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  11. 慈円

慈円

ジャパンナレッジで閲覧できる『慈円』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典

慈円
じえん
一一五五 - 一二二五
鎌倉時代前期の天台宗の僧。初名道快、諡慈鎮、無動寺法印・吉水僧正とよばれた。久寿二年(一一五五)四月十五日生まれる。父は関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀。同母兄に兼実・道円・兼房ら、異母兄に基実・基房・覚忠らがあった。二歳で母に、十歳で父に別れ、権中納言藤原経定の未亡人に養われた。永万元年(一一六五)十一歳で延暦寺の青蓮院門跡に入り、第二代門主覚快法親王に侍した。仁安二年(一一六七)十三歳で出家、法名を道快と称した。嘉応二年(一一七〇)同親王の解文により一身阿闍梨に補せられ、ついで法眼に叙せられた。このころ、延暦寺の無動寺をはじめ、江文寺、および当時無動寺領となった西山の善峰寺などで修行を積んだ。治承二年(一一七八)には法性寺座主に任ぜられた。やがて仏法興隆のために交衆することを決意して下山入京する。養和元年(一一八一)法印に叙せられ名を慈円と改めている。この年、師覚快法親王の入滅に遭った。引きつづいて三昧院・法興院・常寿院・極楽院の検校や別当を兼ねたが、翌寿永元年(一一八二)無動寺検校に補せられ、無動寺法印とよばれた。同年十二月、全玄に従って灌頂を受け台密三昧流の法燈をついだ。寿永三年以後、兄九条兼実が後鳥羽天皇のもとに政権をとるに及んで慈円は平等院執印・法成寺執印を兼ね、建久三年(一一九二)後白河院他界ののちには天台座主・権僧正として後鳥羽天皇の護持僧に任ぜられ、朝廷・公家の祈祷によって仏法興隆に挺身することとなった。建久六年叡山大乗院に勧学講を開いて叡山の学解の推進、学僧の養成を期したが、その用途として源頼朝より越前国藤島荘を寄せられた。建久七年九条家の政治的失脚とともにその職位を辞して籠居したが、後鳥羽上皇の眷顧によって朝廷のための祈祷を再開した。建仁元年(一二〇一)座主に還補し、祈祷の功を以て翌々三年、大僧正に任ぜられた。前権僧正より直叙された初例である。元久二年(一二〇五)自房三条白川房に大懺法院をたて、祈祷の道場としたが、後鳥羽院の命によってこの地を院に進じ、祇園の森の東の吉水の地にこれを移し整えて大成就院とした。これより吉水僧正とよばれた。承元元年(一二〇七)四天王寺別当に補せられたが間もなく辞して西山に籠居して閑地に就くこと五年に及んだ。この間もしきりに院の勅喚を蒙り、しばしば祈祷に任じている。建暦二年(一二一二)三たび座主となり、同年叡山東塔に開いた新青蓮院に住した。翌建保元年(一二一三)座主を辞した。同年四天王寺別当となり、また天台座主となった。四度の座主就任の初例である。このころ病あり、牛車の宣を蒙った。しかし、一方、院との間に政見などをめぐって対立を生じ、承久元年(一二一九)、院の前から退いて祈祷を中止した。この時に上った十首の歌が存する。同時に、しきりに神仏に願文を捧げて公武の協調を祈り、『愚管抄』の成立もこの間に在るかと思われる。承久三年乱の勃発、公武の衝突に傷心したが、翌貞応元年(一二二二)これより先、焼失した大成就院を、朝廷から返還された白河の故地に再建して祈祷再開を図った。再興願文には、朝廷と武家将軍とを併せ祈って公武のための祈祷の道場とすることを新たに規定した。また建保元年以来入滅まで引きつづき四天王寺別当であったのでその絵堂の復興整備にも尽力し、また叡山には山王十禅師の礼拝講を整えるなど、老病を推して叡山と四天王寺と両寺の興隆のために周旋奔走している。この間、門跡の将来を思って身後の計を定め、かねて建暦三年に起草した譲状を改めて、後鳥羽院の皇子たる弟子朝仁(道覚)親王に擬して来た門跡の相承を、幕府を憚って、あらためて弟子良快宛とした。嘉禄元年(一二二五)九月二十五日、叡山山麓の東坂本大和荘において多くの弟子に囲繞されて、七十一歳の生涯をとじた。世人は一世の識者を喪ったと哀惜した。その後十三年、嘉禎三年(一二三七)三月八日、四条天皇より慈鎮の諡をおくられた。慈円は延暦寺に遮那業を修め三昧流をくんで山門仏法の正統派を以て任じた。源空の浄土宗の興起と時を同じうしたが真向からこれに反対の意を表明している。叡山の先輩中とくに安然の思想を継承して幾多の著作をのこした。『〓〓(ビセイ)』『法華私記』『〓盧遮那別行経私記』『本尊縁起』などがその主なものであり、また語録に『四帖秘決』がある。またこの叡山仏法の立場から日本の通史『愚管抄』をかいて独自の史観を示し、公武合体の政治を謳歌し、同時に九条家の政治的立場を擁護した。また和歌を能くして当時の歌壇に重きをなし、『新古今和歌集』撰進のための和歌所の寄人にも加えられ、同集の入選歌数は西行についで第二位、九十二首に及んでいる。家集を『拾玉集』といい、数千首の歌を伝存している。文学の世界においては大きく貢献したが、学解才芸ある人と交わり、なかんずく、『平家物語』もその庇護した人の手に成ったとも伝えられている。→愚管抄(ぐかんしょう),→九条兼実(くじょうかねざね),→拾玉集(しゅうぎょくしゅう)
[参考文献]
『大日本史料』五ノ二 嘉禄元年九月二十五日条、間中富士子『慈鎮和尚の研究』、同『慈鎮和尚及び拾玉集の研究』、赤松俊秀『鎌倉仏教の研究』、同『続鎌倉仏教の研究』、多賀宗隼『慈円の研究』
(多賀 宗隼)


世界大百科事典

慈円
じえん
1155-1225(久寿2-嘉禄1)

平安時代末,鎌倉時代初頭の僧侶,歌人。《愚管抄》の著者。摂関藤原忠通の子。母は藤原仲光の娘加賀局。兄の基実,基房,兼実は摂関,兼房は太政大臣になった。生まれた翌1156年(保元1)に保元の乱が起こったが,乱の原因をつくった忠実は慈円の祖父,敗死した頼長は叔父にあたる。2歳で母を,10歳で父を失った慈円は,65年(永万1)に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり,67年(仁安2)天台座主明雲を戒師として受戒得度した。摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇したが,80年(治承4)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は,世俗化した延暦寺にあきたらず,隠遁したいと考えたが,保護者であった同母兄の兼実(九条兼実)に説得されて思いとどまった。そのころ慈円と名を改めたものと思われる。親幕派の代表者となった兼実は,源頼朝の力が安定するにつれて公家社会で指導力を増し,それとともに延暦寺における慈円の地位も上がった。慈円は歌人としても認められ,宮廷でも重んぜられていたが,92年(建久3)には頼朝と兼実の推挙によって38歳の若さで天台座主となり,1203年(建仁3)には大僧正に任ぜられた。しかし,兼実の政界での浮沈に応じて4回天台座主に任命されるというように,その地位は安定していなかった。兼実の没後,慈円は兼実を祖とする九条家の発展に尽くし,兼実の娘で後鳥羽上皇の后の任子,兼実の孫道家の後見となり,道家の姉立子の順徳天皇への立后につとめた。そうしたなかで源実朝の死後,道家の子頼経が鎌倉に迎えられ,天皇,摂政,将軍をすべて九条家の勢力で占める体制に近づいたころが,護持僧,歌人としても後鳥羽上皇に重んぜられていた慈円の絶頂の時期であった。しかし後鳥羽上皇は討幕に傾き,21年(承久3)承久の乱が起こると,慈円の計画は瓦解し,失意の慈円は,25年近江坂本の小島坊で没した。没後13年目の37年(嘉禎3)に慈鎮和尚の名が贈られた。

 僧侶として栄達をきわめた慈円は,勧学講を興し,如法経懺法,西方懺法を行うなど,比叡山の仏法の独自性を示し,自坊の白川坊に大懺法院(だいせんぼういん),吉水坊に熾盛光堂(しじようこうどう)を建てるなど台密の復興に尽くした。慈円は,比叡山が高い権威と大きな力を保ちえた時代の最後を飾る座主であったといえよう。歌人としては,後鳥羽上皇の和歌所の寄人となり,《新古今和歌集》には,西行についで91首もの歌が選ばれている。慈円の歌は技巧に走らず,清明な心境を詠んだものが多く,家集《拾玉集(しゆうぎよくしゆう)》には4600余首が収められている。〈おほけなくうき世の民におほふかな我がたつそまにすみ染の袖〉は百人一首の歌として知られている。慈円は,当時文学芸能の中心の一つであった九条家の一員として知られたために,和歌や芸能についての説話にしばしば登場し,慈円とつながりがあったとされる浄土教の僧も多く,親鸞の戒師であったとも伝えられた。しかし,現在では中世の特異な歴史書《愚管抄》の著者として,思想史上重要な人物と考えられている。
[大隅 和雄]

[索引語]
九条兼実


日本大百科全書(ニッポニカ)

慈円
じえん
[1155―1225]

鎌倉初期の天台宗の僧、歌人。諡 (おくりな)は慈鎮 (じちん)。父は摂政 (せっしょう)藤原忠通 (ふじわらのただみち)、母は藤原仲光 (なかみつ)の女 (むすめ)、女房加賀。九条兼実 (くじょうかねざね)の同母末弟。久寿 (きゅうじゅ)2年4月15日の生まれ。1165年(永万1)11歳で延暦寺 (えんりゃくじ)に入り、青蓮院門跡 (しょうれんいんもんぜき)の覚快 (かくかい)法親王(1134―1181)の弟子となる。13歳で出家し、道快 (どうかい)と称して密教を学んだ。1181年(養和1)慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝 (みなもとのよりとも)の後援で後鳥羽 (ごとば)天皇の摂政となるや、その推挽 (すいばん)により1192年(建久3)37歳で天台座主 (ざす)となり、天皇の御持僧となった。頼朝とも親交を結んで政界・仏教界に地位を築き、仏教興隆の素志実現の機を得、建久 (けんきゅう)~承久 (じょうきゅう)(1190~1222)の間30年にわたる祈祷 (きとう)の生涯を展開する。保元 (ほうげん)の乱(1156)以来の無数の戦死者や罪なくして殺された人々の得脱 (とくだつ)の祈りに加え、新時代の泰平を祈るところに慈円の本領があった。1193年、座主を辞し、東山の吉水 (よしみず)の地に営んだ祈祷道場大懺法院 (だいせんほういん)に住んでいたため吉水僧正 (そうじょう)とよばれたが、その後も三度、つごう四度天台座主に補せられている。後鳥羽院とは、このように師檀 (しだん)の関係も深く、また歌人としても深く傾倒しあっていた間柄であったが、武家政治に関しては対立。彼は院の方針に危険を感じ、ついに1219年(承久1)院の前を去る。以後入滅まで四天王寺別当の地位にあった。承久の乱(1221)後、新たに大懺法院を整備して、朝廷と幕府とのための祈りとして行法を再開するが、病のため嘉禄 (かろく)元年9月15日、比叡山 (ひえいざん)の麓 (ふもと)の坂本で没した。

 慈円の学統は台密三昧 (さんまい)流をくみ、とくに安然 (あんねん)の思想を受けること深く、教学の著も多い。政治にも強い関心をもち、『愚管抄 (ぐかんしょう)』7巻を著した。その文学の愛好と造詣 (ぞうけい)とは数多くの和歌となり、家集『拾玉集 (しゅうぎょくしゅう)』だけでも6000首以上を数え、『新古今和歌集』には現存歌人として最高の92首がとられている。後鳥羽院は、その歌を「西行がふり」とし、「すぐれたる歌はいづれの上手にもをとらず、むねとめつらしき様を好まれき」と推賞している。『平家物語』成立の背景には彼の保護があったとも伝えられている。

[多賀宗隼]2017年8月21日

 おほけなくうき世の民におほふ哉 (かな)わかたつ杣 (そま)にすみそめの袖 (そで)

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慈円の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 744
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検索コンテンツ
1. 慈円
日本大百科全書
法親王の弟子となる。13歳で出家し、道快(どうかい)と称して密教を学んだ。1181年(養和1)慈円と改名。兄の兼実が平氏滅亡後、源頼朝(よりとも)の後援で後鳥羽 ...
2. nbsp;慈円
世界大百科事典
た。そのころ慈円と名を改めたものと思われる。親幕派の代表者となった兼実は,源頼朝の力が安定するにつれて公家社会で指導力を増し,それとともに延暦寺における慈円の地 ...
3. じえん【慈円】
デジタル大辞泉
[1155〜1225]鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。諡号(しごう)は慈鎮。天台座主(ざす)。「愚管抄」の著者。家集「拾玉集」がある。吉水 ...
4. じえん[ジヱン]【慈円】
日本国語大辞典
平安末、鎌倉初期の天台宗の僧。諡は慈鎮。慈鎮和尚、吉水の僧正と通称する。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。天台座主を四度つとめた。「愚管抄」を著わし、歌集に「拾玉 ...
5. じえん【慈円】
全文全訳古語辞典
[人名]⇒慈円  ...
6. じえん【慈円】
国史大辞典
やがて仏法興隆のために交衆することを決意して下山入京する。養和元年(一一八一)法印に叙せられ名を慈円と改めている。この年、師覚快法親王の入滅に遭った。引きつづい ...
7. 慈円
日本史年表
1220年〈承久2 庚辰〉 この頃 慈円, 『愚管抄』 を著す。 1225年〈嘉禄元(4・20) 乙酉〉 9・25 没。 1237年〈嘉禎3 丁酉〉 3・8 朝 ...
8. じえん【慈円】
日本人名大辞典
1155−1225 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。久寿2年4月15日生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。天台宗。覚快(かくかい)法親王の ...
9. 慈円[文献目録]
日本人物文献目録
重郎『慈円と密教思想 正続』多賀宗隼『慈円と隆寛』菊地勇次郎『慈円と良尋』多賀宗隼『慈円における神・仏の関係』安津素彦『慈円における人間観と教育思想』結城陸郎『 ...
10. じゑん【慈円】
全文全訳古語辞典
[人名]平安末期・鎌倉初期の僧・歌人。諡は慈鎮。関白藤原忠通の子。天台座主をつとめ、当時の一流歌人藤原俊成・定家父子らと親交があった。『新古今和歌集』には西行に ...
11. Jien 【慈円】
Encyclopedia of Japan
1155−1225 Buddhist prelate, poet, and historian. A member of the leading branch  ...
12. 慈円花押[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
13. じえんじ【慈円寺】岡山県:勝田郡/勝央町/植月東村
日本歴史地名大系
)の戦火により植月北の日吉山王宮の裏山に移転し、当初日吉山神宮寺と称した。正徳四年(一七一四)慈円寺に改称、宝暦三年(一七五三)現在地に移る。「東作誌」によると ...
14. 小倉百人一首(95) 歌人/慈円(前大僧正慈円)[百科マルチメディア]
日本大百科全書
な わかたつそまにすみそめのそで定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/おほけ慈円(じえん)(前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん))菱川師宣(ひしかわ ...
15. あきしのむら・ほんごうむら【秋篠村・本郷村】奈良県:奈良市/秋篠・富雄地区
日本歴史地名大系
秋篠や外山の里や時雨るらむ生駒の嶽に雲のかかれる 西行(新古今集)旅の空秋ぞ悲しき秋篠の鹿と虫とに枕ならべて 慈円(拾玉集) ...
16. あき の 雪(ゆき)
日本国語大辞典
れ〈紀貫之〉」*正治初度百首〔1200〕秋「白菊は秋の雪とも見ゆるかなうつろふ色を冬の花にて〈慈円〉」*春夢草〔1515〜16〕発句・秋「紅葉ばにこしの白ねや秋 ...
17. あき を 込(こ)む
日本国語大辞典
*新古今和歌集〔1205〕夏・二七八「雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出でぬ荻のうへかな〈慈円〉」 ...
18. あ・ける【明・開・空】
日本国語大辞典
歌集〔1205〕冬・六九九「年の明(あけ)て浮世の夢のさむべくは暮るとも今日はいとはざらまし〈慈円〉」*日葡辞書〔1603〜04〕「トシガ aquru (アクル ...
19. あさじ=が[=の]月(つき)
日本国語大辞典
*新古今和歌集〔1205〕秋下・五二一「長月もいく有明に成りぬらんあさぢの月のいとどさびゆく〈慈円〉」*玉葉和歌集〔1312〕秋下・六五一「露をみがく浅茅が月は ...
20. 排蘆小船(近世随想集) 372ページ
日本古典文学全集
『初学考鑑』「新古今集にいたりて、後鳥羽上皇をはじめ、後京極殿、定家卿、家隆卿、雅経卿、僧には慈円僧正、寂蓮など、おなじ世に肩をならべひざをくみて、此道興せり」 ...
21. 排蘆小船(近世随想集) 374ページ
日本古典文学全集
古今にて貫之、躬恒、忠岑等、千載集にて俊成、定家、新古今にて上皇、定家、家隆、雅経、寂蓮、後京極、慈円、新勅撰にて定家、為家、…此等をよくよく工夫して見べきなり ...
22. あだ‐わらい[:わらひ]【徒笑】
日本国語大辞典
〔名〕あだな笑い。いたずらな笑い。つまらぬ笑い。無用の笑い。*慈円鷹百首〔15C中〜後か〕「それ鷹の雪の梢の村からすあだわらひして枝に離るな」 ...
23. あと を 付(つ)ける
日本国語大辞典
阿止豆久」*新古今和歌集〔1205〕冬・六七九「庭の雪にわが跡付けて出でつるをとはれにけりと人や見るらん〈慈円〉」*菟玖波集〔1356〕雑四「誰かさて岩間に跡を ...
24. 穴太荘
世界大百科事典
本所にあおぎながら,永らく荘を相伝知行した。一方,1206年(建永元)の慈円起請文では,桜下(本)門跡荘園の一つとして穴太薗が聖覚僧都から慈円に譲られており,同 ...
25. あらぬ 筋(すじ)
日本国語大辞典
*新古今和歌集〔1205〕雑下・一七五六「うちたえてよにふる身にはあらねどもあらぬすぢにも罪ぞ悲しき〈慈円〉」 ...
26. ありあけさん【有明山】長野県:南安曇郡
日本歴史地名大系
ゝ有明の山にかゝるむらくも 後鳥羽院(続古今集)おぼろなる月は入ぬる峰にまた花に光の有明の山 慈円(拾玉集)照りかはる紅葉を峰の光にてまづ月ほそき有明の山 藤原 ...
27. ありあけ の 波(なみ)
日本国語大辞典
有明の月の映る波。*正治初度百首〔1200〕上「月影を袖にかけてもみつるかな須磨のうきねの有明の波〈慈円〉」 ...
28. ありだがわ【有田川】和歌山県:有田郡
日本歴史地名大系
害があり、同四二年清水町に二川ダムが完成した。世を厭ふ心ばかりはありた川岩に砕けて住みぞ煩ふ 慈円(拾玉集) ...
29. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
程度で、多少はあるが日に三、四回入湯している。そのほかにも承久三年(一二二一)九月の元天台座主慈円(門葉記)、安貞元年(一二二七)以来数度の西園寺公経・実氏父子 ...
30. ある か=無(な)きか[=無(な)き・無(な)しか・無(な)いか]
日本国語大辞典
和歌集〔1205〕雑下・一八二七「思ふべきわが後の世はあるかなきかなければこそは此世にはすめ〈慈円〉」書言【依 ...
31. あんがのしょう【奄我庄】京都府:福知山市
日本歴史地名大系
おそらく徳大寺公能の子孫「六条法印」から領家職が慈鎮(慈円、青蓮院門跡で天台座主を勤めた)に寄進されたのであろう。同年四月日付天台座主慈円配分状(同書)には一  ...
32. あんさかわちむら【梓河内村】滋賀県:坂田郡/山東町
日本歴史地名大系
ついて山論があった(日向文書)。明治七年(一八七四)に目河内村を合併。天台宗常福寺・真宗大谷派慈円寺・浄土宗龍沢寺・八幡神社があり、同社には応永元年(一三九四) ...
33. あんようじ【安養寺】
国史大辞典
京都市東山区円山公園内にある時宗の寺。延暦年中(七八二―八〇六)最澄の開創、建久年間(一一九〇―九九)慈円居住の吉水房跡という天台系寺院であったが、国阿随心に霊 ...
34. あんようじ【安養寺】 : 安養寺/(一)
国史大辞典
京都市東山区円山公園内にある時宗の寺。延暦年中(七八二―八〇六)最澄の開創、建久年間(一一九〇―九九)慈円居住の吉水房跡という天台系寺院であったが、国阿随心に霊 ...
35. あんようじ【安養寺】京都市:東山区/粟田口村/南畑地図
日本歴史地名大系
時宗へ〕その後の経緯は明確でないが、建久年中(一一九〇―九九)に天台座主慈鎮(慈円)が中興して隠棲、吉水坊また慈円大乗院安養寺と称し、青蓮院(現東山区)に属した ...
36. あんらくじ【安楽寺】京都市:左京区/鹿ヶ谷村地図
日本歴史地名大系
・六時礼讃の禁圧による法然法難の発端の舞台として知られる。住蓮・安楽の事件は「愚管抄」巻六で、慈円が次のように記している。安楽房トテ、泰経入道ガモトニアリケル侍 ...
37. いかだちのしょう【伊香立庄】滋賀県:大津市/北部地域
日本歴史地名大系
無動寺領伊香立庄がみえ、無動寺を領家、京都青蓮院を本所としている。貞応元年(一二二二)六月日の慈円置文(同書)には「伊香立庄」とみえ、同年六月の青蓮院門跡領年貢 ...
38. いく‐かすみ【幾霞】
日本国語大辞典
*南海漁父北山樵客百番歌合〔1195頃〕「みよし野の花のさかりを思ひやる心はそらにいくかすみしつ〈慈円〉」 ...
39. いくの【生野】京都府:福知山市/生野村
日本歴史地名大系
ば生野へ越る唐櫃に収めて秋は行くにか有るらん 西行(山家集)草枕いそぐいく野に今宵また君故ならで結ぶべきかは 慈円(拾玉集)大江山いく野の道の長き夜に露をつくし ...
40. いさ と よ
日本国語大辞典
合〔1202〜03頃〕一三八五番「いづかたぞたつみの鹿も風の音もいさとよいかに聞きぞ分かれぬ〈慈円〉」*延慶本平家物語〔1309〜10〕三・有王丸油黄島へ尋行事 ...
41. いし-ぶみ【碑・石文】
全文全訳古語辞典
いられることは、(私には)知ることができません。全部書いてくださいよ、お手紙に。源頼朝ノ歌デ、慈円ノ「思ふこといさ陸奥のえぞ言はぬ壷の石ぶみ書き尽くさねば」トイ ...
42. 一休ばなし(仮名草子集) 284ページ
日本古典文学全集
やぶりたる人とはいひがたし。我も貧のぬすみなれば、偸盗戒をやぶりたるとはえいふまじき也 初期の天台宗の僧。慈円。吉水の僧正と通称する。関白藤原忠通の子。九条兼 ...
43. 一心寺
世界大百科事典
大阪市天王寺区にある浄土宗の寺。山号は坂松山。法然が1185年(文治1)慈円の請いを受け,四天王寺の西門辺,荒陵(あらはか)と呼ばれた現地に仏堂を建て,新別所と ...
44. いっしんじ【一心寺】
国史大辞典
大阪市天王寺区逢坂上之町にある浄土宗鎮西義の寺。山・院号は坂松山高岳院。文治元年(一一八五)四天王寺の別当慈円の創建で、同寺の新別所と称し、浄土宗の祖源空につい ...
45. いっしんじ【一心寺】大阪府:大阪市/天王寺区/中小路町地図
日本歴史地名大系
筆と伝える一心寺縁起(寺蔵)および「新撰往生伝」によると文治元年(一一八五)春、法然が四天王寺別当慈円の要請で、古来荒陵とよばれてきた四天王寺西門前の現在地に草 ...
46. いつ【何時】
日本国語大辞典
〉」*新古今和歌集〔1205〕秋上・三六〇「み山路やいつより秋の色ならん見ざりし雲の夕暮の空〈慈円〉」*徒然草〔1331頃〕二九「いかなるをり、いつの年なりけん ...
47. いつつじどのあと【五辻殿跡】京都市:上京区/嘉楽学区/西五辻東町地図
日本歴史地名大系
られ(阿娑縛抄)、八月八日に後鳥羽上皇が新御所の五辻殿へ移った(百錬抄)。元久三年二月二二日、慈円が当御所で薬師法を修したが(門葉記)、「愚管抄」には「コノ春三 ...
48. いつつ の 色(いろ)
日本国語大辞典
」*新勅撰和歌集〔1235〕神祇・五五八「志賀の浦にいつつのいろの波たてて天くだりける古の跡〈慈円〉」 ...
49. 逸文参考(風土記) 574ページ
日本古典文学全集
也。其後、伝教大師・弘法大師・慈覚大師、続以修行之、各以法楽之。(慈円『拾玉集』巻第五、五五八三番歌左注〈『新編国歌大観』第三巻〉)〈尾張の国〉 尾張国号 風土 ...
50. いなげのしょう【稲毛庄】神奈川県:川崎市
日本歴史地名大系
元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(県史一)によれば稲毛新庄は娘の宜秋門院任子に譲られ、本庄は弟の慈円の管領する近江の比叡山大乗院に寄付されている。ま ...
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平家物語(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きをたてる。釈迦入滅の時に、白色に変じたという沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の道理を表している。驕り高ぶった人も、末長く驕りにふける事はできない、ただ春の夜の夢のようにはかないものである。勇猛な者もついには滅びてしまう
平曲(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『平家物語』の詞章を琵琶の伴奏で弾き語りする語物の一種。「平家琵琶」「平語」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。 [シルヴァン・ギニアール]歴史と流派。13世紀初めに雅楽・声明・盲僧琵琶の三者を源流として成立。
慈円(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一一五五-一二二五。鎌倉時代前期の天台宗の僧。初名道快、諡慈鎮、無動寺法印・吉水僧正とよばれた。久寿二年(一一五五)四月十五日生まれる。父は関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀。同母兄に兼実・道円・兼房ら、異母兄に基実・基房・覚忠らがあった。二歳で母に、十歳で父に別れ、権中納言藤原経定の未亡人に養われた。
琵琶法師(改訂新版・世界大百科事典)
琵琶を伴奏にして叙事詩を語った盲目の法師形の芸能者。7世紀末ころに中国より伝来した琵琶は,管絃の合奏に用いられる一方,盲僧と結んで経文や語り物の伴奏楽器とされた。《今昔物語集》には琵琶にすぐれた宇多天皇の皇子敦実親王の雑色蟬丸が,盲目となって逢坂山に住んだが,そのもとに源博雅が3年間通って秘曲を伝授される話を
殿上闇討(日本古典文学全集・世界大百科事典)
その先祖を調べてみると、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王の九代の子孫にあたる讃岐守正盛の孫であり、刑部卿忠盛朝臣の嫡男である。あの葛原親王の御子、高視王は無位無官でお亡くなりになった。その御子高望王の時に、初めて平の姓を賜って


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