織女はその名の示すように養蚕や裁縫をつかさどる星とされていた。陰暦7月の初めころは、この二星が北東から南西に横たわる天の川を挟んで、人々の頭上に明るく見えるところから、擬人化して二星の相会う伝説が生まれたものである。この伝説は、日本の口承文芸のなかにも数多く語られている。
七夕の由来譚(たん)は、室町時代の『天稚彦物語(あめわかひこものがたり)』に、娘が大蛇と結婚する異類婚姻譚となって語られており、現に全国にすこしずつ語り口を変えて伝承されている。その骨子は天人女房の昔話である。
天女が水浴びをしていると、若者がかいまみて、一人の天女の羽衣を隠してしまう。羽衣のない天女は天に帰ることができず男の妻となる。子供が生まれ、その子供の歌から羽衣が穀物倉に隠してあることを知り、天女は羽衣をつけ、子供を連れて天に飛び去ってしまう。天女は別れるとき、瓜の種を残してゆく。男はこの瓜のつるを登って天上へ行く。天帝の難題を天女の援助によって解決するが、禁じられていた瓜を縦に割ってしまい、瓜から流れた水が大洪水となり、男は流されてしまう。この川が天の川で、天女は流されてゆく男に、7日7日に会おうといったのに、男は7月7日と聞き違え、年に一度7月7日にしか会えないようになってしまった。
七夕行事には、盆行事の一環としての要素も多い。この日盆道(ぼんみち)作りをするとか、盆の市(いち)が開かれるなどというもので、7月の満月の盆に対し、朔日(ついたち)との中間、7日ごろを目安として日を設定したもので、これに他の七夕の要素が複合して今日のような形式となったものであろう。中国伝来の乞巧奠は当初貴族に伝わり、それはこの日晴天を祈る星祭となり、乾燥文化圏の行事に属し、一方、日本古来の農神としての七夕は、民間に流布し盆行事とも結合して穢を祓う習俗となり、したがって雨天を望む湿潤文化圏の行事の要素をもっている。七夕はこの二つの複合習俗といえよう。
[鎌田久子]

©Shogakukan Inc.


七夕[百科マルチメディア]
七夕[百科マルチメディア]

五節供の一つである七夕(たなばた)に、笹竹(ささたけ)に五色の紙や糸を吊(つ)るし(短冊(たんざく)竹ともいう)、軒端に立てる風習は江戸時代から始まったといわれる。歌川国貞画『豊歳五節句ノ遊(ほうさいごせっくのあそび)』国立国会図書館所蔵


笹飾り[百科マルチメディア]
笹飾り[百科マルチメディア]

七夕(たなばた)の日の江戸の風景。笹竹(ささたけ)に吊(つ)るされる短冊(たんざく)には、ひょうたん、スイカ、魚などさまざまな形のものがあることがわかる。歌川広重(ひろしげ)画『江戸名所百景 市中繁栄七夕祭』国立国会図書館所蔵


仙台七夕まつり[百科マルチメディア]
仙台七夕まつり[百科マルチメディア]

宮城県仙台市©宮城県観光課


湘南ひらつか七夕まつり[百科マルチメディア]
湘南ひらつか七夕まつり[百科マルチメディア]

毎年7月に開催される平塚市の「湘南(しょうなん)ひらつか七夕(たなばた)まつり」は、戦後の復興を祈って1951年(昭和26)に始められた。神奈川県平塚市©Shogakukan


世界大百科事典

七夕
たなばた

旧暦の7月7日に行われる年中行事。中国を中心に,日本,朝鮮にも広がる。〈しちせき〉とも読まれる。7月7日を特別の祭日とする観念は,おそらく古い農耕儀礼に起源をもつのであろうが,文献資料にのこるものとしては後漢時代の崔寔(さいしよく)《四民月令》が最も古いものの一つである。そこには,この日に書物の虫干しをするほか,河鼓(かこ)(牽牛)と織女の二星が会合するのにあわせて,人々は願いごとをするという(牽牛・織女)。虫干しにされるのは衣服だともされ,衣服に祖霊が依り付くという古くからの信仰と考えあわせ,7月7日が元来,農耕儀礼に結びついた祖霊祭の日であったことが推定される。七夕に占いや願いごとがなされることが多いのも,もともと農作物の収穫を占ったことに出たのであろう。後漢時代の画像石や石雕に見える牽牛・織女とが両者一対で宇宙論的な配置関係をもつことから,この時代にもなお七夕の伝承が重い信仰観念を背後にもっていたことが知られる。

 しかし南北朝時代になると古い信仰的な要素は払拭されて,年中行事の一つとして初秋の行楽の日となる。南朝梁の《〓楚歳時記》は,7月7日の夜,牽牛と織女とが会合するが,それに際して,女性たちは7本の針に糸を通し,ささげ物をして針仕事の上達を祈るという。牽牛と織女とは夫婦であったが,天帝のきげんをそこねて年に一度,七夕にしか会えなくなったという物語も,後漢のころから徐々に発展しつつあり,南北朝中期ごろには,織女が鵲(かささぎ)が天漢(あまのかわ)にかけた橋をわたって牽牛を訪れる筋書きが固定したものと推定される。針仕事の上達を祈願するという風習の方は,乞巧奠(きつこうてん)と呼ばれ,近世の都市の繁盛記や宮中の歳時記に見られるように,さまざまな形態をとっているが,女性たちの祭日として今日までうけつがれている。また7月7日は北斗七星の第一星である魁星(かいせい)の神の誕生日だとされ,魁星が文運,とくに科挙の試験での運不運を支配すると信じられたところから,近世の読書人たちは七夕に魁星を祭った。
[小南 一郎]

日本の民俗

日本の七夕の行事はこの夜,天の川の両岸に現れる牽牛星(わし座の首星アルタイル。彦星,犬飼星)と織女星(こと座の首星ベガ)とが鵲の翼を延べたのを橋として天の川を渡り相会うという,中国の伝説を受けいれたことから興った。タナバタとは機を織ることから,その人をさすことになった古語であろうが,それが織女星に結びついたのである。中国の乞巧奠の行事に倣って日本でも宮中の節会(せちえ)の一つとなった。後世五節供(ごせつく)とよばれるものの一つとして,この夜庭前に供えものをし,葉竹に五色の短冊などを飾りつけ,子女の学問・技芸の上達を願う行事として広く行われるにいたった。織女星は神格化されて〈織り姫さま〉ともよばれ,短冊にも子女が競って願望を文芸的に表現し,きわめてうるおいのある風俗行事を発達させたといえる。

 この星祭とは別に,民俗上からとくに注目されるのは,この日を盆の一部として扱い,ナヌカボン(七日盆)とかナヌカビとよんで,精霊(しようりよう)を迎えるための準備を行う風が全国的に見られることである。カヤやマコモで馬をつくり,庭に置いたり,綱でつるしたり,屋根に上げるのは東日本に広く見られる。また,この日を墓掃除とか墓参り道の草刈り(ボンミチツクリ)とか仏壇の道具を洗い清める日などに決めている土地も多い。ことに子どもらの〈七度食べて七度水浴びする〉とか,牛馬に水浴させるとか,年に一度の共同井戸の井戸替えとて組中総出で行うとか,水に関連する習俗が見られる。七夕の日にきまって雨が降る,この日3粒でも降ったほうがよい,とか,およそ星祭とは縁の遠い,降雨についての言い伝えが往々にしてあり,土地によっては,河童供養とか水神(すいじん)祭の日としている。おそらく,祖霊を迎えて行う盆祭の準備段階としての,水による潔斎が重視されていたことの名残なのであろう。
[萩原 龍夫]

日本の七夕伝説

七夕伝説は,中国より伝来した外来のものである。しかし受容する側の日本の古代には,すでにこれを受け入れる素地があった。機織女(はたおりめ)の存在が記紀にみえるのもその一例である。もとの中国の七夕伝説は,織女星が主役である。華麗な車に乗り,鵲の掛橋を渡って,威風堂々と彦星のもとにやって来るのは織女星であった。しかしこれは日本の習俗に合わないために,渡河する星を彦星とし,逢う瀬を待つ星を織女星に変更したのである。地上の恋愛をそのまま天上に託したのが,《万葉集》の七夕歌である。歌数およそ百数十首,庶民的な七日の夜の川辺の歌である。8世紀の養老ころには,朝廷貴族の間に歌会も行われた。一方において,漢詩集《懐風藻》にみるごとく,七夕詩は中国詩の模倣であり,織女星が渡河するとされている。《古今集》にみえる七夕を詠んだ歌以後漢詩は別として,彦星が渡河の行動をとるように統一されるようになったのは,日本的なものへの移行といえる。室町時代初期の御伽草子《天稚彦(あめわかみこ)物語》は,異類婚姻譚を軸にした七夕の起源説話であり,また昔話の〈天人女房〉譚にも同様な七夕の起源譚をともなうものがある。
[小島 憲之]

朝鮮

朝鮮でも7月7日に牽牛・織女交会の日の伝説に基づいて中国の乞巧奠と同様,当夜婦女子は裁縫の上達を二星に祈る。また曬書・曝衣という書物や衣服の虫干しが行われる。一方農家では,この日には二星の別離の涙が降るのでこれで身を清め髪を洗えば厄払いになるといって沐浴したり,天穀鬼神が降りて来て穀物の収穫量を定める日であるとして休業する。このように中国風の星祭のほかに,元来この時期に朝鮮固有の農耕予祝儀礼が行われていたことが分かる。
[依田 千百子]

[索引語]
七夕 虫干し 牽牛 織女 乞巧奠 魁星 天の川 彦星 カササギ(鵲) 織り姫 七日盆 ナヌカビ(七日日) ボンミチツクリ 井戸替え 雨 機織女


国史大辞典

七夕
たなばた
七月七日に行われる星祭の行事。「しちせき」とも訓む。「七月七日、為〓牽牛・織女聚会之夜〓」(『荊楚歳時記』)とあるように、古代中国では牽牛はAquila(鷲座)のAltair、織女はLyra(琴座)のVegaをいい、この両星を擬人化し、一年に一度七月七日の夜天の川を渡って逢う瀬を楽しむとされた。この伝説と乞巧奠(きこうでん)の行事が中国から輸入され、わが国古代の棚機女(たなばたつめ)に関する信仰と習合されたとみられる。棚機女とは棚の機中にいる女の意で、村の神女の中から選り出されて神の嫁となる処女が、棚作りの建物に住んで神の訪れを待ち、来るべき神のために機を構えて布を織るという。これを棚機女・弟棚機(おとたなばた)といった(折口信夫)。「たなばた」は『源氏物語』ではすべて棚機つ女・棚機姫、つまり織女星の意に使われている。七月七日は令(りょう)に定めた節日の一つで、古来の神祭の日としての天皇相撲御覧と文人による七夕の賦詩の宴が行われたが、平安時代になり平城天皇の国忌により相撲の儀は変更され行事は分化し、星合・乞巧奠が盛んになった。古代中国では七は陽数であり、その重なる日に意義を認めた。牽牛星はもと農業生活を主とした上代漢民族の間で重視された。中国古典では天の川を渡るのに橋を用いるが、わが国の和歌では船とすることが多く、それも川というよりも海を渡るような意識が強いのは、天上を海と観ずる習慣からとみられる。また中国では織女が牽牛のもとを訪れる(父系家族制)のに対し、わが国では牽牛が織女のもとに通う(妻問婚)という形をとり、大陸文化の国風化がみられる。『万葉集』には二星会合の歌が多い。藤原教通は長和四年(一〇一五)七月七日の夜二星の会合を見たとしてその様子を藤原道長に語り、道長は「近代未聞事也、感懐不〓少」(『御堂関白記』)と記している。十六光年に二十六光年と遠く離れた星々が一夜のうちに動いて川を渡ることはありえないが、瞬き交わす清澄な光に浪漫的な天上への憧憬を見出したのであろう。銀河系宇宙である千億個の星の集団を横に見通した天の川や、二星が会するとき鵲(かささぎ)が翼を並べて天の川に渡すという想像上の「鵲の橋」も和歌に登場する。南北朝時代のころから七遊といい、七百首の詩歌、七調子の管絃、七十韻の連句・連歌、七百の毬、七献の酒など、七の数に掛けた各種の遊びも行われた。江戸幕府では諸大名が七夕の祝儀として使者をもって鯖代を献上する。江戸時代には五節供の一つとして広く一般にも行われ、和歌や願い事を書いた五色の短冊・色紙、切紙細工を笹竹につけて家ごとに掲げる楽しい祭となった。また、この日邪気を払うために索餅(さくべい)・冷素麺を食べることも行われた。なお遊里では七夕の故事から、きわめてまれにしか来ない客のことを七夕客といった。→乞巧奠(きこうでん)
[参考文献]
『古事類苑』歳時部、山中裕『平安朝の年中行事』(『塙選書』七五)、折口信夫「七夕祭りの話」(『折口信夫全集』一五所収)、同「たなばた供養」(同所収)、中西進「七夕」(山中裕・今井源衛編『年中行事の文芸学』所収)
(中村 義雄)


日本国語大辞典

たな‐ばた 【棚機・織女・七夕】

解説・用例

【一】〔名〕

(1)はたを織ること。また、その織機や織る人をもいう。その人が女であるところから、「たなばたつめ(棚機津女)」とも。

*古事記〔712〕上・歌謡「天なるや 弟(おと)多那婆多(タナバタ)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)」

*詩学大成抄〔1558~70頃〕三「厳君平にみせたれば、此はたなばたのきぬをる時に、はたの道具をゆるぐを、此石でをさゆる石なりと云たぞ」

(2)旧暦七月七日に織女(しょくじょ)星と、牽牛(けんぎゅう)星をまつること。また、その行事や、織女、牽牛の両星。この夜、天の川の両岸に現われる牽牛星と織女星が、カササギの翼を延べて橋とし、織女が橋を渡って相会うという中国の伝説が広く行なわれたもの。また、五節供の一つとして、同夜、庭前に供えものをし、葉竹に五色の短冊などを飾りつけ、子女が裁縫や書道など技芸の上達を願う祭。もと宮中の節会(せちえ)として行なわれていた中国の乞巧奠(きっこうでん)の行事と、在来の棚機(たなばた)の伝説が結びついたもの。以上のような行事とは別に、日本の農村では広く七夕を盆の一部と考えており、精霊(しょうりょう)様を迎える草の馬を飾り、水辺に出て水浴を行ない、墓掃除、衣類の虫干し、井戸さらえなどをする。七夕祭。星祭。七日盆。《季・秋》

*万葉集〔8C後〕八・一五一八題詞「山上臣憶良七夕歌十二首」

*伊勢集〔11C後〕「たなばたの日 あさまだきいでてひくらんけさのをに心ながさをくらべてしがな」

*米沢本沙石集〔1283〕五末・二「七夕の哥に、ぬきかふるたもともなければ七夕にしほたれ衣きながらぞかす」

*俳諧・炭俵〔1694〕上「堪忍ならぬ七夕の照り〈利牛〉 名月のまに合せ度芋畑〈芭蕉〉」

*浄瑠璃・妹背山婦女庭訓〔1771〕三「親の赦さぬ中垣に忍んで通ふこと叶はず。女雛男雛も年に一度は七夕の、逢瀬は有るにこのやうに」

*諸国風俗問状答〔19C前〕阿波国高河原村風俗問状答・七月・六七「星祭の事 此月七日、七夕と申て」

(3)香木の名。分類は真南蛮(まなばん)。香味は甘辛。六十一種名香の一つ。

*名香目録〔1601〕「七夕 真南蛮 ききふるめきすずしうして、たまさかなるかほり有」

(4)楊弓(ようきゅう)・大弓(だいきゅう)で、金銭を賭物(かけもの)にするときの七銭をいう。七騎弓(しちきゆみ)。

*類聚名物考〔1780頃〕調度部一五・貨財「銭を数ふる異称 所務的(今の矢代的なり)に銭を賭物にする時の辞有り(大和流弓矢に此書別にす、兵庫付矢捌と云ふ)此詞今も遣ふことなり。楊弓にてもいへり〈略〉七銭、七夕或七騎弓」

(5)きわめてまれに訪れて来ること。また、その人。七夕客。

*源氏物語〔1001~14頃〕東屋「この御有様、かたちを見れば、たなはたばかりにてもかやうに見たてまつり通はむは、いといみじかるべきわざかなと思ふに」

*雑俳・孔雀丸〔1722〕「君七夕とうらみ遊君」

*洒落本・船頭深話〔1802〕一「倉どんかおめへさむいのによくきたの〈略〉おらが内なんざア七夕にしておくがいいのさ」

【二】

〔一〕特に、織女星をいう。たなばたつめ。

*万葉集〔8C後〕一七・三九〇〇「多奈波多(タナバタ)し船乗りすらし真澄鏡(まそかがみ)清き月夜に雲立ち渡る〈大伴家持〉」

*宇津保物語〔970~999頃〕藤原の君「御琴しらべて、たなばたに奉り給ふほどに」

*枕草子〔10C終〕九九・五月の御精進のほど「賀茂の奥に、なにさきとかや、たなばたの渡る橋にはあらで」

*源氏物語〔1001~14頃〕帚木「立田姫と言はむにも、つきなからず、たなばたの手にも劣るまじく」

*山家集〔12C後〕下「七夕は逢ふをうれしとおもふらん我は別れの憂き今宵哉」

〔二〕謡曲。三番目物。廃曲。作者不詳。漢の武帝の勅使は、天上の有様を見るために、筏で川をさかのぼって天の川に至り、牽牛と織女に会い、天上の有様を見る。

語誌

(1)「たな」は水の上にかけだした棚の意とする説が有力。折口信夫は「たなばた供養」の中で「古代には、遠来のまれびと神を迎へ申すとて、海岸に棚作りして、特に択ばれた処女が、機を織り乍ら待って居るのが、祭りに先立つ儀礼だったのである。此風広くまた久しく行はれた後、殆、忘れはてたであらうが、長い習慣のなごりは、伝説となって残って行った。其が、外来の七夕の星神の信仰と結びついたのである」と述べ、「古事記」に見える「おとたなばた」にそのなごりを認めている。「万葉集」の時代には、日本古来の伝説と中国の伝説が混然としていて、「たなばた」も「たなばたつめ」も、地上のものとも天上のものとも区別のつかない表現となって用いられている。

(2)中国の漢詩文では、女性が男性のもとに「嫁入り」する婚姻形態を反映して、織女が天の川を渡って牽牛に会いに行くのが一般的であった。しかし古代日本では、男性が女性のもとに通う形が一般的であったため、「万葉集」の七夕を題材にした歌には、渡河の主体を中国の伝統にならって織女とするものと、日本の習俗にひかれて牽牛(彦星)とするものとが混在している。牽牛(彦星)が渡河し、織女がその訪れを待つという日本的な逢瀬の形に定着するのは、中古に入ってからである。

(3)七月七日の乞巧奠の行事が定着するに従って「懐風藻」や「万葉集」にも「七夕」の字が見られるが、その読みについては「しちせき」か「たなばた」か判然としない。

(4)語源については、古来諸説あり、「田なつもの(田から生ずる物、稲など)はたつもの」の略とする説〔関秘録・草盧漫筆〕、「たな」を「たね(種)」とする説〔東〓子〕、あるいは「た(手)な」とする説〔和句解〕などが見られる。

方言

(1)琴座の織女星。たなばたぼし〔─星〕静岡県庵原郡026香川県高見島・牛島014

(2)牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星の二星。たなばた香川県与島829たなばたぼし広島県走島014香川県829

(3)鷲座の牽牛星。たなばた広島県走島031

(4)虫、きりぎりす(螽〓)。たなばた長門†122

(5)虫、ばった(飛蝗)。たなばた長崎†020島根県石見725愛媛県840たなばたぎいす島根県石見725

(6)動物、やすで(馬陸)。たなばるむし〔─虫〕沖縄県那覇市975

(7)魚、ぎんぽ(銀宝)。たなばた山口県小野田市016

発音

〓タノバタ〔飛騨〕

〓[0]〓[0]

辞書

文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海

正式名称と詳細

表記

織女文明明応天正饅頭黒本易林書言ヘボン

七夕易林

棚機言海

図版

棚機【一】(2)〈奥村政信画〉
棚機【一】(2)〈奥村政信画〉

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日本国語大辞典
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21.七夕の節句(しちせきのせっく)【12か月のきまりごと歳時記】
生活便利帳
7月7日の夕方を意味する五節句の一つ。新暦でも7月7日で、一般に七夕(たなばた)と呼ばれる。これは彦星(牽牛星=わし座のアルタイル)と織姫(織女星=こと座のベガ ... ...
22.しっせきの鞠(まり)
日本国語大辞典
難波両家が毎年七月七日に催す蹴鞠(しゅうきく)の会。*俳諧・増山の井〔1663〕七月「飛鳥井家七夕の鞠」*俳諧・鼻紙袋〔1677〕七月「しっせきの鞠」 ... ...
23.たなばたいけこふん【七夕池古墳】福岡県:糟屋郡/志免町/田富村
日本歴史地名大系
[現]志免町田富三丁目 宇美川右岸の標高約四五メートルの丘陵先端部にある。国指定史跡。昭和四八年(一九七三)から同四九年にかけて調査された。川原石で葺石された三 ... ...
24.たなばたいそ【七夕磯】茨城県:日立市/会瀬村
日本歴史地名大系
別名女夫滝という二筋の滝が、七夕の夜一筋に合さるという話もある(日立市史)。栗田栗隠は「事蹟雑纂」でこの磯の波を「カタヲナミト云テ、四方ヨリ浪ウツナリ」とし、伊 ... ...
25.たなばた‐いち【七夕市】
日本国語大辞典
〔名〕七夕祭の日に立ついち。*浮世草子・新色五巻書〔1698〕二・一「年に一度の七夕市(タナバタイチ)、売買人棚を飾り、声に声を並べて蓮葉・刺鯖」 ... ...
26.たなばた‐うお[:うを]【七夕魚】
日本国語大辞典
〔名〕スズキ目タナバタウオ科の海産魚。全長一二センチメートルに達する。体は黒褐色で、顕著な斑紋はない。南日本以南、インド・西太平洋域に分布する。タイドプールや礁 ... ...
27.たなばた‐うた【七夕歌】
日本国語大辞典
〔名〕七夕にうたう民謡。東北・北海道のものが知られている。©[タ]<2> ... ...
28.七夕歌會(たなばたうたかい)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 165ページ ... ...
29.たなばた‐うま【七夕馬】
日本国語大辞典
〔名〕東日本の一部で、七夕の行事に藁(わら)でつくる馬。《季・秋》タナバタ©マ ... ...
30.たなばた‐おくり【七夕送り】
デジタル大辞泉
七夕が終わって飾り竹を川や海に流すこと。 ... ...
31.たなばた‐おくり【七夕送】
日本国語大辞典
〔名〕七夕の飾り竹を川や海に流すこと。《季・秋》《たなばたおくり》香川県仲多度郡829 ... ...
32.七夕踊
世界大百科事典
もと旧暦7月7日の七夕の日に行われた踊り。江戸時代初期から享保期(1716-36)にかけて,京都で少女が小町踊を七夕に踊るのが流行した。現在残っているもののうち ... ...
33.七夕踊(たなばたおどり)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第2巻 482ページ ... ...
34.たなばた‐おどり[:をどり]【七夕踊】
日本国語大辞典
にあらず。少女の人情に盆を待かねて、七夕よりをどる故の名なるべし」*風俗画報‐九七号〔1895〕人事門「七夕踊一名小町踊〈略〉正保頃の絵巻物に、七夕踊りの図を載 ... ...
35.七夕御遊(たなばたおんあそび)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第1巻 91ページ ... ...
36.七夕笠懸(たなばたかさがけ)
古事類苑
武技部 洋巻 第1巻 555ページ ... ...
37.たなばた‐かさがけ【七夕笠懸】
日本国語大辞典
*笠掛全記〔1758〕七夕笠掛之部(古事類苑・武技九)「一七夕笠掛は、七月七日、七所にて笠掛を一度づつ射るを云也」*笠懸之矢沙汰并日記之付様(古事類苑・武技九) ... ...
38.七夕飾り【12か月のきまりごと歳時記】画像
生活便利帳
祓うため、七夕飾りを川や海に流す風習がある。これを七夕送り、七夕流しともいう。[図・式]図:七夕飾り ... ...
39.七夕梶葉流[図版]画像
国史大辞典
拾遺都名所図会 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
40.七夕帷(たなばたかたびら)
古事類苑
服飾部 洋巻 第1巻 418ページ ... ...
41.たなばた‐きゃく【七夕客】
日本国語大辞典
びに来ない客。多く遊里でいう。たなばたさん。たなばた。*浄瑠璃・甲賀三郎窟物語〔1735〕三「七夕客(タナバタキャク)には梶の葉に」*洒落本・浪花花街今今八卦〔 ... ...
42.たなばた‐さま【七夕様・棚機様】
日本国語大辞典
〔名〕(「さま」は接尾語)「たなばた(七夕)」を敬っていう語。*狂歌・狂歌活玉集〔1740〕上「秋の風雲の通路吹とぢよ七夕さまをとうそまひと夜」*古今集遠鏡〔1 ... ...
43.たなばた‐さん【七夕様・棚機様】
日本国語大辞典
〔名〕(「さん」は接尾語)(1)「たなばたさま(七夕様)」に同じ。*歌謡・粋の懐〔1862〕三・二・大津絵節「一年一度が七夕(タナバタ)さんで」(2)「たなばた ... ...
44.たなばた‐ぜっく【七夕節供】
日本国語大辞典
〔名〕七月七日。たなばた。《たなばたぜっく》和歌山県日高郡054 徳島県美馬郡054 ... ...
45.たなばた‐たけ【七夕竹】
日本国語大辞典
〔名〕七夕の飾り竹。五色の短冊(たんざく)に和歌や文字を書いて葉竹につけるもの。短冊竹。《季・秋》*俳諧・文政句帖‐五年〔1822〕八月「涼しさは七夕竹の夜露か ... ...
46.たなばた‐づき【七夕月】
デジタル大辞泉
陰暦7月の異称。 ... ...
47.たなばた‐づき【七夕月】
日本国語大辞典
〔名〕(七夕祭の月にあたるところから)陰暦七月の異称。《季・秋》*蔵玉集〔室町〕「十二月異名〈略〉七〈略〉七夕月〈略〉家隆 かささきのよりはの橋も心せよ七夕月の ... ...
48.たなばたなす【七夕茄子】
日本国語大辞典
除いた全面に光沢のある紫黒色釉を施し、胴に沈線一本をめぐらし、底は糸切で、灰赤色のこまかい土からなる。底に「七夕」の二字が墨書されている。 ... ...
49.たなばた‐にんぎょう[:ニンギャウ]【七夕人形】
日本国語大辞典
〔名〕長野県松本地方で、七夕に作る紙の人形。タナバタニン©ョー ... ...
50.たなばたの御遊(おんあそび)
日本国語大辞典
七夕の際、七夕の字にちなんで、七に関係ある遊びをすること。七百首の歌、七調子の管弦、七献の御酒など。また、鞠(まり)・碁・花・貝おおい・楊弓・香などの七種類の遊 ... ...
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七夕(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
7月7日あるいはその前夜の行事。本来は陰暦で行っていたが、現在は陽暦の7月7日に行う所が多い。東北地方などでは月遅れの8月7日に行っている。七夕は織女祭、星祭などともいい、中国伝来の行事と、日本古来の伝承、さらに盆行事の一環としての行事など、さまざまな要素が入り混じって今日に伝承されている
七草(世界大百科事典・日本国語大辞典・日本大百科全書・国史大辞典)
七種とも書き,春の七草と秋の七草がある。春の七草〈せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草〉とうたわれたように,これらを春の七草と称し,この,ごぎょうはハハコグサ,はこべらはハコベ,ほとけのざはタビラコ,すずなはカブ,すずしろは大根とされる
重陽(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
9月9日の節供。陽数(奇数)の極である9が月と日に重なることからいい,重九(ちようきゆう)ともいう。中国行事の渡来したもので,邪気を避け,寒さに向かっての無病息災,防寒の意味もあった。菊花宴ともいい,685年(天武14)を起源とするが,嵯峨天皇のときには,神泉苑に文人を召して詩を作り,宴が行われていることが見え
端午(改訂新版・世界大百科事典)
中国にはじまり,朝鮮,日本でも行われる旧暦5月5日の節供。中国 蒲節,端節,浴蘭節などともいう。〈端〉は〈初〉の意味で,元来は月の最初の午の日をいった。十二支の寅を正月とする夏暦では,5月は午の月にあたり,〈午〉が〈五〉に通じることや陽数の重なりを重んじたことなどから,3世紀,魏・晋以後
節供(句)(改訂新版・世界大百科事典)
年中行事を構成する日。年に何回かある重要な折りめのことで,基本的には神祭をする日である。迎えた神に神饌を供して侍座し,あとで神人共食することによってその霊力を身につけようとするもので,氏神祭や正月,盆も重要な節供といえよう。小豆粥を食べる正月15日を粥節供,あとで神人共食することによって
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おせち料理(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
おせちはお節(せち)、すなわち五節供(ごせっく)の意で、中国渡来の年中行事であるが、その代表的なものは正月の節供なので、節供料理すなわちおせち料理は正月料理の意になっている。五節供は人日(じんじつ)(1月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)
菊の節句(重陽の節句)(日本国語大辞典・平成ニッポン生活便利帳)
五節供の一つ。陰暦九月九日の節供。重陽の節。菊の日。菊節供(きくぜっく)。菊花節(きっかせつ)。《季・秋》*浮世草子・好色五人女〔1686〕二「菊(キク)の節句(セック)より前にあはし申すべしといへば」*浄瑠璃・用明天皇職人鑑〔1705〕
五節供(日本大百科全書・国史大辞典)
1月7日の七草、3月3日の雛祭、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽の五つの節供をいう。これらの節日はいずれも中国伝来の要素がみられる。1月7日は中国で人日という。これは東方朔の占書に、正月1日に鶏を占い、2日には狗を占い、3日には羊を占い、4日には猪を占い、5日には牛を占い、6日には馬を占い
節供(句)(改訂新版・世界大百科事典)
年中行事を構成する日。年に何回かある重要な折りめのことで,基本的には神祭をする日である。迎えた神に神饌を供して侍座し,あとで神人共食することによってその霊力を身につけようとするもので,氏神祭や正月,盆も重要な節供といえよう。小豆粥を食べる正月15日を粥節供,あとで神人共食することによって
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