『大日本史料』五ノ二 嘉禄元年九月二十五日条、間中富士子『慈鎮和尚の研究』、同『慈鎮和尚及び拾玉集の研究』、赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』、同『続鎌倉仏教の研究』、多賀宗隼『慈円の研究』
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平安時代末,鎌倉時代初頭の僧侶,歌人。《愚管抄》の著者。摂関藤原忠通の子。母は藤原仲光の娘加賀局。兄の基実,基房,兼実は摂関,兼房は太政大臣になった。生まれた翌1156年(保元1)に保元の乱が起こったが,乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父,敗死した頼長は叔父にあたる。2歳で母を,10歳で父を失った慈円は,65年(永万1)に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり,67年(仁安2)天台座主明雲を戒師として受戒得度した。摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇したが,80年(治承4)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は,世俗化した延暦寺にあきたらず,隠遁したいと考えたが,保護者であった同母兄の兼実(九条兼実)に説得されて思いとどまった。そのころ慈円と名を改めたものと思われる。親幕派の代表者となった兼実は,源頼朝の力が安定するにつれて公家社会で指導力を増し,それとともに延暦寺における慈円の地位も上がった。慈円は歌人としても認められ,宮廷でも重んぜられていたが,92年(建久3)には頼朝と兼実の推挙によって38歳の若さで天台座主となり,1203年(建仁3)には大僧正に任ぜられた。しかし,兼実の政界での浮沈に応じて4回天台座主に任命されるというように,その地位は安定していなかった。兼実の没後,慈円は兼実を祖とする九条家の発展に尽くし,兼実の娘で後鳥羽上皇の后の任子,兼実の孫道家の後見となり,道家の姉立子の順徳天皇への立后につとめた。そうしたなかで源実朝の死後,道家の子頼経が鎌倉に迎えられ,天皇,摂政,将軍をすべて九条家の勢力で占める体制に近づいたころが,護持僧,歌人としても後鳥羽上皇に重んぜられていた慈円の絶頂の時期であった。しかし後鳥羽上皇は討幕に傾き,21年(承久3)承久の乱が起こると,慈円の計画は瓦解し,失意の慈円は,25年近江坂本の小島坊で没した。没後13年目の37年(嘉禎3)に慈鎮和尚の名が贈られた。
僧侶として栄達をきわめた慈円は,勧学講を興し,如法経懺法,西方懺法を行うなど,比叡山の仏法の独自性を示し,自坊の白川坊に大懺法院(だいせんぼういん),吉水坊に熾盛光堂(しじようこうどう)を建てるなど台密の復興に尽くした。慈円は,比叡山が高い権威と大きな力を保ちえた時代の最後を飾る座主であったといえよう。歌人としては,後鳥羽上皇の和歌所の寄人となり,《新古今和歌集》には,西行についで91首もの歌が選ばれている。慈円の歌は技巧に走らず,清明な心境を詠んだものが多く,家集《拾玉集(しゆうぎよくしゆう)》には4600余首が収められている。〈おほけなくうき世の民におほふかな我がたつそまにすみ染の袖〉は百人一首の歌として知られている。慈円は,当時文学芸能の中心の一つであった九条家の一員として知られたために,和歌や芸能についての説話にしばしば登場し,慈円とつながりがあったとされる浄土教の僧も多く,親鸞の戒師であったとも伝えられた。しかし,現在では中世の特異な歴史書《愚管抄》の著者として,思想史上重要な人物と考えられている。
日本大百科全書(ニッポニカ)
鎌倉初期の天台宗の僧、歌人。諡 (おくりな)は慈鎮 (じちん)。父は摂政 (せっしょう)藤原忠通 (ふじわらのただみち)、母は藤原仲光 (なかみつ)の女 (むすめ)、女房加賀。九条兼実 (くじょうかねざね)の同母末弟。久寿 (きゅうじゅ)2年4月15日の生まれ。1165年(永万1)11歳で延暦寺 (えんりゃくじ)に入り、青蓮院門跡 (しょうれんいんもんぜき)の覚快 (かくかい)法親王(1134―1181)の弟子となる。13歳で出家し、道快 (どうかい)と称して密教を学んだ。1181年(養和1)慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝 (みなもとのよりとも)の後援で後鳥羽 (ごとば)天皇の摂政となるや、その推挽 (すいばん)により1192年(建久3)37歳で天台座主 (ざす)となり、天皇の御持僧となった。頼朝とも親交を結んで政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久 (けんきゅう)~承久 (じょうきゅう)(1190~1222)の間30年にわたる祈祷 (きとう)の生涯を展開する。保元 (ほうげん)の乱(1156)以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱 (とくだつ)の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領があった。1193年、座主を辞し、東山の吉水 (よしみず)の地に営んだ祈祷道場大懺法院 (だいせんほういん)に住んでいたため吉水僧正 (そうじょう)とよばれたが、その後も三度、つごう四度天台座主に補せられている。後鳥羽院とは、このように師檀 (しだん)の関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治に関しては対立。彼は院の方針に危険を感じ、ついに1219年(承久1)院の前を去る。以後入滅まで四天王寺別当の地位にあった。承久の乱(1221)後、新たに大懺法院を整備して、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開するが、病のため嘉禄 (かろく)元年9月15日、比叡山 (ひえいざん)の麓 (ふもと)の坂本で没した。
慈円の学統は台密三昧 (さんまい)流をくみ、とくに安然 (あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多い。政治にも強い関心をもち、『愚管抄 (ぐかんしょう)』7巻を著した。その文学の愛好と造詣 (ぞうけい)とは数多くの和歌となり、家集『拾玉集 (しゅうぎょくしゅう)』だけでも6000首以上を数え、『新古今和歌集』には現存歌人として最高の92首がとられている。後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞している。『平家物語』成立の背景には彼の保護があったとも伝えられている。
2017年8月21日
おほけなくうき世の民におほふ哉 (かな)わかたつ杣 (そま)にすみそめの袖 (そで)
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